ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【水】「してはいけない」を「そもそもできない」に変えることで防げるトラブルがある

 

 おはようございます。道徳の授業が嫌いです。という話は度々このブログに書いているので、ご存知の方も多いかもしれません。子どものころから大嫌いでした。だからこそ、自分が先生として授業をするときには苦労しました。詳しくはリンク先の記事を読んでみてください。

taishiowawa.hatenablog.com

 なんのためにこんな話をしているのかというと、秋に転校してきた子どもがこんなことを言っていたのです。「先生の授業を受けてはじめて道徳をおもしろいと思った」と。このことばを聞いて、何かの皮肉かと思いました。自分が嫌いで嫌いで仕方がなかった教科を、教え子はおもしろいと言っているのです。この現象自体がなんともおもしろいものです。どうも、インクです。

 

「してはいけない」を「そもそもできない」に変えることで防げるトラブルがある

  学校には「してはいけないルール」がたくさんあります。廊下を走ってはいけない。人のものを勝手に触ってはいけない。シャーペンを持ってきてはいけない。並んでいる前の人を抜かしてはいけない。これらの「してはいけないルール」は、怪我や喧嘩などのトラブルを未然に防止するために存在します。しかし、よく起こる現象として、この「してはいけないルール」を破ること自体がトラブルになるというものがあります。

 

 先生!〇〇さんが廊下走ってた!

 

 というやつです。これだけならまだいいのですが、ここから発展して「注意したのに聞いてもらえなかった」だの「注意したら『うるさいわ!ばーか!』と言われた」だのと、くだらないトラブルに繋がることも往々にしてあります。

 こんな子どもたちに、いくら「廊下を走ってはいけません!」と言ったところであまり意味がありません。なぜなら、廊下を走ってはいけないことくらい、とっくに知っているからです。廊下を走っている子どもたちはそれを知った上で走っているのです。ここで、大人がよく言ってしまうのが「どうして走ったの!怪我をするかもしれないでしょ!」というセリフです。子どもたちにこのセリフはまあ響きません。だって実際に怪我をしていないんだもの。実際に怪我をしていないのに、どれだけ怪我をするかもしれないと言われても、いまいちピンとこないのです。なんなら、怪我をすること自体にもそこまでの恐れを感じてはいないのでしょう。

 つまり、これらの「してはいけないルール」の「トラブル未然防止」は、どちらかと言えば大人の都合だということです。大人がなるべくトラブルを防ぎたいと思っているのです。これがまた「子どものため」だと言い張るからややこしいんですよね。子どもに向かって「あなたのために言っているんでしょ!」なんて言い始めたらもう最悪です。何度も言いますが、子どもたちには「トラブルを想定してあらかじめそうならないように注意しよう」なんていう発想はありません。いくら「あなたのため」だと言われても、よけいなお世話でしかないのです。

 このように考えていくと、子どものために大人にできることはひとつです。それは「してはいけないルール」を「そもそもできない」にすることです。廊下での衝突による怪我を防ぐために、そもそも廊下を走れない環境をつくってしまうのです。極端な例にはなりますが、廊下にあのグニャッと曲がる赤いポールを立ててもいいかもしれません。ジグザグに歩かせるために、本棚を互い違いに配置してもいいかもしれません。反対に「走ってもいいコース」をつくるなんていう方法もおもしろいかもしれません。このような環境づくりこそが大人の仕事だと言えるのではないでしょうか。

 以下のような意図的なぐねぐね道や、錯覚を用いた縁石のイラストなんて、まさにこの考え方から生まれてきたものですね。

f:id:taishiowawa:20191218054405j:plain

f:id:taishiowawa:20191218054559j:plain

 以前もどこかで書いたような気がしますが、うちのクラスではチョークをケースに入れて保管しています。子どもたちの落書きを「そもそもできない」ようにするためです。落書きくらいいいじゃないかと思うかもしれませんが、黒板に「死ね」と書かれていてトラブルになるなんてザラにある話です。犯人探しにかける時間ほどもったいないものはありませんし、全員が嫌な気持ちになって終わります。もちろん「死ね」と書いた本人が悪いのかもしれませんが、筆者はその子に書ける環境を与えてしまった先生が悪いと思っています。

 キングコングの西野さんは、このような考え方を「性弱説」と呼んでいました。人ははじめから弱い心を持っているという考え方です。たとえば、机の上に置かれていた財布を盗んでしまった人がいたとします。この人は性格が悪いから盗んだのではなく、弱い心を抑えることができずに盗んでしまいました。この人の弱い心を掻き立ててしまった原因はなんでしょう。そうです、机の上に財布を置きっぱなしにしたことです。そもそもはじめから机の上に財布がなければ、この人が盗んでしまうことなんてなかったのです。このように、人の弱い心を掻き立てるような環境をはじめからつくらない。これが大切だと述べていました。

 まさに学級経営そのものだと思います。先生の役割は「してはいけません!」と注意し続けることではありません。「そもそもできない」環境をつくることです。もしかすると、子どもたちと一緒に考えてみてもおもしろいかもしれません。「そもそもできない」ようにするためにはどんな工夫をしたらいいと思う?

 

 

  そろそろ時間なので、今日の道徳の授業はここまでです。どうでしたか。こんな道徳の授業。おもしろいでしょ。「人の心を考える」とは、こういうことだと思っています。心のことだけをうんうん考えていても、結局は「廊下を走らないように意識する強い気持ちが大切」だとか「走っている人がいたら勇気をもって注意してあげないといけない」だとか、くだらない意見しか出てきません。たしかに行動を決めるのは心なのかもしれませんが、その心は環境に大きく左右されるのです。だとしたら、変えるべきは環境です。そもそも心を変えるだなんて、そう簡単にできることではありません。環境を変えると行動が変わり、行動が変わるともしかしたら心も変わるかもしれない。このような順番で考えていくべきなのかもしれません。