おはようございます。声に出して読みたくなることばってありますよね。「墾田永年私財法」なんて長くて難しいことばなのに、誰もがあっという間に覚えてしまいます。「東海道中膝栗毛」なんてもう最高ですね。「膝栗毛」って。
「リオネル・メッシ」とかもいいですよね。「クリスティアーノ・ロナウド」もなかなかイケてます。「ジャッキー・チェン」や「ブルース・リー」なんてのも逸材です。外国人であれ、声に出したくなるようなリズムをもっていれば、すぐに覚えられるというわけです。自分のハンドルネームも、もっと言いたくなるような名前にすればよかったかもしれないなあ。どうも、インクです。
その人だからこそ言えたことばが知らぬ間に他の人に伝わっていると悲しい
その人だからこそ言えたことばが知らぬ間に他の人に伝わっていると悲しい
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) 2019年11月20日
「相手にとったら、自分は『数多くの友だちのひとり』でしかない」と思って、なんだか勝手に悲しくなってしまうことはありませんか。友だちが多い人と一緒にいると、いつもこんな風に思います。しかし、だからと言って、友だちが少ない人といると、それはそれで疑り深くなってしまいます。「友だちがいない」だなんて言っておきながら、「どうせ本当はいるんでしょ」と思ってしまうのです。
もちろん、誰とどんな付き合いをするかなんて、その人の自由ですから、こちらがとやかく言うことはできません。ただ、その人の後ろにいる人たちのことを想像すると、どうしても一歩引いてしまうのです。
特に話の内容は慎重になってしまいます。その人だからこそ言えたことばが、知らぬ間に他の人へと伝わっていることがあるからです。別に「秘密にしておいてね」と頼んだわけでもないので、誰に話すのもその人の自由なのかもしれません。しかし、他の人に伝わっていたことを知ると、「あなただからこそこの話ができたのにな」と思ってしまうのです。
だからといって、他の人にも伝わることを前提として話をするとなると、内容がかなり限定されてしまいます。信用できない人なんて世の中にたくさんいますからね。たとえその人のことを信用できたとしても、その後ろに繋がっている人たちのことまで信用できるとは限らないのです。
子どもの頃からずっとこんなことを思っていました。自分のいないところで、自分の話をされるのが大嫌いでした。だからこそ、誰にも「自分の話」をしなくなっていきました。徹底的に壁を作り上げていったのです。
簡単に言えば、自意識過剰だったのでしょう。誰も自分のことなんて気にしちゃいません。でも、それを踏まえた上で、やはり「自分」という素材をオープンにすることはできなかったのです。
だから、大人たちからは「自分を出せ」だの「殻を破れ」だのとよく言われてきました。その度に「うるせえよ」と思い続けてきました。閉ざしているくせに、そんな強さはもっていました。「自分を出せ」ということばは「今のお前はだめだ」という人格否定ですからね。今でも大嫌いなことばです。絶対に他の人に向かってこのことばをつかうことはありません。
そんな思春期に溜め込んだ自意識が、今の自分をつくっています。このブログの記事にも存分に表れている「ひねくれ」はこのころにできあがったものたちです。そんな自意識は、「生きづらさ」の原因になっていましたが、今となってはいい素材です。
今こうして少しずつオープンに表現していくときに、他の人とは少し違うものが出てくるからです。他の人が持ち合わせていない、気持ちの悪いドロドロしたものを、表現に混ぜ込んでいくことができます。過去の苦しみが、今では武器になるということです。過去を全肯定することはできませんが、うまく扱いながら、ひとつの材料にしていけたらいいなと思っています。
このような、精神的な部分のお話はもっと思うところがあるし、もっと言いたいことがあります。なんなら今日の記事で変に書こうとしてしまったせいで、中途半端になってしまったような気もします。また、休みの日にでも、時間をかけてゆっくり書きたいと思います。だから、今日の記事はあまり真に受けないでくださいね。