ツイートの3行目

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【月】「ごんぎつね」の続きを考えましょうという活動はあまりにもナンセンスな気がする

 

 おはようございます。早起きをしても、結局は今日の予定について考えてしまうので、朝にゆとりをもたせることができません。どうも、インクです。

 

「ごんぎつね」の続きを考えましょうという活動はあまりにもナンセンスな気がする

  4年生の国語の教科書に載っている新美南吉『ごんぎつね』、懐かしく感じる人も多いのではないでしょうか。あらすじは以下の通りです。

 百姓である「兵十」にいたずらばかりしていた小ぎつね「ごん」が、兵十の母の死をきっかけに償いを始めます。山で採った栗や松茸をこっそり兵十の家に届けるのがごんの日課になりました。兵十はそれらを神様からの贈り物だと思っていました。しかし、そんなある日、ごんは兵十に姿を見られ、火縄銃で撃たれてしまいます。兵十は、撃った後に、贈り物を届けてくれていたのがごんであったことを知るのでした。

 一見すると「かわいそうなきつねのお話」に見えるのですが、そんなに単純なお話ではありません。このお話を読み解く鍵となるセリフがふたつあります(正確には心象ですが)。

 ひとつ目は、兵十の母が亡くなったと知ったときのごんのセリフ「おれと同じ、ひとりぼっちの兵十か」です。 市販のテストの模範解答を見ると、ここには「兵十がかわいそう」とか「いたずらをして申し訳なかった」というごんの気持ちが込められていることになっているのですが、果たして本当にそうでしょうか。個人的な解釈になりますが、ここにはごんの喜びが込められていると思っています。「ようやく孤独を分かち合える相手をみつけた」という喜びです。そのように読むと、物語全体の解釈も変わっていきます。

 ふたつ目のセリフは、兵十が栗や松茸を神様からの贈り物だと思っていると知ったときのごんのセリフ「おれがくりや松たけをもっていってやるのに、そのおれにはお礼を言わないで、神様にお礼を言うんじゃあ、おれは引き合わないなあ」です。先ほどの解釈を前提とすると、このセリフからは「分かち合える仲間である兵十に気づいてほしい」というごんの思いが読み取れます。

 そして、最終場面、ごんの思いはようやく兵十に届くのですが、それは銃でドンと撃たれたあとだったのです。兵十に気づいてもらえたことで、ようやくごんは孤独の苦しみから解放されます。しかし、その夢が叶った瞬間に、命の灯火は消えていくのです。この儚さこそが、『ごんぎつね』という物語の美しさではないでしょうか。

 ちなみにごんがその後、命をとり止めたのか、そのまま亡くなってしまったのかは描かれていません。そこを明記するのは、どう考えても野暮でしょう。それにも関わらず、小学校の先生は「物語の続きを書いてみましょう」という活動をよく行います。その活動は一番やってはいけないだろ!と思います。作者が意図的に描かなかった場面を、無理やり描こうとする行為はあまりにもナンセンスで失礼な気がします。

 

 

 実験的に短めの記事を投稿し始めてみたわけですが、それにしてはちょっと内容 が重い気もしますね。明日からはもっとテキトーなことを書きたいと思います。今日も一日がんばりましょう。