ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

授業における動機づけは所詮つくりもの

 

 MYKITAのめがねとiPad Airの分割払いで金欠を極めています。現金がなくてもなんとか生きていけるものですね。ただ、キャッシュレス化が遅すぎる日本ではまだまだお店を選ばなければなりません。電子マネー決済とまではいかずとも、未だにクレジット決済ができないお店は今後どうしていくつもりなのでしょうか。どうも、インクです。

 

授業における動機づけは所詮つくりもの

  多くの教師が頭を悩ませるのは、各単元の1時間目「導入」です。ここで、子どもたちにどこまで興味・関心を抱かせることができるかによって、その単元の定着度が変わってきます。言わば、教師の腕の見せどころです。

 一方で、この「導入」で行われる動機づけは、どこまでいっても所詮はつくりものでしかないというジレンマを抱えています。どれだけ、教師が言葉巧みに意欲を引き出そうとも、それは本当の意味で子どもたちの内から湧き出てきたものではありません。

 例えば、4年生の国語の教材(光村図書)に「クラブ活動リーフレットを作ろう」という単元があります。4年生から始まるクラブ活動を、まだクラブ活動を経験したことがない3年生に紹介しようというものです。教師としては、いかに「3年生に紹介するために分かりやすく書こう!」と思わせられるかが勝負になるわけです。

 ぶっちゃけたことを言うと、この動機づけはかなり厳しいです。ふだん学校生活を送っている中で「3年生にクラブ活動を紹介したい!」と思っている子どもがいると思いますか?仮にいたとして、「リーフレット」という形が本当に最適な手段だと思いますか?もし自分が、本当に「3年生にクラブ活動を紹介したい!」と思ったとしたら、実際に3年生をクラブ活動に連れていくと思います。サッカークラブなら一緒にサッカーをするし、まんがクラブなら一緒にまんがを描きます。それらの選択肢を一切取り除いた上で、「リーフレット」に限定している時点で、大人の都合で「やらされる活動」でしかないのです。

 もちろん、この「やらされている感」をなくしていくのが教師の仕事だと言うこともできます。ただ、それって子どもたちを騙しているのと同じですよね。本当に紹介したいとは思っていないのに、折り合いをつけさせて紹介させる。本当に書きたいとは思っていないのに、大人の都合に合わせて文章を書かせる。だから勉強は「嫌々やるもの」になってしまうのです。

 授業における動機づけは所詮つくりものでしかない。まずは教師自身がこの前提を自覚しなければならないと思います。一生懸命「導入」を考えたのに、子どもたちの食いつきがよくなかったと嘆いている場合ではありません。週末の思い出をみんなの前でスピーチしたい子どもなんていません。将来の夢を作文用紙に書きたい子どもなんていません。

 では、子どもたちが本当に話したいことってなんだろう。書きたいことってなんだろう。心から話したいと思ったときに、話せる環境はできているだろうか。書きたいと思ったときに書ける環境はできているだろうか。子どもたちの興味・関心をこちらに引っ張ってくるのではなく、こちらから子どもたちの興味・関心に寄っていくべきなのではないかと思っています。

 

 

意欲が失われることを恐れて「できない」を自覚させる機会を大人が奪いがち

  子どもたちが授業でひときわ輝く瞬間があります。それは、教師に「残念!考え直しておいで!」と言われたときです。プライドが高く、自信満々に回答した子どもほど、とてもいい顔をします。言うまでもありませんが、そこには「絶対に自分の力で正解を導き出してやる!」という強い思いがあるのです。

 きっと、教師がつくりものとして提供できる動機づけの中でもっとも効果があるのがこのやり方です。子どもたちの「なにくそ根性」を引き出すのです。そうすると子どもたちは、むしろ教師が説明することを嫌がるようになります。答えを言われたくないのです。負けず嫌いの子どもは、ヒントでさえ嫌がります。ここに「自己解決能力」が育ち、「学び合い」が生まれるのです。

 近年は「ほめる指導」に注目が集まり、十分すぎるほど大人が子どもに気をつかうようになりました。間違った答えをもってきた子どもに対して、教師は「そういう考え方もあるね」と言うのです。自己肯定感を下げないようにするためだそうです。こうして大人が、子どもたちの意欲が失われることを恐れて「できない」を自覚させる機会を奪っているのです。「あれもいいね」「これもいいね」と言われたら、そりゃあ「なんだっていいんじゃないか」と思いますよね。

 いつかの記事でも書いたかもしれませんが、物事を前進させるためにはどこかに否定が必要です。不便だと思うからこそ便利を求めます。間違っているからこそ正解を求めます。知らないからこそ知りたいと思います。これが勉強です。動機の多くは負の感情から生まれるのです。もしかすると、教師に必要なのは「肯定力」ではなく、子どもたちの意欲を引き出す「否定力」なのかもしれません。

 

 

「自分の本を出版して学級文庫に並べよう」と原稿用紙を置いてみたら大盛況

  2学期に入ってから実験的に始めてみたのですが、思っていたよりも子どもたちが意欲的に取り組んでいて驚きました。あっという間に原稿用紙がなくなり、今では十数冊のオリジナル学級文庫が教室の本棚に並んでいます。このときに改めて、子どもたちは書くことが嫌いなのではなく、書きたくもないことを書くのがきらいなんだということを思い知りました。今では4コマまんがの枠も原稿用紙と一緒に並べています。起承転結の構成ってすごくいい勉強になるんですよね。

 これからは、読者の感想を伝える機会をつくりたいなと思っています。やはり、作者としては読者の意見を聞いてみたいと思うはずです。また、反応が返ってきたら、次作への意欲にも繋がります。悩んでいることとしては、「記名させるかどうか」と「否定的な意見を許容するかどうか」です。

 無記名・内容自由にしたときに危惧されることとしては、まさにインターネット掲示板のような状態になることです。質の低いコメントや否定的なコメントで作者が傷つく可能性があります。先ほど「物事を前進させるためには否定が必要だ」と述べましたが、相手のためにならない質の悪い否定は、それこそ自己肯定感を下げることに繋がります。

 しかし、その一方で、子どもたちがこれから出ていく世界はそんな世界です。実名による肯定的な意見ばかりが並ぶ世界ではありません。ましてや「肯定的な意見しか書いてはいけない」世界なんておもしろくないんですよね。作者としては「肯定してもらえるかな?否定されるかな?」というドキドキがおもしろいのです。はじめから肯定されると分かっていれば、その緊張感を味わうことができなくなります。

 そのように考えていくと、ひとつの結論に至ります。それは、子どもたちに否定の仕方を教えることです。物事を前進させる「よい否定」とただただ相手を傷つける「わるい否定」を一緒くたにして「否定はよくないことだ」と教えてきたせいで、否定の仕方を知らない人が増え、インターネットを中心に誰も得をしないやりとりが数多く行われています。コメント制を実施する前にまずはこの問題を解決しないといけないなと思いました。

 

 

 特に理由はありませんが、ここまでのブログは1記事につき3ツイートを取り上げて書いてきました。書くことを苦に思ったことはありませんが、何せ時間がかかるのが難点です。そのせいで週に1回程度しか記事をあげることができていません。

 そこで少し試してみようと思っているのが、1記事1ツイートの毎日投稿です。ここ最近のトレンドは朝配信らしいので、毎朝6時ごろに投稿できたらいいなあ。果たしてそんなことが本当にできるのか。悩んでいても仕方がないのでとりあえずやってみようと思います。これまでよりも短い記事になると思うので、朝トイレで力みながら読んでいただけると幸いです。