ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

僕はまるでちがってしまったのだ

 

 生クリームよりカスタード。ぬるい生クリームは最悪です。どうも、インクです。

 

「正直」が題材になっている道徳の授業で「馬鹿正直」ということばを紹介する

  一番嫌いな教科を聞かれたら、間違いなく道徳と答えます。子どものころから大嫌いでした。はっきりとした答えがあるのに、答えがないと言い張っているところ。答えにまっすぐ進まずに、わざと回り込むところ。多様な意見を認めると言いながら、排除するところ。そんなところが本当に嫌いです。

 しかし、教師という立場にある限り、道徳を避けて通ることはできません。だからと言って、「家族を大切にしようね」「嘘をつくのはよくないね」「約束を守ると心がぽかぽかするね」だなんて、拷問を受けたとしても言いたくありません。

 考えに考えたあげく、道徳の授業では「とにかく揺さぶる」ことを第一に意識するようになりました。例えば、直近で学習した教材のテーマは「正直」でした。「正直」のために書かれた道徳用の文章なので、中身はもちろんお察しの通りです。登場人物が正直な行いをして報われてよかったね〜というお話です。ヘドがでますね。

 当然ですが、子どもたちだって一度読んだらわかるのです。「あ、正直は素晴らしいということを言いたいんだな」ということくらい。それなのに、わざわざ「登場人物はどんな気持ちだったかな?」とか、「どうして最後笑顔になれたのだろう?」とか聞くわけです。子どもたちからしたら「大人が求めている答えをさがすゲーム」でしかありません。

 話を戻すと、「正直」というテーマの教材で子どもたちを揺さぶるために、「馬鹿正直」という言葉を紹介しました。言葉の意味を説明した後に、「この登場人物、馬鹿正直じゃない?」と尋ねるとぽかーんとしていました。子どもからすれば「あれ、正直はいいことだ!で終わりじゃないの?」というようすです。

 その問いを投げかけた後は子どもたちに任せます。「あれ、もしかしたら馬鹿正直なのかもしれない」という意見も出れば、「いや、みんな幸せになっているから正直に言ってよかったんだ」という意見も出てきます。その結果、「やっぱり正直はいいことだ」というところに着地しても構いませんし、「時には正直ではない方がいいこともある」というところに着地しても構わないのです。

 「命」がテーマの教材には「殺虫剤」を。「マナー」がテーマのの教材には「目的」を。「郷土」がテーマの教材には「海外移住」を。「仲間」がテーマの教材には「人による違い」を。「家族」がテーマの教材には「ひとりぐらしの楽しさ」を。

 対にあるテーマの魅力をぽんと放り込んでやるだけで、道徳の授業は、まだ頭をつかって考える授業になるのではないかと思っています。

 

 

谷川俊太郎の詩はドヤ顔が見え隠れするから苦手

  日本で一番稼いでいる詩人は、間違いなく谷川俊太郎です。今では絵本作家や翻訳家としても活躍していますが、本職は「詩人」です。日本中さがしても、詩で食っていける人は谷川俊太郎くらいではないでしょうか。

 しかし、これまた昔から、谷川俊太郎の書く詩はあまり好みではありません。どうも書き手のドヤ顔が浮かんできて、作品世界に入り込めないのです。

 たとえば、谷川俊太郎の代表作とも言える『生きる』の中に次のような連があります。

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

 後半3行の表現はとても素敵だなと思います。「かくされた悪を注意深くこばむこと」の前に「そして」という接続詞をはさむところや、「そして」だけで改行するところなどは美しいなと思います。

 しかし問題は「それは〇〇」の部分です。「ミニスカート」「プラネタリウム」「ヨハン・シュトラウス」「ピカソ」「アルプス」と脈絡のないことばが続きます。こうも脈絡がないと、人間は関係性を求めてしまいます。「ミニスカートの次にプラネタリウムが続くということはこういうことなのではないか」とか、「ピカソはキュビズムの創始者だからこれこれを象徴しているのではないか」とか。

 呂布カルマも言っていました。「深読みしてくれるやつ、愛してるぜ」と。この詩においてもまさにそうですよね。もちろん解釈は自由ですが、深読みしている人はだんだん滑稽に見えてきます。谷川俊太郎の手のひらで踊らされているのです。

 そこまで踏まえて読むとだんだんドヤ顏が見えてきませんか。

 

それはヨハン・シュトラウス!!!!!!(ドヤ!)

 

 

僕はまるでちがってしまったのだ 

  谷川俊太郎の悪口のようなことを書いてしまいましたが、リスペクトはしています。本当に、これほどまでに結果を残した詩人はまずいませんから。

 谷川俊太郎以外の詩人をひとり紹介します。黒田三郎という方です。『紙風船』という詩が小学校の教科書にも掲載されているので、もしかすると知っている方もいるかもしれません。広島県出身の詩人で、今はもう亡くなっています。この黒田三郎の『僕はまるでちがって』という詩に大学生のころに出会い、それ以降いろいろな作品を読み漁りました。

僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じネクタイをして
昨日と同じように貧乏で
昨日と同じように何にも取柄がない
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じ服を着て
昨日と同じように飲んだくれで
昨日と同じように不器用にこの世に生きている
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
ああ
薄笑いやニヤニヤ笑い
口を歪めた笑いや馬鹿笑いのなかで
僕はじっと眼をつぶる
すると
僕のなかを明日の方へとぶ
白い美しい蝶がいるのだ 

  この、暗さの中にユーモアが光るかんじがとてもよいですね。「なるほど」のつかい方が、本来のつかわれ方とは少し違っていて、その違和感も含めて絶妙なバランスを保っています。なぜだか説明できませんが、この詩を読むと太宰治を思い出します。

 詩の醍醐味は声に出して読むことだと思っています。お気に入りポイントは、リズムをつくるためにつかわれているであろう「ああ」と末尾の「のだ」です。ぜひ声に出して読んでみてください。

 

 

僕はまるでちがってしまったのだ

なるほど昨日と同じ靴をはいて

昨日と同じように死んだ魚の眼をしている

それでも僕はまるでちがってしまったのだ