ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】行事前の黒板のメッセージはたぶん思っているより子どもには響いていないよ

 

 おはようございます。大学生のころに、必修の介護体験として、約1週間老人ホームに行ったことがあります。朝イチで掃除をして、のこりはすべて「コミュニケーション」の時間です。何かがあったときに責任が取れないという理由から、配膳の手伝いも、車椅子を押すこともできません。お年寄りの集まる広いスペースにぽーんと放り出されて、夕方までの時間をそこで過ごさなければなりません。お年寄りの方々には申し訳ないけれど、本当に辛かった。

 まだ、何かのお手伝いができたのなら、その過程で少しでも仲良くなることができたのかもしれません。しかし、本当に何にもない。やることが何にもない。テレビを観てのんびりしているお年寄りに無理やり近づいて話をしなければならなかったのです。話をするつもりのない人に、無理に話しかけなければならない。相手が誰であれ、かなりのエネルギーをつかう行為です。しかも、それが1週間続くわけですから、もう大変です。

 この体験を通して改めて「何もやることがないのが一番辛い」のだと実感しました。裏返すと、やることがたくさんあるのはとても幸せだということです。忙しいのは素敵なことなのです。そうです。きっとそうなのです。そうであるはずなのです。どうも、インクです。

 

行事前の黒板のメッセージはたぶん思っているより子どもには響いていないよ

 学級経営において、よく起こる問題に「教師と子どもの熱量に大きな差が生まれる」というものがあります。教師は大きな理想をかかげて一生懸命になっているけれど、子どもたちはまったくそれに続いていないという状態です。するとどうなるかと言うと、教師がイライラして「どうしてこんなに簡単なこともできないの!」と怒り始めるのです。「私はあなたたちのためにこんなにも頑張っているのに!」というわけです。しかし、悲しいことに、子どもたちからしたらそんなことは知ったこっちゃありません。勝手に頑張って、思い通りにいかないからってぷんすかされても…という状態です。この熱量のズレが長引くと、後々致命傷になるので注意が必要です。

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 そんな熱量の差が分かりやすく表れるのが「黒板」です。とくに行事前の黒板はすごいです。先生によっては、何時間もかけて大作を描きあげる人もいます。ここで気をつけておかなければならないのは、「黒板のイラスト」はあくまでも教師の自己満足でしかないということです。たしかに壮大なイラストを描いていたら、子どもたちの反応はいいかもしれません。先生の本気具合も伝わるかもしれません。

 しかし、厳しいことを言うと、そこで起こる感動は子どもたちの成長ではありません。先生の承認欲求の表れです。先生の本気具合を伝えるにしても、「黒板」はメインとなる手段ではありません。先生の本気具合は、ふだんの授業や行事の練習で伝えるべきです。黒板に書かれた「メッセージ」も同様です。それらしい「いい言葉」を書き並べる方が多いと思いますが、先生が思っている以上に子どもたちは読み流しています。自分が子どもだった頃に、先生が黒板に書いていたメッセージを覚えていますか。筆者はひとつも覚えていません。どうせメッセージを書くのであれば、「クラス一丸になって〜」とか「これまでの練習の成果を〜」というありきたりなものではなくて、もっと短く、かつ印象に残るようなことばを書けたらいいものですね。

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  一言で言うならば、「黒板」によるメッセージやイラストは、費用対効果があまりにも低いのです。時間をかける割には、一瞬の感動しか生みません。数時間後には行事そのものに熱中し、誰も黒板のことなんて覚えていません。「それでも書くんだ」というのなら、それはもう個人の自由だと思います。ただし、先ほども述べたように、子どもたちの反応が悪くても「こんなに頑張ったのに」と思わないようにだけ気をつけてください。それは子どもたちがかわいそうです。

 これはふだんの授業の「板書」でも同じようなことが言える気がします。どれだけ板書がきれいにまとまっていようとも、子どもたちの成長に結びついていなければなんの価値もありません。「授業の流れの記録」として、板書を写真で撮ることは有効かもしれませんが、どうしても「見栄え」が前面に出ている記録写真が多いような気がします。「板書」は手段と目的の入れ違いが起こりやすい行為なので、くれぐれも注意が必要だと思っています。

 

 

 というのも、最近ツイッターで黒板の写真をよく見かけるようになったからです。そのほとんどはきっと、生徒が撮ってタイムラインに流しているのだと思いますが、結局は「教師の承認欲求を満たすこと」が目的いるものばかりだと感じるのです。もちろん絵が得意なのであれば、それを存分に活かすべきだと思います。描くこと自体を否定するつもりはありません。ただ、それが子どもたちの成長に繋がっているかと言われると、疑問が残ります。あくまでも信頼関係を築くためのひとつの手段としてつかっていけたらいいのかもしれません。

 

 完全に余談ですが、みなさんは「黒板消し」の正式名称をご存知ですか。学校の先生なら知っているでしょうか。答えは、ツイッターのフォローと読者登録を済ませたあとに、さらに下へスクロールしてご確認ください。大切なことは下へスクロールすることではありません。ツイッターのフォローと読者登録です。よろしくお願いします。

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 というわけで、「黒板消し」の正式名称は「ラーフル」でした。学校の先生は、ぜひとも明日から使ってみてください。

 

〇〇さん、ちょっとラーフル取ってくれる?

 

【土】歴史は史実よりもそうなった必然性を教えるべきだと思うんだけどな

 

 おはようございます。土曜日なのにやることが山のようにあります。だからこそ、まずは部屋の掃除と皿洗いから始めることにしましょうか。現実逃避ではありませんよ。やっぱり、部屋が汚いとやる気がでないじゃないですか。だから、掃除をするのです。やらなければならないことを後回しにしているわけではありません。お皿を洗わないと次につかうときに困るじゃないですか。決して、やらなければならないことから目を背けているわけではないんですよ...。どうも、インクです。

 

歴史は史実よりもそうなった必然性を教えるべきだと思うんだけどな

  「歴史は暗記科目ではない!」とよく言われるけれど、定期テストで点をとるためにはやはり暗記をしなければなりません。学生時代はよく、「これだけは絶対に覚えるノート」をつくっていました。そのノートにまとめたことは何としてでも覚える。ただし、そのノートにまとめなかったことは全部捨てる。そんな勉強方法をとっていました。おかげで100点はとれなかったけれど、そこそこの点はキープしていたと思います。

 「定期テストのせいで、本来の学びとは違うところに時間をかけなければならない」という類の議論はいろいろなところで行われていると思うので、今日はそちらではなく、「歴史における本来の学びとは」という話をしていきたいと思います。筆者は社会科を専門にしているわけでも、歴史に精通しているわけでもないので細かいことは気にすんなよ!それでは、どうぞ。

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1.歴史上の人物はみんな同じ人間

 今を生きる人々が過去のことを学ぶのが、いわゆる「歴史」と呼ばれる科目ですが、大抵の場合は「今」と「過去」が切り離されて考えられます。織田信長の活躍がまるで別世界でおこった、一種のフィクションのように、学習者は捉えるのです。

 さらに、今を生きる学習者は、知らないうちに、過去を生きた人々をバカにしています。「ふうん、昔の人はこんなことをしたんだ。今なら絶対にそんなことはしないのにな」という具合です。歴史上の人物のことを、まるで技術も知恵ももたない阿呆のような扱い方をするのです。少なからずおまえよりもよっぽど賢いよ!と思ってしまいます。

 それもこれも、「歴史上の人物は自分と同じ人間だ」という感覚が薄いことと、「過去のできごとが今に繋がっている」という認識がほとんどないことに原因があります。人物名や年号を覚えることに必死になって、それで終わってしまうのです。そりゃあ「こんな勉強をしていて意味があるのか?」と思いますよ。断言できます。何も考えずに、ただ人物名や年号を覚えることにはなんの意味もありません。

 

2.史実よりも必然性を考えよう

 歴史上の人物はみんな同じ人間だという認識ができたら、自ずと「なぜこの人はこんなことをしたのだろう」という疑問に辿りつきます。ちなみに、歴史の授業ではまったくといってもいいほど、この必然性を考えません。「この人がこんなことをした」という史実だけを教えられて終わりです。仮に必然性を話したとしても「どうせテストには出ないんでしょ」と放り出されてしまうのでしょう。

 しかし、歴史の学習は、この必然性を考えることにこそ価値があると思うのです。社会科は「できごと」ではなく「人間」を学ぶ教科であるはずです。人間がどのようなことを考えてきたのか。人間がどのような世界をつくってきたのか。そこには必ず理由があります。人間はなんの理由もなく、なんとなく、あんなに大きな大仏をつくったりはしません。人間は、なんとなく、関ヶ原の戦いをしたりはしません。なんとなく、薩長同盟を結ぶこともなければ、なんとなく、大政奉還することもありません。できごとには、相応の理由があり、そこにはその理由を含めた人間の物語があります。そんな物語をスルーして、結果だけを教える歴史の授業に果たして価値はあるのでしょうか。

 

3.変わらないものから人間の普遍性が見えてくる

 「過去のできごとが今に繋がっている」という認識ができたら、自ずと「今との類似点・相違点」を探ることになります。もちろん、時代が違いますので、相違点が山のように出てくることになるでしょう。そんなときに、物語を無視して、史実だけを教えていたら、はじめに述べたような「過去の人をバカにする」という現象が起きてしまいます。必然性を含めた物語を捉えることで、まずはこの現象を防ぐことができます。その上で相違点を学んでいくわけですが、どちらかと言えば、その中に埋もれた類似点にこそ価値があると思います。

 何百年という時を経た「今」にも通ずるところがあるということは、それが「人間の普遍性」だと言うことができるかもしれないのです。たとえば、平安時代に詠まれた和歌の中には、別れを惜しむ歌がたくさんあります。当然、和歌が詠まれた当時の時代背景と今の時代背景はまったく異なります。それにも関わらず、「別れの辛さ」を共感できるのは、「人間は別れを辛く思う」という普遍性もっているからです。

 古文や漢文の学習でもおなじことが言えると思っています。人間は何をおもしろいと思うのか。何に喜び、何に悲しむのか。経過した時間が説得力となり、今を生きる私たちに伝えてくれるのです。

 

 

 「定期テスト問題」と「時数問題」という大きな問題を抱えているということは重々承知していますが、今行われている「歴史」の学習を続けることに本当に価値があるのかはつくづく疑問でしかありません。社会科の先生、ごめんなさい。はじめに述べたように、筆者は社会科を専門にしているわけでも、歴史に精通しているわけでもありません。もし、専門にされている方がいらっしゃいましたら、ご意見いただけるととてもありがたいです。

 

 

【金】「自分がやられて嫌なことは人にもしない」は言うほど万能じゃあないぞ

 

 おはようございます。今住んでいる部屋には、広めのロフトがあります。そこに布団を敷いて寝ています。部屋を決めるときには「ロフトはやめておいた方がいい」だとか「結局は物置になるだけ」だとかいろいろなことを言われましたが、数年経った今でもまったく後悔はしていません。むしろ正解だったと思っています。他人のアドバイスなんてそんなものです。「相手のため」というテイをとりながら、その人が言いたいから言っているだけなのです。そんな意見をいちいち真に受けてはいけません。柳に風。風に柳。どうも、インクです。

 

「自分がやられて嫌なことは人にもしない」は言うほど万能じゃあないぞ

  自分がやられて嫌なことは人にもしない。誰もが大人からこう教わったのではないでしょうか。学校現場でもよく耳にすることばです。お子さんがいらっしゃる方なら、親として、このことばをつかったことがあるかもしれません。

 今日はそんなことばを鵜呑みにせず、一度立ち止まって考えてみたいと思います。たったひとりの「自分」という人間の判断基準が誰にでも当てはまると思いますか。自分が嫌なことは、隣の人にとっても嫌なことですか。隣の人が嫌なことは、自分にとっても嫌なことですか。

 世の中には、罵られることに喜びを感じる人もいます。はたまた、自分の身体に傷をつくって安心する人もいます。異性を愛する人もいれば、同性を愛する人もいます。肌が黒い人もいれば、白い人もいます。野菜が大嫌いな人もいれば、野菜しか食べない人もいます。改めて尋ねますが、そんな世界で、たったひとりの「自分」という人間の判断基準が誰にでも当てはまると思いますか。

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  「自分がやられて嫌なことは人にもしない」ということばが使われる場面の多くは、子どもが何か悪いことをしでかしたときだと思います。大人が子どもを叱るときに「自分がやられたらどう思うの?嫌でしょ?自分がやられて嫌なことは人にもしてはいけません」と言うのです。なぜこのことばを大人がつかうかと言うと、それっぽいからです。なんて叱ればいいのかが分からないから、とりあえずお決まりのこのことばをつかうのです。便利なことばですからね。

 しかし、このことばに本当に責任をもつのであれば「自分がやられて嫌でなければ、人にしてもまわない」を認めなければならなくなります。自分が殴られてもいいのなら、人を殴ってもいいことになります。自分が殺されてもいいのなら、人を殺してもいいことになります。

 もちろん、これは屁理屈です。「自分がやられて嫌なことは人にもしない」ということばの真意はそこではありません。このことばに込められたもっとも大きなメッセージは「人として間違ったことをしてはいけないよ」です。そのメッセージ自体を否定するつもりはありません。悪行を肯定するつもりもありません。問題は、そのメッセージを伝えるためのことば選びにあるのです。

 何度も言いますが、自分が嫌だからといって他の人も嫌だとは限りません。善悪の判断において「自分の気持ち」は、あくまでもひとつの材料です。それがすべてではないのです。たしかに「気持ち」というものは、自分のものしか分かりません。本当の意味で他人の「気持ち」を理解することなんてできません。だから、「自分の気持ち」だけで「相手の気持ち」を推し量ろうとしてしまうのです。「自分がやられて嫌なことは人にもしてはいけない」ということばは、まるでそれが絶対的な基準であるかのようにつかわれることが多いので、少し危険だなと思うわけです。

 先日授業をした道徳の教材にこのようなお話がありました。

 重い荷物を抱えたおばあさんに「持ちましょうか」と声をかけたが、断られてしまい、がっかりする主人公。あとあと話を聞いて、おばあさんはリハビリで歩く練習をしていたということを知る。

 翌日もおばあさんを見かけたが、「持ちましょうか」と声はかけずに少し離れたところから、転ばないように見守った。

  このように、相手に歩み寄るために必要なのは「自分の気持ち」ではありません。「相手の情報」です。相手のことを知れば、思いやりの形も大きくがらりと変わるのです。相手のこともよく知らず、「自分の気持ち」だけを押し付ける。そして、喜んでもらえなかったらショックを受ける。相手からしたら、そんなに無茶苦茶なことはありません。自分の基準が相手にも当てはまると思っている人ほど厄介なものはありませんからね。

 これからは「自分がやられたらどう思うの?嫌でしょ?自分がやられて嫌なことは人にもしてはいけません!」ではなく、「相手はあなたのせいで嫌な思いをしたんだって。もっと相手のことを知ってから動けたらよかったね」と話せたらよいのかもしれません。

 

 

 今回の「自分がやられて嫌なことは人にもしない」のように、当たり前だと思われているけれどよくよく考えたらおかしなことばって、生活の中にたくさん紛れ込んでいるような気がします。特に子どもたちに向かってつかうときには、よく考えてつかいたいものですね。それでは、ラスト1日なんとか乗り切りましょう。

 

 

 

【木】小さなチョコレートを食べるだけで人は動けるようになる

 

 おはようございます。昨日の頭痛は最悪でした。時々やってくる、気持ち悪さを伴うタイプです。対処法はただひとつ。寝ることです。おかげで今日の準備が何もできていません。すまんな、子どもたち。こういう日もあるんだ。どうも、インクです。

 

小さなチョコレートを食べるだけで人は動けるようになる

  11月17日(日)に神戸マラソンを走ってきました。身バレがこわいので正確なタイムは言えませんが、ぼちぼちのタイムで完走することができました。今回の神戸マラソンは、人生で2度目のフルマラソンです。はじめて走ったフルマラソンは、もっと規模の小さな大会でした。そんな規模のちがいはもちろんですが、他にも2回目だからこそ感じることがたくさんあったので書いていきたいと思います。

 ちなみに、走らない人にとっての一番の疑問だと思われる「どうしてしんどいのに走るの?」については、過去の記事で述べていますので、ぜひそちらをご覧ください。

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1.全員が味方

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  フルマラソンを走って、改めて強く感じたことは、全員が味方だということでした。もちろん上位入賞者ともなれば、マラソンは勝負です。隣の人よりも1秒でもはやくゴールできるように、一生懸命走ります。だから、ダッシュで42.195kmを走り抜けます。間近で見ればよく分かりますが、本当に信じられないスピードで走っています。筆者が参加したマラソンとはまったくの別物だと思ってください。

 一般参加者にとってのマラソンは、他者との勝負ではありません。よくある言い回しになってしまいますが、本当に自分との勝負です。まわりに敵はいません。むしろ、味方です。きっと周りで一緒に走っている人がいなければ、今回と同じタイムで走り切ることはできなかったでしょう。

 まわりの全員が味方。こんなスポーツは、ほとんどないような気がします。やったことはありませんが、もしかすると「ゴルフ」には通ずるところがあるのかもしれませんね。勝ち負けに一生懸命になるのではなく、お互いに助け合いながらゴールを目指す。本当に魅力的なスポーツだなと改めて思いました。

 

2.応援の力はすごい

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 これまた、ありきたりなことを言って申し訳ないのですが、応援の力は本当にあるんだなと思い知らされました。前述したとおり、1回目に走ったマラソンは規模が小さかったので、沿道で応援してくださる方もパラパラでした。しかし、今回のマラソンはさすがの神戸ということもあって、常に誰かが応援してくれているというような状況でした。

 はじめは恥ずかしさもあり、できるだけ沿道から離れた道の真ん中を走っていたのですが、せっかくの機会だったので、後半は「自分から応援されにいく」スタイルで走ってみました。子どもたちとハイタッチをしながら、時には「ありがとう!」と声を出しながら、走ってみました。すると、おもしろいことに走れてしまうものなんですよ。もちろん沿道で応援してくださっている方は知り合いでもなんでもありません。自分ひとりに向かって「がんばれ!」と言ってくれているわけでもありません。しかし、それでいいのです。せっかくエネルギーをコースの上に投げてくれているのなら、自ら受け取りにいかないともったいないのです。自分にとってはとても新鮮で、いい経験になりました。

 

 

3.チョコレートは偉大

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 次に感じたことは、チョコレートは偉大だということでした。マラソンを走ったことがない方でもイメージはあると思うのですが、コースの途中にある給水所で、水と一緒に食べ物が並んでいるところがあります。神戸マラソンでは「バナナ」「どら焼き」「カステラ」「薄皮パン」「塩分タブレット」「きのこの山」などがありました。

 走っている途中に食べる必要があるの?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、食べものの存在はとてつもなく大きいです。むしろ食べものがなければ、きっと完走できません。長い距離を走っていると、単純にエネルギーが不足するのです。まさに「お腹が空いて力がでない」状態です。いや、お腹が空いているわけではないのかな。ただ、食べものを欲している。そんな感覚です。1回目のフルマラソンでは、これで失敗しました。20kmくらいまで、何も食べずに走り続けてしまったのです。力が出なくなってから、次の給食所までの道のりが遠いこと遠いこと。

 そんな反省があったので今回のマラソンでは、すべての給食所で、置いてあるものはとにかく食べました。そして、スタートの前から、ポケットにチョコレートを忍ばせておきました。本当にチョコレートってすごいですよ。あんなに小さなチョコレートを食べるだけで人は動けるようになるんです。ドラゴンボールに登場する「仙豆」ってこんなかんじなんだろうなと思いながら走っていました。

 

 

 こんな新しい発見があるから「また走ろう」と思ってしまうのです。それもまた、ゴールした直後には、すでにそう思っているからおもしろいものです。「もう当分はいいや」とは思わないのです。やっぱり「走る」っていいですよ。これからも走り続けたいと思います。ありがとう、神戸マラソン。大満足ですが、唯一物申すとしたら、どうしてきのこなんだ。

 

 

 

【水】<終編>英語とプログラミングよりもお金とインターネット

 

 おはようございます。という挨拶でいつも始めていますが、果たして朝に読んでくださっている方がどれだけいるのでしょうか。通知を見て「おもしろそうだから読もう」と思ってくださることもとてもありがたいのですが、だれかの毎日の習慣にこのブログが入り込めたら、それほど素晴らしいことはないだろうなと思います。毎日のコーヒー、毎日の新聞、そして毎日の『ツイートの3行目』。そんな人がひとりでも増えてくれるように、毎朝6時更新を続けていきたいと思います。あなたの毎日に、ツイートの3行目。どうも、インクです。

 

英語とプログラミングよりもお金とインターネット

 同タイトルの記事が随分と長く続いてしまいました。本当は<前編><中編><後編>の3部作で終えようと思っていたのですが、謎の<終編>ができてしまいました。話の内容としては、もちろん続いているのですが、どこから読んでも内容は理解できるようになっています。少しでもおもしろがっていただけたのであれば、ぜひ他の記事にも足を運んでみてください。

 というわけで、この<終編>では「英語やプログラミングの授業よりも、お金やインターネットの授業をした方がいいんじゃないか」という意見の「インターネット」の部分についてお話をしようと思います。黙って俺についてこい(最後まで読んでいただけると嬉しいです)。

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(5)インターネット

 皆様にこのブログを読んでいただくことができているのは、インターネットのおかげです。LINEで連絡ができるのも、Twitterでつぶやくことができるのも、Amazonで買い物ができるのも、すべてはインターネットのおかげです。

 そんな便利なインターネットですが、学校で使い方を教えてもらうことはほとんどありません。せいぜい「Yahoo!キッズ」で知りたいことを検索して調べ物をするくらいです。学校教育でフォーカスが当てられるのは、「インターネットの危険性」ばかりです。「知らない間に個人情報が流出する」だとか「身に覚えのない請求書が届く」だとか「インターネットで知り合った人と実際に会ったら事件に巻き込まれる」だとか。過剰な注意喚起で、もはやインターネットを使うなと言っているようにさえ聞こえます。表面上は「おうちの人との約束を守って使いましょう」と締めくくられるんですけどね。

 インターネットは、とっくの昔に調べ物をするときだけに使うツールではなくなりました。大げさでもなんでもなく、人によっては「生きる意味」になり得るものだと思っています。正確に言うならば、インターネットを経由して繋がった「人」や「作品」が、その人にとってとても大切なものになる可能性があるということです。特に、閉鎖的な学校や会社という空間で息がしづらいような人たちにとっては、インターネットでなら自分の居場所をみつけられるということも大いにあり得るのではないでしょうか。

 インターネットを使用することを必要以上に制限してしまうと、このような世界を知ることもなく、現実でもがき苦しむことになるかもしれません。完全に持論でしかありませんが、人はひとつでも居場所をもっていれば生きていけると思っています。繰り返しになりますが、インターネットは十分に居場所になりうる存在だと思っています。 

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 では、そのようなインターネットをどのように子どもたちに利用させればよいのでしょうか。タブレット端末を与えて「ご自由にどうぞ」と言うのが一番な気もするのですが、なかなか現実的ではありません。「ゲームばかりする」だとか「視力が低下する」だとか、何かにこじつけて大人たちは、タブレットの使用を制限しようとするでしょう。大人が求めている「勉強」もその一台で済ませられると思うんですけどね。学校の連絡も宿題の送信もすべてインターネット上で行えたらとても便利だろうなと思います。

 仮に「学校でインターネットを教える」という形をとるとしたら、どんなことができるでしょうか。まずはやはりタイピングでしょうか。「寿司打ち」をつかって練習することもありますが、あまりにもその場限りすぎて効果がありません。やはりタイピングはチャットで慣れていくのが一番な気がします。自分よりもタイピングが早い相手と、チャットを通してコミュニケーションをとることで、「はやく返信しなきゃ」と必死になって練習するようになるのです。「今日の授業におけるコミュニケーションはすべてチャットの上で行う」という形をとってみてもおもしろいかもしれません。目の前に相手がいるので、その存在を意識しながらことばを選ぶ訓練にもなるのではないでしょうか。 

 他にも、ゴールだけを示して「ここまで辿り着け!」という授業もおもしろいかもしれません。たとえばひとつのウェブサイトを大きく映し出し、なんの説明もせずに「自分の端末に同じ画面を表示しなさい」と言うのです。手段はいくつかあると思います。検索窓にキーワードを入力する人もいるでしょう。URLを直接入力する人もいるかもしれません。はたまた、その画面を写真でとって「Yahoo!知恵袋」で質問する人もいるかもしれません。手段はすべて子どもたちに任せます。この試行錯誤や、手段の多様性こそ、まさに「インターネット」のような気がします。このゴールをウェブサイトではなく、アプリケーションのダウンロードを前提としたものだったり、いくつかのソフトを組み合わせたものにしたりすると、難易度はより高くなっっていくと思います。その過程でトライ&エラーを繰り返し、インターネットの使い方を覚えていってくれたらと思います。

 ここだけの話、多くの男の子は、いかがわしいサイトを渡り歩くことで、インターネットの歩き方を覚えていくような気がします。どこまでが危険で、どこまでが安全なのか。何が本当で、何が嘘なのか。この判断は、やはり使ってみて初めてわかることが多いのです。未だにわけのわからない迷惑メールが届くことがありますが、あんなメールが届くということは、世界のどこかにはそれに引っかかる人がいるということです。もう今の時代を考えると、インターネットリテラシーは子どものうちから身につけておくべき力のひとつであると言い切れるのではないでしょうか。

 

 

 はじめにリンクを貼った過去の記事のスター数を見ていただけたら分かるとおり、<後編>に近づくにつれて数字がぐんと減っています。やはり、タイトルに<中編>や<後編>とついていたら、なかなか読む気にはならないのでしょう。「前の記事の続き= はじめから読むには時間がかかる」という判断になりますからね。自分が読む側だったとしても、きっとクリックしないと思います。分かりやすい実験結果が出てくれたので、いい勉強になりました。

 ひとまずは、この長編「英語とプログラミングよりもお金とインターネット」もこの記事で終了です。明日からはまた、1記事完結のスタイルに戻していこうと思います。改めて各教科について考えてみて、やはり教師自身が、その教科の価値を模索することがとても大切だなと思いました。ほとんど思いつきで書いていたので、浅い考察になってしまったかもしれませんが、どこかのだれかが考え始める「きっかけ」として機能してくれたらいいなと思っています。このブログは、筆者の自己満足でありながら、同時に「提案」をしているつもりでもあります。ひとりよがりは寂しいですからね。一緒になって考えてくださると書き手冥利に尽きるというものです。これからも何卒宜しくお願いします。