ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】歴史は史実よりもそうなった必然性を教えるべきだと思うんだけどな

 

 おはようございます。土曜日なのにやることが山のようにあります。だからこそ、まずは部屋の掃除と皿洗いから始めることにしましょうか。現実逃避ではありませんよ。やっぱり、部屋が汚いとやる気がでないじゃないですか。だから、掃除をするのです。やらなければならないことを後回しにしているわけではありません。お皿を洗わないと次につかうときに困るじゃないですか。決して、やらなければならないことから目を背けているわけではないんですよ...。どうも、インクです。

 

歴史は史実よりもそうなった必然性を教えるべきだと思うんだけどな

  「歴史は暗記科目ではない!」とよく言われるけれど、定期テストで点をとるためにはやはり暗記をしなければなりません。学生時代はよく、「これだけは絶対に覚えるノート」をつくっていました。そのノートにまとめたことは何としてでも覚える。ただし、そのノートにまとめなかったことは全部捨てる。そんな勉強方法をとっていました。おかげで100点はとれなかったけれど、そこそこの点はキープしていたと思います。

 「定期テストのせいで、本来の学びとは違うところに時間をかけなければならない」という類の議論はいろいろなところで行われていると思うので、今日はそちらではなく、「歴史における本来の学びとは」という話をしていきたいと思います。筆者は社会科を専門にしているわけでも、歴史に精通しているわけでもないので細かいことは気にすんなよ!それでは、どうぞ。

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1.歴史上の人物はみんな同じ人間

 今を生きる人々が過去のことを学ぶのが、いわゆる「歴史」と呼ばれる科目ですが、大抵の場合は「今」と「過去」が切り離されて考えられます。織田信長の活躍がまるで別世界でおこった、一種のフィクションのように、学習者は捉えるのです。

 さらに、今を生きる学習者は、知らないうちに、過去を生きた人々をバカにしています。「ふうん、昔の人はこんなことをしたんだ。今なら絶対にそんなことはしないのにな」という具合です。歴史上の人物のことを、まるで技術も知恵ももたない阿呆のような扱い方をするのです。少なからずおまえよりもよっぽど賢いよ!と思ってしまいます。

 それもこれも、「歴史上の人物は自分と同じ人間だ」という感覚が薄いことと、「過去のできごとが今に繋がっている」という認識がほとんどないことに原因があります。人物名や年号を覚えることに必死になって、それで終わってしまうのです。そりゃあ「こんな勉強をしていて意味があるのか?」と思いますよ。断言できます。何も考えずに、ただ人物名や年号を覚えることにはなんの意味もありません。

 

2.史実よりも必然性を考えよう

 歴史上の人物はみんな同じ人間だという認識ができたら、自ずと「なぜこの人はこんなことをしたのだろう」という疑問に辿りつきます。ちなみに、歴史の授業ではまったくといってもいいほど、この必然性を考えません。「この人がこんなことをした」という史実だけを教えられて終わりです。仮に必然性を話したとしても「どうせテストには出ないんでしょ」と放り出されてしまうのでしょう。

 しかし、歴史の学習は、この必然性を考えることにこそ価値があると思うのです。社会科は「できごと」ではなく「人間」を学ぶ教科であるはずです。人間がどのようなことを考えてきたのか。人間がどのような世界をつくってきたのか。そこには必ず理由があります。人間はなんの理由もなく、なんとなく、あんなに大きな大仏をつくったりはしません。人間は、なんとなく、関ヶ原の戦いをしたりはしません。なんとなく、薩長同盟を結ぶこともなければ、なんとなく、大政奉還することもありません。できごとには、相応の理由があり、そこにはその理由を含めた人間の物語があります。そんな物語をスルーして、結果だけを教える歴史の授業に果たして価値はあるのでしょうか。

 

3.変わらないものから人間の普遍性が見えてくる

 「過去のできごとが今に繋がっている」という認識ができたら、自ずと「今との類似点・相違点」を探ることになります。もちろん、時代が違いますので、相違点が山のように出てくることになるでしょう。そんなときに、物語を無視して、史実だけを教えていたら、はじめに述べたような「過去の人をバカにする」という現象が起きてしまいます。必然性を含めた物語を捉えることで、まずはこの現象を防ぐことができます。その上で相違点を学んでいくわけですが、どちらかと言えば、その中に埋もれた類似点にこそ価値があると思います。

 何百年という時を経た「今」にも通ずるところがあるということは、それが「人間の普遍性」だと言うことができるかもしれないのです。たとえば、平安時代に詠まれた和歌の中には、別れを惜しむ歌がたくさんあります。当然、和歌が詠まれた当時の時代背景と今の時代背景はまったく異なります。それにも関わらず、「別れの辛さ」を共感できるのは、「人間は別れを辛く思う」という普遍性もっているからです。

 古文や漢文の学習でもおなじことが言えると思っています。人間は何をおもしろいと思うのか。何に喜び、何に悲しむのか。経過した時間が説得力となり、今を生きる私たちに伝えてくれるのです。

 

 

 「定期テスト問題」と「時数問題」という大きな問題を抱えているということは重々承知していますが、今行われている「歴史」の学習を続けることに本当に価値があるのかはつくづく疑問でしかありません。社会科の先生、ごめんなさい。はじめに述べたように、筆者は社会科を専門にしているわけでも、歴史に精通しているわけでもありません。もし、専門にされている方がいらっしゃいましたら、ご意見いただけるととてもありがたいです。