【月】物語のスリルはいかに無理なく面倒事を起こすかにかかっている
おはようございます。土曜日に「月のよい晩の盗み聞き」というタイトルで、新美南吉さんの『ごんぎつね』について、いろいろな方とお話をしました。思っていたよりもたくさんの方が集まってくだいました。本当にありがとうございました。
半分くらいは『ごんぎつね』の「ご」の字も出てこないような話でしたが、あれはあれでよかったのだと思います。やっぱり、司会やファシリテーターによって話が区切られて進むものとはまたちがったおもしろさがあるなと思いました。
きっと今回とおなじようなおもしろさは、もう二度と再現できないでしょう。今回限りだったからこそ、ひとつの価値になるわけです。もし次があるのであれば、次回は次回でまたちがうおもしろさが生み出せたらいいなと思っています。
改めて、参加してくださった皆様どうもありがとうございました。せっかくなのでこの会で話していたことを、すこしだけ今日の記事にまとめておこうと思います。どうも、インクです。
物語のスリルはいかに無理なく面倒事を起こすかにかかっている
物語のスリルはいかに無理なく面倒事を起こすかにかかっている
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2019年8月13日
文学的文章は、作者のロマンから生まれます。こんな世界を描きたい。こんな思いを表現したい。そこには必ずロマンがあります。しかし、ロマンをロマンのまま読者に届けることはできません。ロマンとは水のようなもので、どれだけ大事にすくい上げたとしても、読者のもとに届くころにはほとんどがこぼれ落ちてしまっています。
だからこそ、水を運ぶための容器が必要になります。これが「物語」です。「物語」にはひとつでも穴が空いていてはいけません。ロマンが流れ落ちてしまいますからね。だからこそ作者は、登場人物の関係性や時系列、できごとの必然性を緻密に計算して「物語」をつくります。その過程で無駄なものは徹底的に排除されていくわけです。物語に偶然は存在しない。まさに「チェーホフの銃」ですね。読者に違和感を与えることなく、つじつまを合わせた上で、自然にできごとを起こしていかなければならないのです。
図示するならこんなかんじでしょうか。これがいわゆる「表現」というものです。ちなみに言っておくと、ロマンとかロジックとか物語化とか、筆者が勝手に名付けているだけなのであまり真に受けないでくださいね。あくまでも個人的な見解です。個人的な見解として、文学的文章はこうしてつくられているのではないかという話です。
今度は、読者の立場に立って考えてみましょう。作者は、自身のロマンを「ロジカルな物語」に乗せて、読者に届けようとしています。では、読者はどのような手順を踏んで、その「物語」を読解すればよいのでしょう。
そうです。作者が進んできた道を反対向きに進んでいけばよいのです。まずはロジカルに「物語」を読み、そしてロマンを追求するというわけです。
先ほどの図にかき加えるとしたらこんなかんじでしょうか。これがいわゆる「読解」です。ちなみに言っておくと、バランスをとるために一応【作者】のところまで矢印を伸ばしましたが、必ずしも「作者の意図を読みとること」がゴールだとは限りません。
「読解」は作家論・作品論・読者論と、何を大切にするかによっていろいろな読み方ができるので、一概にどれが正しいとは言えないのです。ここを掘り下げると、それだけで今日の記事が終わってしまうので、いったん保留させてください。ざっくりとしたイメージです。ざっくりとしたイメージとして「読解」とはこのような流れなのではないかという話です。
さきほどの図に、新しく「分析」と「解釈」ということばを書き加えています。図を見ればおおよそはおわりいただけたかと思いますが、ロジカルに物語を読み解くことが「分析」で、ロマンを追求することが「解釈」です。
よく言われることですが「解釈」は自由です。人によって違います。個人的な経験や人間関係、年齢や性別も大きく反映されますからね。人によってちがって当然です。言わば、この「解釈」の部分こそが「国語には答えがない」と言われる所以です。
一方で「分析」にはある程度の答えがあります。ロジカルに読み解くわけですからね。算数と同じです。たとえば、今回とりあつかった『ごんぎつね』における冒頭の場面で、雨が降り続いた設定になっているのはどうしてでしょう。作者はなんのために雨を降らせているのでしょう。
前述した通りです。物語に偶然は存在しません。雨が降っているからには、雨が降っている理由が必ず存在しているのです。このように、物語の必然性を読み解いていくことが「分析」です。もちろんある程度の幅は生まれますが、答えは絞られてきそうでしょ。ぜひ考えてみてください。
学校の国語の授業では、この「分析」がすっとばされることがほとんどです。登場人物やできごとの確認だけでいっぱいいっぱいになり、突然ぽーんと飛んで「解釈」をさせようとすします。そりゃあバラバラになって当然です。ただでさえ「解釈」は自由なわけですからね。その前段階に「分析」がなければ、それはもはや「自由」ではなく「無法地帯」です。結局、収集がつかなくなり、これもいいねあれもいいねと言って終わるのです。
ストレートな言い方をすれば「分析」を踏まえていない「解釈」にはなんの価値もありません。まさに「それ、あなたの感想ですよね?」です。必然性を読み解く「分析」が前提にあるからこそ「解釈」が生きてくるのです。
文学的文章の必然性をロジカルに読み解く「分析」と、文学的文章の美しさを読み解く「解釈」は、まるで相反するものであるかのように扱われることが多いのですが、このふたつが地続きであるということは、これまでの説明でわかっていただけたでしょうか。
なんども言いますが「解釈」は自由です。先生の解釈も子どもの解釈も、同じだけの価値があります。ただ、そもそもその「解釈」に価値をもたせるためには、前提としての「分析」が必要なのです。
学校の先生にできることは、登場人物やできごとを確認したあとに、分析の観点を与えてやることなのではないでしょうか。物語の必然性を考える。けっこうおもしろいですよ。
どうでしょう。ちゃんと伝わっているでしょうか。土曜日の会では、たぶんこんな話をしたはずです。やっぱり人と話して、声を出すことって大切だなと思いました。話すことと書くことでは、おなじ「表現」でも生み出されるものはまったくちがいます。まあ、当然と言えば当然なのですが。
学校が再開されるにつれて慌ただしくなるのでしょうが、またちょこちょことこんな機会をつくれたらいいなと思います。3、4人くらいのこじんまりとした会が理想です。イメージは「ボクらの時代」。今回参加された方も参加されなかった方も、ぜひ遊びにきてください。決まり次第、随時お知らせいたします。