ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】国語の授業で感情曲線を描くのはタブー

 

 おはようございます。昨日は久しぶりに、初任のときに担任をもった子どもたちに会いました。こちらとしては本当に力不足だったので申し訳なさしかないのですが、「また先生が担任になってほしい」という言葉をもらって、そう思ってくれている子どももいるんだなと少し安心しました。今思い返しても、たしかに子どもたちといる時間は楽しかったです。子どもたちといる時間。どうも、 インクです。

 

国語の授業で感情曲線を描くのはタブー

 「登場人物の気持ちを考えましょう」という活動に本当に価値があると思いますか。きっとこのブログを読んでくださっている方のほとんどはこの発問を先生にされながら国語の授業を受けてきたと思います。テストでも問われたと思います。この場面における登場人物の気持ちを答えなさい。改めて言いますが、本当にこの問いに価値があると思いますか。

 たしかに、明らかに悲しみを表現している場面で「喜んでいる」と回答すれば、「内容を読み取れていない」という判断になるのかもしれませんが、それは解釈の問題でしかありません。悲しんでいるように見えて喜んでいる可能性だって0ではありませんし、悲しみの先に喜びが広がっている可能性だってあります。結局、この問いに対する解答なんて、ひとりの人間の解釈にすぎないという話です。

 どちらかというと、国語として大切なのは「どのようにしてその感情をことばで表現しているか」ではないでしょうか。「悲しみ」と言っても、その感情はひとつではありません。かけっこで1等賞をとれなかった悲しみと、大切な人を失った悲しみとでは、天と地ほどの違いがあるのです。繰り返しにはなりますが、大切なのは、その悲しみを著者がどのように表現しようとしているかということなのです。

 たとえば、とある著者は「登場人物を泣かせる」ことで悲しみを表現するかもしれません。また別の著者は「雨が降るようす」で登場人物の悲しみを表現するかもしれません。また他の著者は「登場人物をとち狂わせる」ことで悲しみを表現するかもしれません。その表現のしかたは人によって違います。それを学ぶことこそが国語教育なのではないでしょうか。登場人物の気持ちなんてなんだっていいのです。どうしても考えさせたいのなら、それは道徳でやってください。だから、感情曲線を描く国語の授業なんて最悪です。登場人物の気持ちが変化したから何なのですか。そもそもそれはあなたの解釈でしょう。登場人物の感情はひとつの線で描けるほど単純なものでもなければ、受け取り方が万人に共通しているわけでもないのです。

 

 たとえばつい先日『プラタナスの木』という文学的文章教材をつかって授業を行いました。もちろん子どもたちには一度たりとも登場人物の気持ちは問うていません。何を中心に授業したのかというと、キャラクター設定の必然性です。この物語には主人公であるマーちんの他に3人の人物が登場します。物語はこの3人の特徴の解説から始まります。その特徴は以下の通りです。

f:id:taishiowawa:20191026213631j:image

花島くん → 背が高い

クニスケ → いつもハイソックスをはいている

アラマちゃん → 口癖が「あらま」

 「作者が花島くんを背が高いように設定したのはどうして?」という問いかけをしました。グループごとに3人の登場人物を分担して発表させたのですが、まあおもしろい発表会になりました。

 この物語では、公園にあるプラタナスの木が台風によって折れてしまいます。それを知ったうえで、以下の子どもたちの発表内容を読んでみてください。

 花島くんが背が高いのは、最後の場面を描くためだと思います。最後の場面では、折れてしまったプラタナスの木の切り株の上に立って、子どもたちが手を広げます。そのときに花島くんは切り株の真ん中に立つのです。木は中心部分が一番高くなるので、それを読者にイメージさせたかったのだと思います。

 さらに、背の高さを強調させるために、物語の途中で、花島君が他の人の「頭ごし」にせりふを言う場面があります。わざわざ「頭ごし」にせりふを言わせることで、読者に「背が高い」という設定を思い出させているのだと思います。

f:id:taishiowawa:20191026213653j:image

 クニスケはプラタナスの木が折れていることに最初に気づく人物です。そこでは「ハイソックスをずりおとしながら」知らせにくるようすが描かれています。いつもは上まであげられているソックスがずり落とされることで、緊急事態であることが読者にも伝わると思います。

 アラマちゃんは、プラタナスの木が折れたことを知ったときに「あらま」と言いません。ふだん言っている口癖を言わないことで、木が折れたことへのショックを表しているのだと思います。逆に言えば、ここでのショックを表すために、物語前半では「あらま」と言う場面が2回も描かれています。

 どうですか。多少ことばを変えたところはありますが、内容は本当にこのままです。おもしろくないですか。大人でさえ、なるほどなと思わされるのではないでしょうか。キャラクター設定には必然性があります。物語に偶然なんてものは存在しないのです。

 これが読み取りです。「解釈」ではなく「分析」です。「解釈」は「分析」の上に初めて成立するのです。たとえば、これらの「分析」から導き出される「解釈」としては、「プラタナスの木は『命』を象徴するものだと思う。台風で折れて切り株になり、その上に子どもたちが立つことで、命のバトンが受け継がれていくようすを表しているのではないだろうか。」などが考えられます(あくまでも今パッと思いついた一例でしかありませんが…)。分析をすっとばして解釈(登場人物の気持ちを考えましょう)をしてもなんの価値もありません。

 語弊を生むかもしれませんので、しつこいですが言わせてください。「登場人物の気持ちを想像する活動」そのものを否定しているのではありません。分析もロクに行っていない状態で、それを問うても仕方がないよと言っているのです。登場人物の気持ちを問う、そんな「自分の気持ち」を問い直してみるべきなのかもしれません。

 

 

 このように書いていても、やはり国語は奥が深い教科だなと思います。よく「国語には正解がない」だなんて言いますが、「分析」にはある程度の正解があると思います。正解がないのは、その先の「解釈」です。「解釈」はその人の現状や、過去の経験にも大きく左右されますからね。「国語には正解がいがない」を言い換えるならば、「国語には正解がないけれど間違いはある」と言ったところでしょうか。まずは、先生が楽しんで「分析」と「解釈」を行おうとしなければ、いつまでも国語は「長い文章を読んで登場人物の気持ちを表にまとめるだけ」のめんどくさい教科であり続けることになってしまうでしょう。