ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】意欲と必然性の先に生まれる学びを

 

 おはようございます。昨日は23時半から飛び込みでZOOM会議に参加して、筋肉の方とお話をしました。「筋肉は何にでも結びつけられる」とおっしゃっていましたが、結局はこの「関連づけ」がとても大切ですね。ひとつのことを深く考えられたとしても、他のものとの繋がりを語ることができなければなんの価値も生みません。この結びつけられるものどうしが遠く離れていればいるほど、話はおもしろくなるのだろうなと思いました。参加してくださった皆様おそい時間にありがとうございました。どうも、インクです。

 

意欲と必然性の先に生まれる学びを

 外国語を習得するいちばんの方法は「外国人に恋をすること」だと思っています。あの人となんとかしてコミュニケーションをとりたい。その思いが学習へと繋がります。これを「動機」と呼びます。

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 学校における学習には、基本的に動機が存在しません。1時間目は算数だから、算数を学習する。2時間目は国語だから、国語を学習する。そこに学習者の意志は介在しません。一斉授業という形をとる限り仕方のないところでもあります。だからこそ、学校の先生はなんとかして学習者に興味をもたせようと努めるのです。これを動機づけと呼びます。

 大抵の先生は、授業の導入でこの動機づけを行います。しかし先ほど述べたように、学校の授業には学習者の純粋な動機がありません。先生が一生懸命つくりだそうとしているその動機は、所詮つくりものでしかないのです。どれだけ先生が巧みに学習者の意欲を引き出そうとも、それは本当の意味で子どもたちの内から湧き出てきたものではないというわけです。

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 国語の授業で考えてみましょう。国語の授業という場はかなり特殊な環境です。学習者は、先生に「読みなさい」と言われるから文章を読み、「書きなさい」と言われるから文章を書きます。そして、ほとんどの場合において途中でやめるということを許されません。おもしろくないからと言って途中で教科書を閉じたとしたら、先生に怒られてしまうでしょう。

 まずは、先生自身がこの「日常生活における読み書き」と「国語の授業における読み書き」の違いを捉えておかなければならなりません。それらを捉えることができれば、「国語の授業における読み書き」の出発点には学習者の「読みたい」「書きたい」という思いがないということに気がつくはずです。はじめから「読みたい」と思って教科書をひらく学習者も、「書きたい」と思って鉛筆をとる学習者もほとんどいないというところが出発地点なのです。

 そしてそれに気がついたときに大抵の先生は、一生懸命「動機づけ」をしようとします。言わば「国語の授業における読み書き」を可能な限り「日常生活における読み書き」の形に近づけようとするのです。しかし残念なことに、どれだけ先生が頭を悩ませたとしても、思い通りに学習者の意欲がかきたてられることはほとんどありません。

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 たとえば、東京書籍から発行されている小学二年生の教科書「新しい国語 二上」の中に「たんぽぽ」という説明文が掲載されています。この「たんぽぽ」の授業において、学習者の興味・関心を促すために、導入段階で実物のたんぽぽを学習者に見せたとしましょう。もちろん先生の見せ方や話し方によって多少学習者を惹きつけることはできるのかもしれませんが、果たしてそれで本当に学習者はたんぽぽに興味を抱き、教材である「たんぽぽ」という説明文を「読んでみたい」と思うのでしょうか。

 自分が子どもだったころを思い返してみてください。国語の教科書を「読みたい」と思って読んだことがありますか。どれだけ導入に工夫が施されていようとも、やはり先生に「読みなさい」と言われるから読んでいたにすぎないのではないでしょうか。

 これと同じ例を「日常生活における読み書き」に当てはめて考えてみましょう。とある学習者が学校からの帰り道に、アスファルトのひび割れから力強く伸びているたんぽぽを発見したとします。さらに、そのたんぽぽを毎日観察し、その様子をクラスの友だちに伝えたとします。それから数日後、生活科の時間をつかってクラスの全員で実際にそのたんぽぽを見に行ったとします。

 ここまでの条件がそろっている状態で「実は国語の教科書に『たんぽぽ』という説明文が載っているんだけど読んでみる?」と先生が切り出したとしたら、もしかすると学習者の中には「読みたい」という感情が芽生えるかもしれません。

 しかし当然のことながら、こんなに都合よくたんぽぽを帰り道に発見する学習者などいません。あくまでもここで分かっておかなければならないことは、「日常生活における読み書き」として「たんぽぽ」という説明文を読んでみようと思うのは一体どのような場面なのかということです。そして、そのような場面がいかに「国語の授業」とかけ離れているかということです。それらがわかれば、必然的にひとつの疑問が生じることになります。

 

 なんのために読むのだろう。

 

 「国語の授業における読み書き」の中でもっとも重要なのはここではないでしょうか。一体なんのためにこの文章を読み、なんのためにこの文章を書くのか。「日常生活における読み書き」とは異なる特殊な環境の中で、読み書きを行うことの意義は一体何なのか。さらに言えば、なぜこの教材でなくてはならないのか。なぜこのテーマでなくてはならないのか。追求すべきはここなのです。

 何も導入に工夫を凝らすことが悪いと言っているわけではありません。むしろ、導入においても同じことが言えます。なんのためにその方法でその導入を行うのか。学習者の「読みたい」「書きたい」という意欲を促そうとしているのであれば、本当にその方法で学習者は「読みたい」「書きたい」と思うのか。教材研究とはこういうことなのではないでしょうか。

 ここを勘違いしてしまうと、本編の内容とはかけ離れた導入や、おもしろおかしさだけを追求した導入を行うことになってしまいます。たしかにときにはレクリエーションで場をなごませることも大切です。おもしろおかしくふざけて笑わせることも大切です。ただし、あくまでもそこがメインではないということを忘れてはなりません。

taishiowawa.hatenablog.com

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 国語を例に話しましたが、算数でも理科でも社会でも外国語でも、もちろん同じです。本当なら、たんぽぽの観察に行ったり、誰もが恋をしてしまうような外国人の転入生を呼べたりすればいいのですが、なかなかそういうわけにもいきません。

 先生が行う導入から生まれる動機は、所詮つくりもの。まずはそこを自覚すること。その上でこの教材をあつかうことの必然性を考える。スタートはここからです。その先はどうすればいいのかって? それは甘えすぎです。自分で考えてください。

 理想としては、導入で子どもの気をひくのではなく、学習することのおもしろさで気をひくことができている状態がベストです。めちゃくちゃ難しいんですけどね。だからおもしろいんですよ。教材研究って。