ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【木】日本人どうしでもことばが通じないことなんていくらでもある

 

 おはようございます。昨日は朝から訃報があり、クラスを他の先生に託して、すぐさま学校を後にしました。トホウではありません。フホウです。ええ、そうです。「ミトちゃん」はあだ名であって正しい読み方ではありません。だから、訃報があってトホホ...なんてギャグは通用しません。不本意な訃報で父母のもとへ帰る...とでも言ったところでしょうか。以上、渾身のブラックジョークでした。読者の皆様のまわりの方々が、これからも末永くお元気でありますように。どうも、インクです。

 

日本人どうしでもことばが通じないことなんていくらでもある

 「会って話せばわかり合えるはずだ」という人を時々お見かけますが、「んなわけねえだろ」と思っています。人と人とが本当の意味でわかり合うことなんてできません。だって、違う人間なんだもの。「いやいや、分かり合えたことがあるよ!」と思っている人がいるのなら、それは気のせいです。もしくは相手があなたに合わせてくれているだけです。恋人どうしだろうが、夫婦だろうが、親子だろうが関係ありません。わかり合えないものはわかり合えないのです。

 随分と辛辣なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、わかり合えないことは何も悪いことではありません。むしろそれが当たり前であり、大前提です。そこを変にわかり合えるものだと思ってしまうから、いろいろなところで摩擦が生じてくるのです。人と人とはわかり合えない。まずはこの前提に立つことが大切です。

 

f:id:taishiowawa:20200122224045p:plain

 

  そもそも、コミュニケーションのメインとなる「ことば」自体が決して万能な道具ではありません。「ことば」だけでひとりの人間を表しきることなんて不可能です。どんなにがんばったって「ことば」として表出された時点で、ほんの少しの嘘が混ざり込んでしまうのです。

 「ことば」は人間がつくり出したものであり、あらゆるものごとにはじめから「ことば」が付随していたわけではありません。たとえば、りんごそのものに「りんご」という名前がはじめからついていたわけではありません。人間が、赤くて丸いその物体を「りんご」と名付け、それを共有しているに過ぎないのです。つまり、その物体と「りんご」ということばの関係性は、「ことばが物体を見立てる」という一方通行です。物体側からことばにベクトルが向くことは絶対にありません。

 

 ありのままに自然に書く、という古来のもっとも有力な文章観は、ひどく欺瞞的である。自己欺瞞である、と言い換えたほうがいっそう正確かもしれない。その教訓めいた基準は、おそらく、寝ごとたわごとを書くためにもっとも有効であった。(中略)

 それが欺瞞的ないし自己欺瞞なのは、言うまでもなく、言語というものがそもそも不自然なものだという事実を避けている、あるいは気づかない、ということによる。ことばによって《まこと》を自然に語りうるという思いこみは、事実によって裏切られるほかなく、ことばに《まこと》が容易に反映するはずだという、それなりにもっとも言語観が生み出すものは、けっきょく《まことしやか》な文章である。

中村三春、佐藤信夫(1995)「近代のレトリック」有精堂、P.94

 

 要するに、わたしたちが「ことば」で表しているものは「それ自体=《まこと》」ではなく、ことばによってつくりだされた「見立て=《まことしやか》」なのです。そんな「ことば」をつかってコミュニケーションをとっているわけですから、そりゃあ本当の意味でわかり合うことなんてできません。

 だからこそ、同じ日本人でもことばが通じないことなんていくらでもありえます。わたしたちがつかっている日本語という「ことば」は、厳密に言えばひとりひとり違うのです。もちろんある程度統一されているからこそ意思疎通ができるわけですが、人がそれぞれ違うように、「ことば」が表す《まことしやか》も人によって違うのです。

 

f:id:taishiowawa:20200122232750p:plain

 

 絶望を連れてくるのはいつだって希望です。わかり合えると信じて一生懸命傷つけ合ったあとに、わかりあえないという事実に気づいたとしても、そこに残るのは絶望だけです。そこで傷ついて学ぶことも、もしかすると大切なのかもしれませんが、期待が大きすぎると立ち直ることができなくなるという可能性も十分に考えられます。

 それならば、はじめから、わかりあえないという前提に立ち、ほんの少しの共通部分に喜びを感じていった方が幸せなのではないでしょうか。わたしたちは「ことば」という道具をつかってのコミュニケーションでわかり合うことなんてできません。

 だからといって、コミュニケーションのすべてを諦めろと言っているわけではありません。むしろ、わかり合えないからこそ、ほんの少しの共通部分に喜びを感じることができるのです。「ことば」は、追いかけても追いかけても、ようやく触れられるかと思ったところでさささっと離れていきます。まるでアキレスと亀のようです。決して触れることはできません。だから、おもしろいんですけどね。

taishiowawa.hatenablog.com

 

 

  身近な人が亡くなるたびにいつも同じことを思います。自分はこの人のことを何も知らない。親族だろうが友だちだろうが、この人の人生を何も知らない。そんなことを思います。もちろん知らなくていいんですけどね。他者の人生を知ることなんて、生半可な覚悟でできることではありません。

 ただ、それと同時にほんの少しだけ「知っておきたかったな」とも思うわけです。この人は一体何を思いながら生きて、何を思いながら死んだのだろう。人の数だけ思考があるのだとすればこれほど興味深いものはありません。わかりあえないことから始まるコミュニケーションをたくさんの人ととっていけたらなと思います。