ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】これだけモノで溢れた時代に「モノを大切にしよう」は難しい

 

 おはようございます。先日久しぶりに自分の卒業論文を読み返してみたのですが、我ながらなかなかおもしろかったです。かなり荒削りではありますが、よくここまで書いたものだと感心しました。ラーメンズ小林賢太郎も「少なくともぼくは笑っていますから、自分が書いた台本で」と言っていました。「読みたいことを書けばいい」はあながち間違いではないのかもしれません。最初の読者である自分がおもしろいと思っていなければ、そりゃあおもしろいはずがありませんからね。どうも、インクです。

 

これだけモノで溢れた時代に「モノを大切にしよう」は難しい

  最近、悩んでいることがあります。それは「モノを大切にしよう」という指導の切り口についてです。みなさんもきっと子どものころに言われてきたはずです。「モノは大切につかいましょう」と。豆のような消しゴムで一生懸命字を消したり、短くなった鉛筆に銀色のコレをつけて使ったりしたと思います。

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  しかし、そのころと今とでは時代が大きく変わっています。今は、モノで溢れかえっておりり、多くのモノの希少価値がなくなりました。鉛筆も消しゴムも、最寄りのコンビニに行けばすぐに手に入ります。「なくしてしまったら買えばいい」が十分に通用するようになったのです。

 そんなときに学校の先生がよく言うのが「おうちの人があなたのために一生懸命働いてくれたおかげでその鉛筆を使えているんだよ」ということばです。よく聞きますよね、このセリフ。昔からずっとこのセリフが嫌いでした。働いてくれているって何ですか。嫌々であることが前提ですか。おうちの人は、本当は嫌で嫌で仕方がないけれど、子どもの鉛筆を買うために一生懸命働いてくれているのですか。

 もちろん中にはそういう人もいるかもしれませんが、それを前提としてしまうと、子どもたちにとっては、希望も何もあったものではありません。子どもの鉛筆を買うために嫌な仕事を我慢してしなければならない。そんな大人になりたいと思いますか。仮にそれが、ある人にとっては事実であったとしても、子どもたちに見せるべきものではないでしょう。大人の疲れている姿を見続けた子どもたちが、明るい未来を想像するはずがないのです。

 しかし、だからと言って、「モノを大切にしなければ自然環境が〜」と言い始めてしまうと今度は話が大きすぎて、子どもたちには響きません。一体どのように伝えるのが最適なのでしょうか。そもそも、本当にモノは大切にしなければならないのでしょうか。身の周りのモノをすべて大切につかうことができていると、自信をもって言える大人がどれだけいるのでしょうか。大切なモノとそうではないモノがあって当然なのではないでしょうか。

 

 

 学校には、このように「なぜそれを指導するのか」がよく分からないまま続けられている習慣がたくさんあります。きっと、みんなの中に「先生とはこうあるべきだ」という妙なイメージが定着してしまっているのでしょう。

 先生は「モノを大切にしなさい」と言う生き物だ、先生は「みんな仲良くしましょうね」と言う生き物だ、先生は「人という字は人と人とが支え合って〜」と言う生き物だ、と思い込んでしまっています。このイメージを疑おうとしないせいで、大人と子どもの間に壁ができてしまうのです。

 ここに「なぜ?」という疑問を投げかけた子どもは、「言うことを聞かない子どもだ」と思われてしまいます。仕舞いには「だめなものはだめだ!」なんてわけの分からないことを言われます。

 「どうしてモノを大切にしなければならないの?」と子どもに訊かれたなら、みなさんはどう答えますか。くれぐれも「大切にしないとモノがかわいそうでしょ!」とか「そんなの当たり前でしょ!」とかはナシですよ。「おうちの人が〜」とか「地球環境が〜」とかも勘弁してくださいね。質問してきた子どもは相当ひねくれているので、そんな回答では満足しません。それでは改めて。

 

「どうしてモノを大切にしなければならないの?」