ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】文学教材の必要性を語れる教員がどれだけいるのだろう

 

 おはようございます。雨が降っているかどうかに関係なく、湿度が高い日って嫌ですよね。暑いわけでもないのに汗をかいてべたつきます。くせっ毛の人は髪型も変わってしまいます。洗濯物も全然乾きません。やってられません。

 反対に、どれだけ雨が降っていようとも湿度が低ければ問題ありません。むしろさらっとした爽やかな雨っていいですよね。部屋で本を読むには1番いい環境だと言ってもいいでしょう。いっそのこと傘をさしてお出かけするのもいいかもしれません。

 人の心に大きく影響するのは天気よりも湿度だというお話でした。湿度が高い日の楽しみ方を知っている人がいたら教えてください。どうも、インクです。

 

文学教材の必要性を語れる教員がどれだけいるのだろう

 「目的」の重要性に焦点が当てられるようになったこのごろですが、国語教育における文学教材の必要性(目的)を語れる教員がどれだけいるでしょうか。そもそも文学を読む教員がどれだけいるのでしょうか。

 読みやすい本を読んで、その冊数や読了感に満足してしまっていませんか。本を読むと他の人の知らないことを知った気になれて嬉しくなりますよね。『惡の華』の主人公である春日高男もこう言っています。

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   前にも少し書いたかもしれませんが、読書行為そのものには何の意味もありません。本を読んだからといってお腹が満たされるわけでもありませんし、部屋が綺麗になるわけでもありません。変わるのは時計の針の位置くらいです。

 「いやいや、心持ちが変わるよ!」と思っている方がいるかもしれませんが、それはあくまでも自己満足でしかありません。物事が変化するのは、その心持ちが行動に移されたときです。つまり、読書行為は変化そのものではありませんが、変化のきっかけには十分なりえるということです。そのように考えると、説明的文章は分かりやすいですよね。「知りたいことを知る」「興味があることを知る」「分からないことを知る」という明確な目的があります。取扱説明書なんてまさにそれですね。説明的文章は実生活に結びついており、「役に立った」と感じやすいのです。ここからが本題です。文学的文章を読むことは必要なのでしょうか。

 近年「文学は役に立たない」ということばをよく耳にするようになりました。文学部が存続の危機にあるだなんて記事もよく見かけます。私たちは何も考えずに、文学を学習してきました。当たり前のように文学を読んできました。ある教師はこう言います。「想像力を豊かにするために文学を教育するのだ」と。また別の教師はこう言います。「未知の世界を疑似体験させるために文学を教育するのだ」と。これに対して社会はこのように言うのです。「成果は出ているのですか」と。この質問に「はい」と答えられる教師がほとんどいません。これが文学教育の現状です。

  役に立たないものはいらない、これはいたって自然な考え方だと思います。そもそも教育とは、社会にとって役に立つ人材を育成するシステムです。社会形成に役立たなければ教育で取り扱う必要性はありません。

 

 ここまでの内容を前提として、二つの観点から話を進めたいと思います。ひとつ目は、本当のところ文学は役に立つのか立たないのか。ふたつ目は、本当に文学教育は必要ではないのか。これから述べることはあくまでも個人の見解ですので、一緒に考えていただけると幸いです。

 単刀直入にひとつ目の問題に答えると、文学教育はたしかに役には立たないと思います。社会で叫ばれている意見はもっともです。算数教育のように実生活に密着しているわけでもなければ、外国語教育のように実践するタイミングが訪れるわけでもありません。文学を使って買い物をするわけでもなければ、邪智暴虐な王に親友を預けて妹の結婚式に行く機会が訪れるわけでもないのです。それでも文学教育は行われています。一体なぜなのでしょう。

 少し話は変わりますが、昔から疑問に思っていたことがあります。それは「村上春樹や太宰治がなぜ大衆に受け入れられたのか」というものです。音楽の世界では、まあ見られない現象です。大衆向けにつくられた歌謡曲やアイドルソングがいつだってランキングのトップを占めています。漫画や映画の世界でも近しいことが言えるのかもしれません。

 村上春樹の描く作品世界と太宰治が描く作品世界はもちろん違いますが、社会的に見ればどちらもマイノリティの世界を描いていると思っています。もちろん一定数のファンがつくのはよく分かるのですが、これほどまでに多くの人々に支持されるのは一体なぜなのでしょうか。ずっと疑問に思っていました。その疑問の答えと、文学教育が存在し続ける理由を結びつけて考えていきたいと思います。

 

 先ほど、村上春樹や太宰治が描く世界を「マイノリティ」と表現しましたが、これを人間の「本音」の部分であると仮定します。つまりは、マジョリティの世界に生きる人々も多少は所有しているということです。そして、人々はある側面において、その「本音」を欲しています。その欲求が、村上春樹や太宰治が大衆に受け入れられた要因というわけです。仮定に仮定を重ねてしまっているので、今度は教育側から考えてみたいと思います。

 教育とは、その「本音」を押し殺すことを目的としたシステムです。事実として、誰もが「本音」をもとに好き勝手に行動すれば、社会は成り立たなくなってしまいます。教育を通してよい子であることを苦だと思わない人間を育成する必要があるのです。その「本音」を多く抱えたまま教育課程を終えてしまった人々が「マイノリティ」というわけです。そして、その「本音」が表現されたものが「文学」です。

  つまり「教育」と「文学」は対局に存在しており、上手にバランスをとりながらここまで受け継がれてきました。もし「文学」が無くなれば、「教育」では完全に消し去ることのできなかった「本音」が社会の中で破裂することになります。ただし、勘違いしないでほしいのが、「本音」は何も悪いものではありません。むしろ、人に生まれつき備わったものであり、人が人である所以だと言うこともできます。集団生活を円滑にするべく「教育」で抑制することができたとしても完全に消し去ることができるものではありません。いや、消し去ってはならないものなのです。

 言わば、「文学」は反社会的・反教育的な存在です。そのような「文学」を私たちは「教育」しているのです。教師が文学教育の意義を説明できないのももっともだと言えるのではないでしょうか。「教育は人の本音を押し殺すためのシステムであるが、その本音を完全に消し去るわけにはいかないから文学を教育している」だなんて教師の口から述べることはできないのです。

 

 ここまでの内容を踏まえてはじめの話題に戻ると、近年まさにこの「文学」と「教育」のバランスが崩されようとしています。「ゆとり教育」を通して、学習者はより素直に「本音」を求めることを望まれたのですが、社会はそれを求めていませんでした。このため、「脱ゆとり教育」が進められました。言い換えるならば、再び「本音」に厳しい教育が推奨されたのです。つまり、裏を返せば、その「本音」を担う「文学」の必要性が高まるということです。しかし、そんな変化の中で「文学は役に立たないからいらない」という声が上がっています。本当に文学はいらないのでしょうか。人が人として欲する「本音」の行き所として、文学は必要なのではないでしょうか。

 

 

  という記事自体も、結局は「ち…ちがうね!オレは本を読んでいる!」のひとつに含まれるのでしょう。数ある本の中でも、文学は高尚なイメージをもたれやすく、マウントをとるにはもってこいですからね。ただ、やはり教師自身が腑に落ちていない教材をつかって授業することは無責任な気がするので、自分が思う文学教育の意義をつらつらと書いてみました。

 きっと普段から文学に親しんでいる人は、文学の重要性を知っていると思うのですが、いざ意見を述べろと言われたら難しいのではないでしょうか。普段読まない人ならなおさらです。それでも文学を教育しなければならないのが教師です。この記事が考えるきっかけになればいいなと思います。そして、もしよければあなたの考えも聞かせてください。長々と稚拙な文章を読んでいただきありがとうございました。どうかよい日曜日をお過ごしください。