ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

相手の気持ちを想像する力は案外たくさんの可能性を潰す

 

 地元にはふたつの映画館があります。ひとつは、家族づれや学生で賑わう、ショッピングモールの上階にあるタイプのポピュラーな映画館です。もうひとつは、繁華街から外れたところにある、割とマニアックなセレクトをしている映画館です。

 これまでの「映画館」のイメージは、前者でした。休日に行けば必ず隣の席には誰かが座り、悪い時には高校生たちのくだらない喋り声が上映中に聞こえてきます。ゆっくり作品に集中するにしては、あまり好ましい環境とは言えません。

 だから、「映画館」のことはあまりよく思っていなかったのですが、最近後者の映画館に足を運び「映画もいいかもしれない」と思うようになりました。この映画館では、休日であれ隣に知らない人が座ることはありません。上映している作品が作品ですので、客層もかなり限定されています。その映画館では開演時に学校のチャイムが鳴ります。映画館で聞くチャイムはまた違って聞こえる気がします。これからも通ってみようかな。どうも、インクです。

 

そもそも論を話したいけれど、そもそも論を話す人はめんどくさがられる

  学校には、年に二回「校内学校評価」という会議があります。学校内のあらゆるルールの改善策を検討していく会議です。

 今の勤務校には「体操服を忘れたら体育の授業は見学する」というルールがあるのですが、「学習の機会の奪うことになるから忘れても参加できることにしないか」という提案がありました。結論としては、「忘れても参加できるのなら忘れずに準備してきた子はどうなるんだ」という点から、ルールは継続になりました。

 これが「学校」という場所です。その場で意見せずに、後日談としてこうしてブログに書いている時点で私の負けなのですが、あまりにも不毛だとは思いませんか。時間の無駄でしかありません。

 このテーマで議論するのなら、話し合うべきは「そもそも体操服は必要なのか」だと思います。体操服の目的は「体育の授業においての機能性」と「発汗による衛生面への配慮」だと思うのですが、そもそも動きにくい服装をしている子どもなんてほとんどいません(もちろんスカートへの配慮は必要だと思いますが)。さらに言えば、体育以上に身体を動かしているであろう休み時間は私服で運動場を走り回っています。体育の時間以外にも、身体を動かしているし、汗もかいてるのです。その上で、本当に体操服は必要なのでしょうか。

 もちろんこのような意見には様々な反論もあがるでしょう。結果的には、同じようにルールは変更されずに終わることになるかもしれません。しかし、これでこそ「議論」なのではないでしょうか。そもそもなぜ体操服は必要なのか。この根本を共通理解してこそ、初めて「体操服を忘れた児童への対応」の話ができるのです。 

会議で使われる用語の定義が統一されていない

 今となっては誰もが知るカルロスゴーンが、日本の会議のようすを見てこう言ったそうです。まったくもってその通りだと思います。そもそも論を話す人ってめんどくさがられるんですよね。議論は変革のためにあり、変革は本来ならわくわくするものであるはずなのです。「議論を楽しむ」という感覚が本当にないのだろうなと思います。

 

 

人と話すのは好きだけど話して後悔することがあまりにも多い

  これでもまだマシにはなったと思うのですが、昔から「世間話」が大の苦手です。天気の話なんてどうでもいいし、このあとの予定なんて知ったこっちゃありません。ばったり知り合いに出会ったときに、5分ほどの「上手な世間話」ができる人を本当にすごいなと思います。

 コミュニケーションは、相手との熱量が同等である必要があります。どれだけ真剣な話がしたくても、相手の熱量が低ければ「真面目すぎ」「考えすぎ」と言われて終わります。最悪の場合は、バカにされることだってあるかもしれません。

 そこで熱量の低い会話を何気なく行える器用さを持ち合わせていればよかったのですが、先ほどにも書いたように「世間話」が苦手です。無理をして装っている自分が嫌になります。おもしろくもないのに笑うのにはあまりにもエネルギーを使います。

 そうしてだんだんと人とのコミュニケーションを避けるようになりました。だからと言ってまったくチャレンジをしなかったわけではありません。やはり根本には「話したい」という思いがあるのです。しかし、話をして後悔することがあまりにもたくさんありました。「この人にこんなに自分の内面を見せるべきではなかった」とか、「上手に笑えなくて逆に気を遣わせてしまった」とか。口数が少ないようにみえて、本当は話したいんです。話すことはできるんです。でももう後悔もしたくないんです。

 

 

相手の気持ちを想像する力は案外たくさんの可能性を潰す

  大人たちはよく「相手の気持ちを考えなさい」と子どもたちに言います。確かに相手の気持ちを想像することは大切です。相手の気持ちを考えずに、人を傷つけることはよくないことです。しかし、それと同時に、相手の気持ちを想像する力は案外たくさんの可能性を潰します。こんな想像力なければよかったのにとさえ思うこともあります。

 「こう言ったらきっとあの人はこう返してくるだろうな」と、頭の中で会話を完了させて、結局口にしないまま終わることがあります。「そんなこと言ってみないと分からないじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、それがまあ当たるんです。その積み重ねで、最終的には「話しても仕方がない」になってしまうのです。

 日本では「遠慮」や「謙虚さ」が美徳とされがちですが、これらのせいで失われた可能性が山のようにあるはずです。「きっとこんなことを言ったら場の空気を悪くするだろうな」「きっとこんなことをしたらみんなに笑われるだろうな」、そうして無限に広がっていた道は狭くなり、気づけば道を選ぶことすらできなくなるのです。

 それではあまりにももったいないので、最近は意図的に内面をばら撒くように意識しています。キーワードは「無礼」です。それでもきっと放出量は人並み以下だと思うのですが、おもしろがってくれる人も増えたような気がします。孤独は前提です。分かってもらおうだなんて高望みはせずに、おもしろがってくれる人の数を増やしていこうと思います。

 

 

 芸人さんがよく言う「居酒屋での熱い話」に憧れます。きっと振り返ってみれば恥ずかしい話がほとんどなのだと思いますが、そんな話ができる、熱量が共有された場が本当に羨ましいです。人生をかけてその道に進むことを選んだ人たちが集まるからこそ、同等の熱量で話ができるのだろうなと思います。

   真面目な話をしよう。真剣な話をしよう。恥ずかしい話をしよう。そこからしか得られないものがきっとあるはずです。