ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

お土産は 仲良しだけで いいじゃない

 

 かの有名YouTuber「東海オンエア」のメンバーである虫眼鏡さんは元教員だったそうです。いつも通り授業をしていると、放送で校長室に呼び出され、動画に出演していることをこっぴどく叱られたそうです。その後退職し、今の彼があります。なかなかファンキーですよね。どうも、インクです。

 

不合格って「自分が悪かった」と思わざるを得ないもんなあ

  教員には他業種と同じように、正規教員と非正規教員がいます。非正規教員のことを主に「講師」と呼び、常勤講師は正規教員とまったく同じ業務をこなします。両者の違いは、各自治体が行なっている「教員採用試験」に合格したかしていないかです。大学を卒業して一発で合格する人もいれば、10回受験してようやく合格したなんていう人もいます。採用基準はよく分かりません。

 不合格だったら「残念だったね。でも来年は受かるよ」となぐさめられます。そして、また来年の採用試験に向かって、正規教員と同じ業務をこなしながら1年を過ごすのです。このような仕組みは他業種でも同じなのでしょうか?

 「不合格にしても、講師として働かせておけばまた来年受験しにくるだろ」と、若手の熱意が弄ばれているような気がしてなりません。しかも、不合格者からしたら「自分が悪かった」と思うしかないのです。もちろん、悪かった部分はあるのかもしれません。自己PRが足りなかったのかもしれないし、実技試験がうまくできなかったのかもしれません。何が悪かったのかもわからないまま、一通の不合格通知がきておしまいです。

 「そんなの一般企業でも同じだよ」と思うかもしれませんが、問題なのは講師制度の存在です。合格しなくても働けてしまうのです。合格者と同じように。少し悪い待遇で。もちろん採用試験の受験者のほとんどは、熱い気持ちをもって教員になろうとしている人たちです。そんな人たちに対して「合格はさせないけど、同じように働け」と言っているのです。最高にタチが悪いですね。

 近年、教員の志願者数が減り、今更ながら委員会が焦りはじめています。「ざまあみろ」と思いたいところですが、それにより被害が及ぶのは誰だと思いますか。そうです、子どもたちです。教員数が減れば当然ですが現場は疲弊していきます。現場が疲弊すれば、子どもたちも疲弊します。教員には真面目な方が多いので、このような状況になると「子どもたちのために」と頑張ってしまうんですよね。そして、さらに疲弊して、最終的には現場にいられなくなるのです。

 こういう状況下では、教員は逆に強気に出なければならないのではないかと思っています。特に講師こそ強気になってもいいのかもしれません。「こんなことを続けるのならいつでも辞めるぞ」と。そして、実際に辞めてしまうのもひとつの手です。「子どもたちを見捨てているような気がして...」だなんて思う人は真面目すぎます。先ほど述べたように、あなたが頑張れば頑張るほど、「子どもたちのため」から離れていくのです。皮肉が効きすぎてあまりにも残酷な話ですね。

 

 

お土産は 仲良しだけで いいじゃない

  お土産をもらって嬉しいと思ったことがほとんどありません。もちろん美味しいものは美味しいですし、珍しいものには興味も湧きます。しかし、それ以上にあの「善意の押し付け」が嫌で仕方がありません。もちろんあげた側がそんな風に思ってはいないかもしれませんが、お土産の裏側には無駄な気遣いが含まれ過ぎています。

「旅行に行く話をしたからには、お土産を買って帰らないと失礼だよな...」

「この前、あの人にお土産もらったから返さないといけないよな...」

「仲のいい数人だけに渡しちゃうと、他の人がどう思うか分からないから全員分買うか...」

 煩わしいったらありゃしません。「お土産なんていらないから、こちらからもあげません!」と宣言するべきなのかもしれませんね。

 一昔前に、キングコングの西野さんが差し入れを拒否して炎上していました。「あなたのためを思って持ってきてくれた差し入れを拒否するなんてヒドい!」という調子です。どれだけ不要なものでも、善意を拒んではいけないという考えですね。

「あなたのためにやったんだ!」

「君のためを思ってやったんだ!」

「子どものためを思ってやったんだ!」

 「あなたのため」ということばを聞くと、ドラマ『24』に登場するパーマー夫人を思い出します。彼女はこれらの「善意の押し付け」を風刺的に描いたキャラクターだったのではないかとさえ思っています。

 きっとこれからも「あなたのため」の人に出会うと思います。そんな人に出会った時には注意が必要なのかもしれません。

 

 

何でも承認するというやり方は「あの人に言っても仕方がない」を生む可能性がある

  自分のことを認めてくれる、受け入れてくれる、そんな人の存在はとても大切です。自己肯定感や自尊心にも繋がってくるのでしょう。

 だからと言って、なんでもかんでも承認してしまうのは違うのではないかと思います。先ほども述べたように、誰かに承認されたら確かに嬉しいかもしれません。しかし、その感情をもう少し細かくすると、そこには「他の人ではなく自分を承認してくれた」という思いがあるはずです。恋愛感情にも少し似ているのかもしれません。「あの人は他の人とは違って、自分のことを分かってくれた」と思うからこそ嬉しいのです。

 ところがどうでしょう。誰でも、何でも、承認する人に承認されて嬉しいでしょうか。

あの人は他の人にも同じように言っていた。

何を言ったって、何をしたって、承認される。

あれ?何だっていいんじゃないか。

 

あれ?自分じゃなくたっていいんじゃないか。

  少し極端ではありますが、最終的には「あの人に言っても仕方がない」に行き着く可能性があります。ものごとはすべて裏があるから表があります。「承認されない苦しみ」があるから「承認される喜び」があるのです。まったく認めてくれなかった師匠に認めてもらうからこそ嬉しいのです。もちろん拒絶することを勧めているわけではありません。承認することはとても大切です。ただし、そこには研ぎ澄まされた判断の先にある明確な基準が必要なのではないかということです。

 

 

 大学で一度地元を離れたのですが、現在はまた地元に戻り、仕事をしています。戻ってきた理由は「他の場所に行く理由がなかったから」です。しかし、最近になってちょっとまずいなと思い始めました。ひとつの場所にとどまり続けると、どんどん世界が狭まっていくような気がしてならないのです。特に教員は地方公務員にあたるので、その地域から離れることはできません。井の中の蛙、空の青さも見えないところまで深く潜る。そんな状態です。

 もしかすると、どこかへ行くのに理由なんていらないのかもしれません。いずれは場所を選ばない仕事をしたいなと思います。なんの理由もなく上京してみようかな。それとも、思い切ってアメリカにでも行こうかな。

 誰かがやっているということは、自分にもできるということです。移動する準備を始めよう。残された時間は驚くほど短い。