だってなんだか、だってだってなんだもん。どうも、インクです。
ひとつの目的に向かうからこそ多様性に価値が生まれる
ひとつの目的に向かうからこそ多様性に価値が生まれる
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2019年8月30日
多様性が大切だと叫ばれるようになってから、一体何年が経ったでしょう。大切だ大切だと言いながら、本当に社会は多様性を求めているのでしょうか。出る杭は打たれ続けているではありませんか。異物は排除され続けているではありませんか。
そんな社会が続く一番の原因は、集団における目的が共通認識されていないことにあると思っています。ひとつの目的に向かうからこそ多様性に価値が生まれるのであって、目的をもたない多様性はただのバラバラです。これもいいね、あれもいいね、だけでは物事は前進しないのです。
なんのために学校があるのだろう?なんのために教育があるのだろう?
それすらも「人それぞれだ」と言う人がいるかもしれませんが、本当にそうでしょうか。ひとりひとりがまったく異なる方向を向いて、思い思いの教育を行って、はたして成果が見込めるのでしょうか。
もしかすると、ここまでの内容を「人を機械にする教育」や「右にならえの教育」などと混同させる人がいるかもしれませんが、そうではありません。最上位の目的が共有されていない状態で、多様な人々が協力して物事を前進させることなんてできないという話です。どれだけ優秀であったとしても、個人でできることには限界があるのです。
今の現場では、目的をはっきりさせないまま、手段だけを一生懸命そろえようとしています。手段をそろえようとするものだから、その先生ならではの方法論は黙殺され、その先生がその先生である理由が失われています。そりゃあストレスもたまるでしょう。人間関係もうまくいかないでしょう。
そろえるべきものは手段ではなく目的です。同じ目的を達成するために、それぞれの先生がそれぞれの得意分野を担っていけばいいのです。それこそが多様性の価値なのではないでしょうか。
教育そのものが手段であり目的ではない
教育そのものが手段であり目的ではない
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2019年9月1日
さあ、そんな教育ですが、もちろん「目的」は国から示されています。教育基本法 第一条の条文を見てみましょう。
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
この目的を達成するために世の先生方は日々がんばっています。どうでしょう、達成できそうでしょうか。
かなり厳しいところがありますよね。あまりにも定義がはっきりしていない用語が多すぎます。どうなったら「人格の完成」なんだ?どうなったら「社会の形成者」なんだ?「真理」とはなんだ?「正義」とはなんだ?どうなったら「自主的精神に満ちた心身」と言えるんだ?わからないことだらけです。
さすがにこの目的だけをぽんと提示して「あとは任せたよ!」というほど国は無責任ではありません。目的へ向かうための道筋も、当然示してくれています。ご存知「学習指導要領」です。学習指導要領どおりに進んでいけば、子どもたちの人格は完成し、社会の形成者へと育つはずなのです。
きっとこんなことを言い始めると、「いやね、君。あくまでも子どもはひとりひとり違ってだね。そこは臨機応変に対応してもらはないと」だとか、「学習指導要領というのはあくまでも基準であって、結局は現場だよ」だとか言う人が出てくるのでしょう。こうして責任の所在はあやふやになり、現場の先生が疲弊していくのです。
たしかに子どもたちはひとりひとり違いますし、臨機応変に動くことも大切です。でもそれは、ひとつの道筋がはっきりしているからこそ言えることなのではないでしょうか。あの子にこの目的を達成させるためにはどうしたらいいのだろう。このトラブルから本来の目的に戻すためにはどうしたらいいのだろう。そう考えるからこそ、動くことができるのです。
目の前にいる子どもの人格を完成させるためにやるべきことはなんですか。社会の形成者にするためにはどうすればいいんですか。もう「人それぞれ」や「その場に合わせて」ということばで逃げるのはやめましょう。目的がはっきりとしなければ、いつまでたっても迷子です。
「効率」とは、手段に関する概念であって、目的とは無関係のものだ。
「効率」とは、手段に関する概念であって、目的とは無関係のものだ。
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2019年8月31日
家の中を動くときは、いつも動線を考えてから動き始めます。
まずは食器を流し台に置き、そのままトイレに行く。そしてトイレからの帰り道に食器を洗い、コップをとって、お茶を入れて、パソコンの前に戻ってくる。
という具合です。これは「食器を片付け、トイレに行き、お茶をいれる」という目的を達成するための手段です。極端なことを言えば、食器を片付けて戻ってきて座り、再び立ってトイレに行って戻ってきて座り、また立ってお茶を入れて戻ってきて座る、という手段をとることだってできます。もちろん、そうしないのはめんどくさいからです。これが「効率」です。「食器を片付け、トイレに行き、お茶をいれる」という目的と「効率」はまったくの無関係です。これらの目的を達成するための「手段」に関係するのが「効率」なのです。
しかし、これがもし、「運動をする」が目的だとしたらどうでしょう。一度にすべてをこなすよりも、一回ずつ戻ってきた方が「効率的」だということになるのに気がつきます。そのように考えると、はじめに話した事例は「短い時間でこなす」が目的だということになります。
つまり、目的を「短い時間でこなす」に設定するのか「運動をする」に設定するのかで、「効率的な手段」の内容は大きく変化するのです。これがどうも、「効率」の定義が前者に偏りすぎている気がします。「目的」に応じて「手段」は変化し、「手段」に応じて「効率」は変化します。手数を減らし、素早くこなすことだけが効率的だとは限らないのです。
まるで自分のことばであるかのように話してきましたが、今回の記事には参考文献があります。本当はその都度引用しないといけないんですけどね。今話題の麹町中学校の工藤校長に関係する著書3冊と、元文部科学省官僚である岡本薫氏の 著書1冊です。どの本も興味深いのでまだ読んでいない方はぜひ。
参考文献
・工藤勇一「学校の『当たり前』をやめた。」(時事通信社、2018年)
・多田慎介「『目的意識』で学びが変わる」(ウェッジ、2019年)
・工藤勇一「麹町中学校の型破り校長 非常識な教え」(SBクリエイティブ、2019年)
・岡本薫「日本を滅ぼす教育論議」(講談社、2006年)