ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

怒るやつがいるとおもしろくなくなる

 

 たけのこの里、カントリーマアム、ぼんち揚が好きです。インクです。

 

当たり前だと思っているその思考は必ず何かしらの影響を受けて形成されている

  子どもたちのトラブル対応をしていると、よくこんな言葉を聞く。

「だって本当のことだもん!」

どうして子どもたちは、本当なら言ってもいいと思っているのだろう。たとえそれが事実であったとしても、言ってもいいことと言ってはならないことがある。もちろんそれを学んでいくのが学校という場所なのだろうが、どうしてこうも皆が口をそろえてこのセリフを吐くのだろうか。

 この狭い塀に囲まれた「学校」という場所では、たとえ間違った考え方でも簡単に「常識」になりえてしまう。究極のガラパコス諸島というわけだ。それは、教師陣にもまったく同じことが言える。「職員室」というとてつもなく狭い世界の中で、正義が横行する。他の学校に行って研修会を行ったりすることもあるのだが、結局そこにいるのも所詮は同じ「教育関係者」だ。ガラパコスの島から島へと移動しているにすぎない。

 さらに厄介なのが、長くそこに住み続けた人ほどその正義を疑わない。当然ながら外界の文化を受け入れようとなんてしない。だからこそ「学校」には意味のわからないルールがたくさん存在し、社会のめまぐるしい変化に対応することができないのだ。

 あなたが「当たり前」だと疑わないその思考は、一体何に影響を受けている?親に言われたから?みんながそう言っているから?テレビで観たから?ネットの記事で読んだから?

 そのソースはあなたの「当たり前」を形成するほど信頼できるものなのか?

 

 

怒るやつがいるとおもしろくなくなる

  これまた子どもの話になるが、体育で球技などの勝負事をすると間違いなく「怒るやつ」がでてくる。「怒るやつ」が出てくると、相手チームはおろか、味方のチームのメンバーまでもがおもしろくなくなってしまう。だから、クラスで勝負事をするときには、「どんな理由があったとしても怒るやつは退場」とあらかじめ宣言している。

 きっと、人間にとって「怒る」という感情は大切だ。「怒る」という感情は、言い換えると「何を大切にしているか」ということだと思っている。自分が大切にしているものをバカにされたり、傷つけられたりしたら人は怒る。怒りっぽい人はきっと大切にしているものが多すぎるのだろう。 

 でも冷静になって考えてみたときに、その事象は本当にエネルギーをつかって怒るほど自分が大切にするべきものなのだろうか。体育のその1ゲームの勝敗がそれほど大切だろうか。そこで怒って、敵も味方もおもしろくなくなってしまうくらいなら、ある程度の「どうでもいいや」は大切なのではないだろうか。

 

 

家事でもっともめんどうなのは皿洗い

  「ひとり暮らしをすると家族のありがたみが分かる」だなんてよく言うが、正直ひとり分の家事なんて大したことがない。むしろ時間に縛られることなく、好きなタイミングでごはんを食べたり洗濯できたりするのでいいものだ。

 しかし、めんどうなことに変わりはない。一番やっかいなのが皿洗いだ。買ってきたものを食べようとしたときにお箸がない。ビールを飲もうとしたときにコップがない。それはもう最悪だ。逆に、使いたいときにお箸やコップが洗い終わっていると、過去の自分は天才なのではないかと思う。

 「そんなもの、使ったらすぐに洗えばいいじゃないか」という人がいるかもしれないが、きっとそんなことを言う人は、今でもママにお皿を洗ってもらっているか、聖人君主かのどちらかだ。

 

 

 今日の記事は意図的に常体で書いてみた。なんだか常体で書いた方が本音が表れやすいような気がする。「話し言葉」は、相手との関係やその場の空気感を考慮しなければならないため、本音を表現するのが難しい。しかし、ブログのような不特定多数に向けて発信する「書き言葉」は、ある種独白のようなものであり、好き勝手に表現できるのでおもしろい。やっぱり「その人だからこそ出てくることば」じゃないと、どれだけ作り込まれたコンテンツでもおもしろくはない。