ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】学校の先生はもっとおもしろい仕事であるはずなんだ

 

 おはようございます。コロナウイルスのせいで、おでかけができない状況が続いています。でかけるなと言われると、でかけたくなるのが人間というものです。しかし、迂闊にでかけられないのも事実です。自分が感染することももちろんこわいですが、なによりも自分が高齢者にウイルスをうつしてしまうことが最もこわいなと思います。高齢者が運転免許を自主返納するのと同じです。若者だって、できることをしなければなりません。若者と高齢者とでは、現状における不安感はまったく違うでしょうからね。終わりが見えないマラソンは苦しいものです。お互いがほんのすこしの配慮をしながら生活できたらいいですね。どうも、インクです。

 

学校の先生はもっとおもしろい仕事であるはずなんだ

 「学校の先生=ブラック」 というイメージが、随分と世間にも定着してきたような気がします。「小学校の先生をしています」というと、ひとこと目に「大変ですよね」と言われます。そう言われるたびに「なんだかなあ」と思います。たしかに大変なのは事実ですし、改善すべきポイントはいくらでもありますが、それでもやっぱり学校の先生っておもしろい仕事ですよ。こんなにおもしろい仕事もなかなかないのではないかと思っています。

 変に「忙しいんでしょ」と思われすぎてしまうと、より社会から切り離されてしまうような気がしてなりません。忙しい人には話しかけないでおこうと思いますからね。どうせ忙しいからやめておこう。そんなふうに思われてしまいます。ただでさえ小さなムラである学校に、外部の情報が入らないとなると、これはもう致命的です。

 だからこそ時間的ゆとりが必要なのです。先生たちの心のゆとりは、子どもたちの心のゆとりに繋がります。そのためにはやはり、業務量を減らさなければなりません。時間的ゆとりをつくり出して、心のゆとりを生み出さなければならなのです。...... なんてことは、もう散々いろいろなところで言われているでしょう。ここについて詳しく知りたければ、他の方の記事を読んでいただけたらと思います。

 今日は、このような不平不満ではなく、改善案でもなく、単純に「先生という仕事の魅力」についてお話しできたらと思っています。ただし「子どもたちの成長を感じられる」とか「子どもたちと一緒に自分も成長できる」とか、そんなありきたりなことを書くつもりはありません。もっと「仕事」に寄った内容で書きたいと思います。本日も最後までよろしくお願いいたします。

 

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1.すぐに実行できる

  やろうと思ったことをすぐに実行できる。これは学校の先生という職業の大きな魅力だと思っています。一般企業なら、企画書を書いて、上司の許可を得て、ハンコをもらって、なんやかんやあって、ようやく実行に移すことになります。しかし学校の先生は、思いついたら即行動に移すことができます。

 もちろん、その過程で、同じ学年の先生に相談したり、管理職の先生に相談したりということはありますが、基本的に「許可がなければできない」ということはありません。どれだけ反対されようとも、担任がやろうと思えばある程度のことはできてしまいます。

 だからこそ、昨日思いついたことを今日やってみるなんてことも往々にしてあり得ます。さらに言えば、明日も明後日も授業は続いていくので、今日うまくいかなかったことはすぐに改善して再チャレンジすることができます。要はトライ&エラー&改善を比較的簡単に行えるということです。

 働く上でいちばん辛いのは、トライする機会すら与えられないことだと思っています。当然ながらトライの機会がなければエラーも改善もありません。変化のない毎日がくり返されるだけです。その点で言えば、学校の先生は毎日がトライの連続です。そこには変化がありドキドキがあります。これは間違いなく先生という職業の魅力だと言えるのではないでしょうか。

 

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2.個性を生かすことができる

 やろうと思ったことをすぐに実行できるということは、自分の個性を反映させやすいということでもあります。ギターが弾ける先生は、ギターを弾きながら子どもたちと歌っています。演劇をやっている先生のクラスの音読は本当に見事です。 絵が得意な先生のクラスの黒板はいつも華やかです。おしゃべりが得意な先生のクラスからは笑い声が絶えません。

 先ほどと同様、働く上でいちばん辛いのは、自分の武器が通用するのかどうかを試す機会すら与えられない状態です。だれがやっても同じ結果になるような仕事を、ロボットのように行わなければなりません。

 その点、学校の先生は自分の武器を思う存分発揮することができます。毎日がその機会です。どこかの記事でも書きましたが、筆者はパワーポイントが大好きなので、日々の授業でめちゃくちゃ活用しています。

 「足並みをそろえる」という対抗勢力も存在していますが、基本的にはいろいろな先生がいるからこそおもしろいと思っています。向いているとか向いていないとか、そんなことは関係ありません。むしろ、向いていないと思っている人にこそ、学校の先生になってほしいなと思っています。

 

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3.1年目から同じ土俵で戦える

  初任者が担任をもつことについては、いろいろな意見が飛び交っています。筆者としては、1年目から担任をもたせてもらえたことは本当にありがたかったなと思っています。なぜなら、はじめから他の先生方と同じ土俵で戦うことができるからです。

 もちろん、学級外の仕事のことを考えると全然「同じ」ではないのですが、それでも立場は「同僚」です。1年目だろうが10年目だろうが、担任はみんな「同僚」です。「戦う」という表現が正しいのかはわかりませんが、このフラットな関係がとてもいいなと思います。

 こんな職場そうそうないのではないでしょうか。1年目から「やってごらん」とチャンスを与えられるのです。くり返しになりますが、働く上でいちばん辛いのは機会すら与えられない状態です。そういう意味で、先生という仕事は本当に魅力的だと思います。

 

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 昔から人に相談することが苦手です。なぜなら、やりたかったことができなくなってしまうからです。それはやめておいた方がいい。それはこうした方がいい。そう言われて、結局新しいことは何もできなくなってしまいます。

 しかし、こうやって書いていると、先生という仕事は比較的自由なのかもしれないなと思いました。上司が喜ぶ企画を考える必要はありません。素直に自分がやってみようと思ったことをやってみればいいのです。企画書を出す必要もありません。今日やろうとおもったら今日やってみればいいのです。1回のミスで企画がポシャることもありません。今日うまくいかなければ、改善して、明日もう一度試せばいいのです。

 4月から先生になるみなさんへ。世間ではいろいろと言われていますが、学校の先生は間違いなく魅力的な職業です。だからこそ今は「こんなことがやってみたい」を蓄積しておいてください。そのアイデアを1年目から実行できるのが学校の先生という職業です。

 

 

【土】上手に手を抜ける人になりましょう

 

 おはようございます。景色は過ぎ去るからこそいいのであって、わざわざ写真に残す意味がわかりません。よく空の写真を撮る人がいますが、空の写真なんてあとから見返しますか。だいたいの空は同じじゃないですか。だってひと続きなんだもの。

 しかし、カメラにハマっている人が一定数いるということは、間違いなくそこには魅力があるはずなのです。カメラの良さってなんなのでしょうか。

 そんなことを考えていて、最近思ったのは「出先に目的を求めなくてもいい」ということでした。要するに「写真を撮りに行く」が目的になれば、場所はどこでもよくなるということです。これはもしかするとカメラの魅力のひとつなのかもしれません。

 「そんなことをウダウダ言っているくらいなら、とりあえずやってみればいいじゃん」という天の声が聞こえてきたので、今はカメラ欲がメキメキと高まっています。何事も好きになるのなら早い方がいいですからね。そのうちカメラブログへと姿を変える日がやってくるかもしれません。どうも、インクです。

 

 上手に手を抜ける人になりましょう

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 「真面目」はよいことだと思いますか。わるいことだと思いますか。大抵の人は「よいこと」と答えるかもしれませんが、果たして本当にそうでしょうか。

 教室で、真面目な人は損をしていませんでしたか。真面目な人は煙たがられていませんでしたか。真面目な人は面倒臭くなかったですか。そうです、そうです。先生に言われたことは絶対に守るあの子です。「ちょっとくらいいいじゃん」をまったく受け入れてくれないあの子です。すこし喋っただけですぐに注意してくるあの子です。

 「真面目」は、言い換えると「融通がきかない」になります。「柔軟性がない」や「画一的」と言うこともできるでしょう。決められた枠の中にパズルを完成させろと言われたら得意だけれど、白い紙を渡されて自由に絵を描けと言われるのは苦手。そんな印象です。このような一面を表すことばに「生真面目」があります。「生の真面目」でキマジメです。 

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  グーグル先生も言うとおり、やはりあまりよい意味ではなさそうです。例文が「ーすぎて面白くない」ですからね。生真面目はおもしろくないのです。

 つまり真面目には、「よい真面目」と「わるい真面目」があるということです。そして、「わるい真面目」は「生真面目」と呼ばれています。真面目加減には調整が必要だということです。そう考えると「真面目」ってなんだか難しいですね。

 筆者はいつも「真面目さと少しの遊び心を」を意識しながら生活しています。行きすぎて生真面目になってしまわないようにするための遊び心です。「ちょっとくらいいいだろ」という感覚も、ときには大切だと思っています。

 

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 ガラリと話が変わりますが、先日「ハライチのターン」というラジオを聞いていると、ハライチのおふたりがこのような話をしていたので、ご紹介したいと思います。一部抜粋でまとめているので、実際のテンポ感とはちがいますが、内容は大方以下のとおりです。

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 ちなみに岩井さんはピアノ経験者です。なんだか字面だけ見ると、相方の子育てを強く批判しているように見えますが、もちろんそこには信頼関係がありますし、ちゃんと笑いに昇華されていました。

 そんなケアはさておき、肝心なのはその内容です。澤部さんは、言わば「真面目に」練習する娘を見て「息抜きが必要だ」と考えたわけです。自由に弾くことで感性を伸ばしたいという親心だったのでしょう。その一方で、岩井さんは「休憩部分がおもしろいと思わせてしまってはいけない」と反論しました。要は「練習自体をおもしろいと思わせなければならない」ということです。

 この話を聞いて「まさに学校の授業そのものだな」と思いました。学校の先生にもよくいるんですよ。レクリエーションやゲームを通して子どもの気を引こうとする先生。先ほどの話を踏まえると、子どもたちに「休憩の方がおもしろい」と思わせてしまってはならないということになります。学習そのもののおもしろさを実感させてやらなければならないのです。

 言わば「真面目だからこそ得られるおもしろさ」です。「真剣に学ぶからこそ得られるおもしろさ」です。これをどこまで感じさせてやれるかは、大人にかかっています。「生真面目」ではなく「真面目」でいることに価値がおけるかどうかも、すべては大人次第です。

 なんでもかんでも褒めていたら「生真面目」な子どもが育つでしょう。自分は正しいことをしているんだと信じ込んだまま大きくなり、どこかのタイミングで「うまくいかない」と悩むことになってしまいます。だからといって「真面目」の価値に気がつかないまま大きくなってしまうと、それはそれで易きに流される人間ができあがってしまいます。

 当たり前なことを言いますが、子育てにおける大人の役割って本当に大きいですよ。責任重大です。しかし、その前に、大人であるあなた自身はちゃんと「真面目」ですか。「生真面目」ではありませんか。「真面目だからこそ得られるおもしろさ」の価値に気がついていますか。まずは、大人自身が「真面目」をおもしろがらないと、子どもにその価値を伝えることはできないのではないでしょうか。

taishiowawa.hatenablog.com

 

  真面目であることの大切さはこれまでに述べてきたとおりですが、人間つねに全力で生き続けることなんてできません。先ほどは休憩を批判的にご紹介しましたが、もちろん休憩も必要です。ただし、あくまでもサブであることが大切です。メインではありません。「真面目に取り組める」ということは、言い換えれば「上手に休憩ができる」ということでもあります。根詰めてしまうと、人は壊れてしまいます。熱中して取り組めることには、全力で真面目に取り組む。そうでないところでは、上手に手を抜く。このバランス感が非常に重要な気がします。

 

 

【金】わかりやすい説明は思考の機会を奪う

 

 おはようございます。昔はずっと音楽を聴いていました。ごはんを食べるときも、勉強をするときも、寝るときも。常にイヤホンからは音楽が鳴っていました。しかし、最近になってすこしずつ音楽を聴くことができなくなってきました。

 たとえば、本を読んでいるとき。かつては何ともなかったのですが、どうしてなのか「音楽を聴きながら本を読む」ということができなくなってしまいました。ほかにも、今やっているような、文章を書くとき。これもまたかつては何ともなかったのですが、どうしてなのか「音楽を聴きながら文章を書く」ということができなくなってしまいました。

 別に困ることはないのですが、どうしてできなくなってしまったのか、原因が気になります。複数の情報処理に脳が追いつかなくなってしまったのでしょうか。はたまた「本を読む」「文章を書く」という活動により集中するようになったのでしょうか。謎は深まるばかりです。いずれは音楽なんて聴かなくなってしまうのかもしれません。どうも、インクです。

 

わかりやすい説明は思考の機会を奪う

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 わかりやすく教える。これが学校の先生の仕事だと思っている人が案外たくさんいます。現職の先生たちだって「わかりやすい授業がしたい!」と言っています。たしかに、わかりづらい授業は嫌ですよね。要点をまったく押さえられていなかったり、なんども同じことをくり返し言っていたり。聞いているこちらがやきもきしてきます。

 子どものころ、学校の先生の授業を聞きながらよく思っていました。ここはもっとこんなふうに説明すればいいのに。ここはもっとこんなふうに書けばわかりやすいのに。今思えば、なんて生意気なガキんちょなのでしょう。思っていただけで、口答えをしていたわけではないので許してください。

 とまあ、そんなガキんちょが大人になって、今は小学校の先生をしているわけです。習うより慣れよとはよく言ったもので、やはり自分自身でやってみなければわからないことってたくさんあります。そんな経験の中で、授業についてこんなことを思ったのです。

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 子どものころから生意気でしたが、相変わらずですね。相当ひねくれています。でもね、だからこそおもしろいのです。今日は「どうしてこのように思ったのか」について、細かく、わかりやすくお話しできたらなと思っています。最後まで読んでいただけたら、不幸中の幸い極まりないぞということでやっていきましょうか。それでは、レッツラゴー。

 

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 「さあ、これから始まりますよ」という雰囲気を出しておきながら、すべてはこの記事のタイトルに書いてあるとおりです。そうです。わかりやすい説明は思考の機会を奪うのです。もうすこし詳しくお話しいたしましょう。
 みなさんは「ラーニングピラミッド」と呼ばれる図を見たことがありますか。「アクティブラーニング」がまるで流行語かのように扱われていた数年前に、たくさん出回っていました。本当はもっと昔から存在している図なんですけどね。

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 そうそう、これこれ。これが「ラーニングピラミッド」です。大きいですよね。王の権威を示すために、紀元前2630年ごろにつくられたと言われています。これほどまでに均一な石材をどのようにして切り出したのか。その切り出した石材をどのようにして運んだのか。未だに謎が絶えず、議論が続けられています。生きているうちに、一度は実物を見てみたいものですね。
 そんな「ラーニングピラミッド」を見てみると、学修定着率がもっとも低いのは「講義」だということがわかります。要は「話を聞いているだけ」の状態です。なんとなくイメージできますよね。先生がべらべらと喋っているのを聞くだけの授業。先生の話がおもしろければまだマシですが、おもしろくなければ一瞬で睡魔に襲われます。学修定着率が高いわけがありません。

 要するに「わかりやすい授業」でも、これと同じことが起こるというわけです。先生の説明がわかりやすいと、子どもたちは考える必要がなくなります。だって、聞いているだけでいいんだもの。わざわざ自分でどうにかする必要がありません。ノートのまとめ方も、先生がわかりやすい最適解を黒板に書いてくれるので、それをそのままノートに写しておけばOKです。何も考える必要はありません。工夫する必要もありません。だって、すでにわかりやすいんだもの。

 いかがでしょう。「わかりやすい授業は思考の機会を奪う」というタイトルの意味がすこしでもわかっていただけたでしょうか。先生たちは「わかりやすい授業がしたい!」とよく言いますが、一概にわかりやすい授業がよいとも限らないというわけです。

 と、このような「問いかけの段落」は、ある意味読者に思考の機会を与えているということになります。説明的文章にはよく登場しますよね。問いかけの文。「読書」の学修定着率は20%だそうなので、問いかけることですこしでも読者の思考を促そうとしているというわけです。

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 「なんだ、わかりづらい授業でもいいんだ!」と思ったそこのあなた。それはそれで考えが甘すぎます。はじめにも述べたように、要点をまったく押さえられていなかったり、なんども同じことをくり返し言っていたりすると、聞いている側はやきもきしてきます。言い換えるならば、だんだんとムカついてくるのです。もう!わかりづらいな!もっと端的に説明してよ!という具合です。

 では、どうすればよいのか。簡単です。教えなければよいのです。はじめから教えなければ、わかりやすいもわかりづらいもありません。ぜんぶ子どもたちに放り投げましょう。

 「そんなことをしたら先生は要らなくなるじゃないか」と思ったそこのあなた。そのとおりです。先生なんて要りません。強いて言うならば、先生の役割は「何を放り投げるのかを決めること」です。それだけです。「わかりやすく教えること」ではありません。

 「事細かに教えなければ子どもたちは学習することができない」という思い込みは、大人のエゴから生まれたものです。「子どもにとって自分が必要な存在なんだ」と思い込みたいだけです。それを「子どもたちのためだ」と言って正当化しようとするのは、あまりにもタチが悪いです。子どもたちをナメすぎです。

 子どもたちは自ら学びます。自ら伸びようとします。何をどのように放り投げるのか。先生はそこだけに全力を注ぎ込めばよいのです。

taishiowawa.hatenablog.com

 

友よ
よく覚えておきなさい
悪い草も悪い人間もない
育てる者が悪いだけだ

 

 

【木】新聞のコラージュってとてもいい学習になる

 

 おはようございます。先に言っておくと、今日の記事は手抜きです。なぜなら、書いていた文章がすべて消え去ってしまったからです。「消えてもいいよ」だなんてひとことも言っていないのに、やつらは勝手に消えました。なんの前触れもなく。別れのあいさつもなく。振り返ったときには、もう跡形もありませんでした。きっと公開するべきじゃなかったということなのでしょう。手遅れになるその前に、神様的な人が消してくださった的なことなのでしょう。マジ卍です。チョベリバです。どうも、インクです。

 

新聞のコラージュってとてもいい学習になる

  身バレを防ぐためにも、普段はあまり実践については書かないようにしているのですが、そろそろ時効かと思いますので、昔の実践をひとつご紹介しようと思います。「新聞コラージュ」という活動です。今、ドヤ顔でご紹介しましたが、別に珍しい実践ではありません。子どもたちと一緒にやってみておもしろかったからご紹介するだけです。

 昨今、新聞をとる家もすくなくなってきました。しかし、新聞ってとてもおもしろいです。まさにことばの宝石箱や。「え、本も同じでしょ」と思った方もいるかもしれませんが、大きなちがいがひとつあります。新聞は切ることができます。「いやいや、本も切ろうと思えば切れるよ」と思った人。もう一度よく考えください。新聞切ることができます。

 そんな新聞の特徴を生かした活動が「新聞コラージュ」です。まあ、百聞は一見にしかずということで、実際の作品を見ていただくことにしましょう。

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 いかがでしょう。実際の作品を見れば、どのような活動なのかはおわかりいただけたかと思います。要は組み合わせの妙です。1冊の新聞という限られた範囲の中からことばを探し、選んで、組み合わせます。短いことばの組み合わせなのですが、まあ個性が出ておもしろいです。ちなみに上の5つはこちらが見本でつくった作品です。子どもたちの作品ではありません。子どもたちの作品の方がもっとおもしろかったです。

 この活動のおもしろさをさらに際立てているのが、ビジュアルイメージです。いわゆる「フォント」というやつです。それぞれのことばをまったくちがう記事からもってきているので、字の大きや、向き、書体がバラバラなのです。「ツライ痛みに効きます!少しだけ」の「少しだけ」なんて、遠慮がちなようすが伝わってきておもしろいですよね。「ひざ」が行書体なところや、「馬サブロー」が囲み字なところとかも、じわじわと効いています。

 そして、何よりもこの活動は、やっていてとてもおもしろいです。何かのことばをつくろうと思って新聞からさがすのではなく、とにかくパラパラとめくって材料を集め、あとで組み合わせるという手順をとるので、書くことが苦手な子どもでも取り組むことができます。

 先ほど「子どもたちの作品の方がもっとおもしろかったです」と書きましたが、いくつかご紹介しようと思います。さすがに写真を貼るわけにはいかないので、フォントのおもしろさがなくなってしまいますが、ことばだけご紹介します。それではどうぞ。

 

▷ なぜ/この歯ブラシで/45年間

 

▷ ラグビーの/計32チーム/は/バカ

 

▷ 月曜/1000円引き!

 

▷ 5歳だった/我が子/の/最低賃金/11億4600万ドル/を上回った

 

▷ 筋肉は/喋る

 

▷ はぁ〜とふる/中高年/女王奪還/目標達成

 

 天才だと思いませんか。まさにこの活動だからこそ生まれてくることばばかりです。ひとつひとつのことばが長ければいいというわけでも、組み合わせる数が多ければいいというわけでもないことがよくわかります。また、助詞の役割を考える学習になっていることにも気がつくでしょう。

 実はこの活動、普段の「話す」「書く」とやっていることはほとんど同じです。ことばを選んで、組み合わせて、表現する。その材料を「頭の中」からさがすのか「新聞の中」からさがすのかという違いです。新聞の中からさがすことによって「選ぶ」という部分に焦点が当たるようになります。ことばは選んでつかうもの。そこに気がつけばこの活動は成功だと言えるのではないでしょうか。おもしろさは保証しますので、学校の先生やお子さんがいらっしゃる読者のみさなまはぜひやってみてください。自分ひとりでやるのも案外おもしろいですよ。

taishiowawa.hatenablog.com

 

 ふう。この記事は消えなかったので、公開しても問題がないということなのでしょう。もう神様的な存在の人よ、本当にマジでガチでリアルに勘弁してくれよって話です。 今度消そうものなら貴様の存在を消してやるからな!

 ということばも、さがして、選んで、組み合わせて書いているというわけです。知らんけど。

 

 

【水】物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない。

 

 おはようございます。戯曲を読んだことがありますか。いわゆる演劇の台本です。文学的文章の一種です。小説とはすこし違って、会話文を中心にして物語が進みます。だから、心情や、場所、時間なども、すべて会話文の中で伝えなければなりません。

 「ああ、気持ちのいい公園だなあ」というセリフを登場人物に言わせれば、そこが公園だということは伝わりますが、さすがにリアリティに欠けます。こんなひとりごとを言っている人なんて、現実にはいません。よくお笑い芸人のコントではこのような「説明ゼリフ」がつかわれますが、あれはリアリティを求めているわけではないからつかわれているだけです。

 リアリティを保ちながら、セリフだけでそこが公園だということを伝える。なかなか難しいですよ。ぜひ挑戦してみてください。どうも、インクです。

 

物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない。

 セリフだけでそこが公園だということを伝える。どうですか。すこしは考えてみましたか。これを教室でやると、とてもおもしろいです。「よくそんな設定思いついたな」というようなセリフを考える子どもが2、3人は出てきます。投げっぱなしなのもアレなので、筆者もひとつだけ考えてみました。

 

 A「あのすべり台なくなったんだ」 

 B「昔よく遊んだよね」

 

 どうですか。完全にここは公園だと思いませんか。ノスタルジックな気分にひたる大人がふたり、公園に佇む姿が浮かんできます。要はこういうことです。リアリティも十分に保つことができています。小道具や大掛かりなセットがなくとも、このセリフさえあれば、ここが公園だと伝えることができるのです。

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 すこしレベルを上げて「ふだんはそこにいるはずのない人物を登場させる」という設定でセリフを考えてみるのもとてもおもしろいです。たとえば「教室に医者を登場させる」とか。「電車にキリンを登場させる」とか。場所と人物の関係性がかけ離れればかけ離れるほど、そこには「非日常的なできごと」が必要になります。

 教室に医者を登場させようと思えば、クラスの誰かが大怪我をするような「できごと」を描かなければならないかもしれません。はたまた、先生が急に倒れるような「できごと」を描くことになるかもしれません。いや、授業参観の日に「父親」として登場させれば、自然と医者を教室に入れることができるかもしれませんね。

 しかし、これが「電車にキリン」ともなれば、さすがに自然に登場させるのは厳しくなってきます。ファンタジーとして描いたり、夢の中の設定として描いたり。どうしても追加の設定が必要になってきます。

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 これが物語をつくるということです。実際にすこし考えてみた方はわかったと思いますが、めちゃくちゃ難しいです。その「できごと」も、非日常的でありながら、筋はしっかりと通ってなければなりませんからね。そう考えると、『白いぼうし』で有名な、あまんきみこの「車のいろは空のいろ」シリーズはかなり秀逸だということがわかります。

 主人公の松井さんは「タクシーの運転手」です。タクシーはいろいろな人が乗ってくるものなので、ある程度どんな人物が登場しても違和感がありません。それこそタクシーに医者が乗ってきたって、別になにも変ではないのです。たとえそれが、「学校の先生」だって「しんし」だって「山ねこ」だって。どんな人物でも「お客さん」として登場させることができてしまいます。

 しかも、タクシーってね。動くんですよ。「何を当たり前なことを言っているんだ」と思っているかもしれませんが、動くということは要するに、場面転換にも違和感が発生しないということです。余計な説明をする必要がないのです。だって、動くことが当たり前なんだもの。

  人物も違和感なく登場させられる。場面転換にも無駄な説明がいらない。どうですか。すこしずつ「タクシーの運転手」である松井さんのすごさがわかってきましたか。

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あまんきみこ(2000)『車のいろは空のいろ 春のお客さん』ポプラ社

 ちなみに、この「車のいろは空のいろ」シリーズのはじめの作品は『くましんし』というお話で、あまんきみこの処女作でもあります。もともとは、シリーズ化するつもりなんてなかったそうです。あまんが師と仰ぐ与田準一から「松井さんは、その後元気ですか? そろそろエンジンをかけはじめてもいいころではないですか。こんどは、どんなお客がのりますか」ということばをかけられて、次作の『小さなお客さん』が生まれました。

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日本児童文学誌(1997)「シリーズ・作家が語る 2月号」

 タクシーという設定の秀逸な点は他にもたくさんあります。「内」と「外」で空間が分断されていることもそのひとつです。別の空間がふたつあることで、それぞれにちがった変化を起こすことができます。内にだけ変化を起こすこともできますし、外にだけ変化を起こすこともできます。しかもドアや窓を開ければ、そのふたつの空間をつなげてひとつにすることもできます。バリエーションがとんでもなく豊富なのです。

www.countryteacher.tokyo

 

 なんだか、今日は意図せずしてあまんきみこの回になってしまいましたね。システムをつくれば、あとは勝手に人物が動き出す。それを切り取った物語。なんだか教室みたいですね。

 さあ、そろそろ目的地に到着します。お代は結構です。どうかお気をつけて。いってらっしゃい。