ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】おもしろいからって読んでもらえるとは限らないのが難しいところ

 

 おはようございます。1日を気持ちよく始めるために必要なことは、やはり前日に早く寝ることですね。何年もの経験を積み重ねて、よく知っているはずなのに、なかなか継続できないのが不思議です。つかった皿はすぐに洗おう、ゴミを溜めずに部屋をきれいに保とう、早寝早起きをしよう。

 人生のうちに、一体何度この決意を繰り返すことになるのでしょうか。そんな中でも、こうして毎日ひとつずつ記事を書き続けていることは、実はとてもすごいことなんじゃないかと思い始めました。すごいことですよね。ね? どうも、インクです。

 

おもしろいからって読んでもらえるとは限らないのが難しいところ

 毎朝「今日の記事もおもしろいよ」と思いながら更新しています。誇張しているわけでもなんでもありません。本気でそう思っています。少なくとも、ひとり目の読者である自分自身は、自分の記事を読んで笑っています。逆に、ひとり目の読者がおもしろいと思えない記事は、そもそも表に出しません。毎朝更新しているからといって、やっつけ仕事をしているわけではないのです。

 しかし、ここから先が難しい。どれだけおもしろくとも、読んでもらえるとは限りません。おもしろさに比例して、アクセス数が伸びるわけではないのです。人の目に触れることがなければ、それはもはや存在していないのと同じです。文章は、読んでくれる人がいて初めて成立するのです。

 ブログという媒体において、入り口はいくつかありますが、弊「ツイートの3行目」に関しては、その名の通り、ツイッターが正面玄関になっています。記事を更新するたびに通知ツイートをしています。きっと読みに来てくださっている方のほとんどは、そこからリンクを踏んで来てくださっているのではないでしょうか。

 この「リンクを踏む」という行為は、簡単なように見えて、実はとても高い障壁です。なぜなら、世の中は「リンク」で溢れかえっているからです。ツイッターのタイムラインともなればなおさらです。「リンク」が行列をつくっているようなものです。そんな中から、弊ブログの「リンク」をクリックするなんてほとんど奇跡です。そんな奇跡を引き当てて、来てくださっている方には本当に感謝です。ありがとうございます。

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 そんな弊ブログですが、現状としては、読者数が135人、正面玄関であるツイッターのフォロワーが247人です。世間的に見れば、弱小中の弱小です。ザコです。ザコアカウントです。

 当然のことながら、そんな狭い世界で通知をしたところで、遠くの人には届きません。伸びたときで、160PVほどです。読者数やフォロワー数を考慮すると、このくらいの数字が頭打ちなわけです。とれるパイはすべてとりきって、ようやく160という数字がでてきます。どれだけおもしろい記事を書いても、きっとこれ以上は伸びないでしょう。

 そんな中で、ときどき頭ひとつ分、飛び抜けたPV数を出す記事があります。直近のものでいくと、11月13日に286PVまで伸びました。これまでの記事と一体何が違ったのでしょうか。ダントツで内容がおもしろかったのでしょうか。答えはとても簡単です。

 

リツイートしてもらえたのです。

 

 これがすべてです。はじめに書いたとおり、内容はどの記事もおもしろいはずです。人がリンクを踏むのは、おもしろそうだからではなく、信用している人が勧めているからなのです。

 自分のパイを広げていくことももちろんですが、弱小アカウントには限界があります。だからこそ、みなさんの信用を貸してください。今日の記事で言いたかったことはただひとつ。おもしろいと思ったらリツイートしてください。コメント付きの引用リツイートなんてしていただけたら最高です。

 もちろん「リツイート」という壁の高さも重々承知しています。なんせ自分のタイムラインに他人のツイートが表示されるわけですからね。フォロワーからは「ふうん、この人はこれをおもしろいと思っているんだ」と思われてしまうわけです。だから、無理にとは言いません。おもしろいと思ったらで結構です。「わたしのアカウントでリツイートしても拡散能力はありませんよ」なんてどうだってかまいません。とにかくリツイートしてください。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 今日の記事は、わがまま回になりました。「リツイートしてくれ」だなんて誰もが思っていることでしょう。そんなことを、わざわざ記事にしたのには理由があります。最近、コメントやリプライをちょこちょこいただけるようになって、単純に嬉しかったのです。暗闇に向かって話しかけていたことばが、ちゃんと人に届いている。これ以上の喜びはありません。

 逆に言えば、あなたが送ってくれた何気ないメッセージを、受け手はとても嬉しく思っています。きっと送ってくれた方には、そんなつもりはなかったでしょう。しかし、そんなあなたの一言が、無機質なことばに命を吹き込むのです。

 それを知ったからには、自分も誰かにメッセージを送りたい。そう思うようになりました。だから、今日からは遠慮なく、人に絡んでいこうと思います。急にリプライを送ってきて「なんだこいつは」と思った方はすみません。一応こんな理由があるわけです。

 これまで避けてきた「人との関わり」をもつ。当分はここを目指してウザ絡みをしていこうと思います。どうか優しくしてあげてください。よろしくお願いします。

 

 

 

【月】コンタクトを外そうとして角膜を引っ張る

 

 おはようございます。日曜日を引き換えに、8割の成績表の所見を書き終えました。もう一息です。今週は研究授業も控えています。あと少し。あと少し耐え凌げば、こたつに入りながらみかんを食べることができます。このブログを読んでくださっている方全員と、1月1日に「あけましておめでとう」と言い合えることを願っています。今週も共に乗り越えられるようにお互い頑張りましょう。どうも、インクです。

 

コンタクトを外そうとして角膜を引っ張る

  中学生のころから視力が落ち始め、高校生の頃には常にメガネをかけている人になりました。そのときは、必然性にかられてかけていただけで、メガネに対してはなんの思い入れもありませんでした。ただ、当時は部活動をしていたので、そのときはたしかに邪魔だったかもしれません。特に雨の日の練習は、レンズに雨粒がついて見えません。だからと言ってメガネを外しても目が悪くて見えません。今思い返してみると結構不便だったのかもしれません。

 ただし、当時はコンタクトに変えようという発想はありませんでした。メガネを長くかけていると、それが当たり前になります。周りの人からのイメージも「メガネをかけている人」になります。だからこそ、一度かけはじめると、なかなか外しづらくなるのです。まあ、外したいと思っていたわけではないんですけどね。

 そんなときに、コンタクトに変えるひとつのきっかけが訪れました。それは、教員採用試験です。筆者が受験した自治体では、実技で「プール」の試験があったのです。ある程度の実技はメガネをかけたままでもできますが、さすがに「プール」はかけたまま入るわけにもいきません。だからと言って、めがねを外せば、どこに誰がいるのかも、どこからがプールなのかも分からなくなってしまいます。このタイミングをいい機会に、人生で初めてコンタクトレンズを買いました。とにかく眼科の待ち時間が長かった記憶だけが残っています。

 ここで、ひとつの決断をしなければなりませんでした。今後、メガネをどうするかという決断です。「コンタクトがあるのだから、もうメガネはいらないんじゃないの?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それはあまりにも可哀想ではありませんか。新しい恋人ができたから、あなたとはもうさようなら。そんなことをしたら、メガネは二度と立ち直れなくなってしまうかもしれません。

 ごめんなさい。冗談が過ぎました。実際は、コンタクトに切り替えるタイミングでこんなことを思ったのです。視力の源が目ん玉にくっついているのなら、メガネに視力を求める必要はなくなる。つまり、いろんな種類の伊達メガネをかけられるのではないか。ここから、筆者の第二のメガネライフが始りました。自分にとって、メガネは視力矯正器具ではなく、ブランディングアイテムに変化したのです。

 メガネの世界はとても奥が深いです。顔の真ん中に置かれるだけあって、少し形が違うだけで、印象ががらりと変わります。同じ黒縁のメガネでも、スクエアとラウンドではもはや別人です。さらに言えば、フレームの色、レンズの色、テンプルの色をひとつ変えるだけで新しい自分になることができます。簡単に厳つくなることもできますし、インテリになることだってできます。これまでずっとメガネをかけてきたはずなのに、こんなに広い世界が広がっていたことを知らなかったのです。

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 先生という仕事を続けていく上でも、メガネをかけているだけで得をすることがたくさんあります。例えば、メガネをかけていると、子どもたちが似顔絵を描きやすくなります。顔のパーツを細かく描き込まなくても、メガネさえ描いていれば、先生のできあがりです。他にも、違うメガネをかけて行くだけで、子どもたちの視線を集めることができます。上手に扱えば、空気を切り替えるきっかけにもなります。頻繁に変えすぎると効果がなくなってしまうので、筆者は学期に一度、学校にかけていくメガネを変えています。「気持ちを新たに今学期もがんばろうね」という意思表示です。ひとつひとつのレンズに度を入れていたら出費がかさんで仕方がありませんが、なにせ伊達メガネです。ある程度の価格で新しいものを購入することができます。これらのメリットを享受できると考えたら安いものです。何より自分自身のモチベーションも上がります。

 さらに、もうひとついいところを挙げるとしたら、「メガネをはずす」という選択肢を獲得することができます。初めからメガネをかけていなければ、絶対に選ぶことのできない選択肢です。子どもたちと過ごしていると、必ず「先生、メガネ外してみて」と言われる機会が訪れます。先生からすれば「待ってました」です。「分かった。じゃあ、君たちが〇〇を達成したらメガネを外すね」と答えるわけです。すると、子どもたちはおもしろいくらいに一致団結して目標を目指そうとします。「なんとしてでも先生のメガネを外してやろう」と頑張るわけです。沼田晶弘先生の言うところの「アナザーゴール」です。本来の目的とは違うかもしれませんが、楽しみながら目標に向かって走り始めるのです。先生がすることはただひとつ。達成したときに子どもたちの前でメガネを外す。それだけです。

 どうですか。お得すぎると思いませんか。この記事を読んだ先生は、ぜひ来年度に向けてメガネを一本選んでみてはいかがでしょうか。新たな世界が広がるかもしれません。

 

 

 そんなメガネですが、もしかすると先に「スマートグラス」の時代が来るかもしれませんね。スマホはもちろん便利ですが、何せ手がふさがってしまいます。何かをしながら扱うにはかなり不便な端末です。だからといって、どこかに置いてしまったら良さが半減してしまいます。「人が動きながら動画コンテンツを利用することができるように」と考えるなら、やはり「メガネ」という形が適しているのかもしれません。将来、もしそんな時代が来たらこの記事を思い出してくださいね。それでは、よい1週間を。

 

 

 

 

メガネ、めがね、眼鏡。どの表記でも通用する珍しいことばですね。

 

【日】行事前の黒板のメッセージはたぶん思っているより子どもには響いていないよ

 

 おはようございます。大学生のころに、必修の介護体験として、約1週間老人ホームに行ったことがあります。朝イチで掃除をして、のこりはすべて「コミュニケーション」の時間です。何かがあったときに責任が取れないという理由から、配膳の手伝いも、車椅子を押すこともできません。お年寄りの集まる広いスペースにぽーんと放り出されて、夕方までの時間をそこで過ごさなければなりません。お年寄りの方々には申し訳ないけれど、本当に辛かった。

 まだ、何かのお手伝いができたのなら、その過程で少しでも仲良くなることができたのかもしれません。しかし、本当に何にもない。やることが何にもない。テレビを観てのんびりしているお年寄りに無理やり近づいて話をしなければならなかったのです。話をするつもりのない人に、無理に話しかけなければならない。相手が誰であれ、かなりのエネルギーをつかう行為です。しかも、それが1週間続くわけですから、もう大変です。

 この体験を通して改めて「何もやることがないのが一番辛い」のだと実感しました。裏返すと、やることがたくさんあるのはとても幸せだということです。忙しいのは素敵なことなのです。そうです。きっとそうなのです。そうであるはずなのです。どうも、インクです。

 

行事前の黒板のメッセージはたぶん思っているより子どもには響いていないよ

 学級経営において、よく起こる問題に「教師と子どもの熱量に大きな差が生まれる」というものがあります。教師は大きな理想をかかげて一生懸命になっているけれど、子どもたちはまったくそれに続いていないという状態です。するとどうなるかと言うと、教師がイライラして「どうしてこんなに簡単なこともできないの!」と怒り始めるのです。「私はあなたたちのためにこんなにも頑張っているのに!」というわけです。しかし、悲しいことに、子どもたちからしたらそんなことは知ったこっちゃありません。勝手に頑張って、思い通りにいかないからってぷんすかされても…という状態です。この熱量のズレが長引くと、後々致命傷になるので注意が必要です。

taishiowawa.hatenablog.com

 そんな熱量の差が分かりやすく表れるのが「黒板」です。とくに行事前の黒板はすごいです。先生によっては、何時間もかけて大作を描きあげる人もいます。ここで気をつけておかなければならないのは、「黒板のイラスト」はあくまでも教師の自己満足でしかないということです。たしかに壮大なイラストを描いていたら、子どもたちの反応はいいかもしれません。先生の本気具合も伝わるかもしれません。

 しかし、厳しいことを言うと、そこで起こる感動は子どもたちの成長ではありません。先生の承認欲求の表れです。先生の本気具合を伝えるにしても、「黒板」はメインとなる手段ではありません。先生の本気具合は、ふだんの授業や行事の練習で伝えるべきです。黒板に書かれた「メッセージ」も同様です。それらしい「いい言葉」を書き並べる方が多いと思いますが、先生が思っている以上に子どもたちは読み流しています。自分が子どもだった頃に、先生が黒板に書いていたメッセージを覚えていますか。筆者はひとつも覚えていません。どうせメッセージを書くのであれば、「クラス一丸になって〜」とか「これまでの練習の成果を〜」というありきたりなものではなくて、もっと短く、かつ印象に残るようなことばを書けたらいいものですね。

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  一言で言うならば、「黒板」によるメッセージやイラストは、費用対効果があまりにも低いのです。時間をかける割には、一瞬の感動しか生みません。数時間後には行事そのものに熱中し、誰も黒板のことなんて覚えていません。「それでも書くんだ」というのなら、それはもう個人の自由だと思います。ただし、先ほども述べたように、子どもたちの反応が悪くても「こんなに頑張ったのに」と思わないようにだけ気をつけてください。それは子どもたちがかわいそうです。

 これはふだんの授業の「板書」でも同じようなことが言える気がします。どれだけ板書がきれいにまとまっていようとも、子どもたちの成長に結びついていなければなんの価値もありません。「授業の流れの記録」として、板書を写真で撮ることは有効かもしれませんが、どうしても「見栄え」が前面に出ている記録写真が多いような気がします。「板書」は手段と目的の入れ違いが起こりやすい行為なので、くれぐれも注意が必要だと思っています。

 

 

 というのも、最近ツイッターで黒板の写真をよく見かけるようになったからです。そのほとんどはきっと、生徒が撮ってタイムラインに流しているのだと思いますが、結局は「教師の承認欲求を満たすこと」が目的いるものばかりだと感じるのです。もちろん絵が得意なのであれば、それを存分に活かすべきだと思います。描くこと自体を否定するつもりはありません。ただ、それが子どもたちの成長に繋がっているかと言われると、疑問が残ります。あくまでも信頼関係を築くためのひとつの手段としてつかっていけたらいいのかもしれません。

 

 完全に余談ですが、みなさんは「黒板消し」の正式名称をご存知ですか。学校の先生なら知っているでしょうか。答えは、ツイッターのフォローと読者登録を済ませたあとに、さらに下へスクロールしてご確認ください。大切なことは下へスクロールすることではありません。ツイッターのフォローと読者登録です。よろしくお願いします。

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 というわけで、「黒板消し」の正式名称は「ラーフル」でした。学校の先生は、ぜひとも明日から使ってみてください。

 

〇〇さん、ちょっとラーフル取ってくれる?

 

【土】歴史は史実よりもそうなった必然性を教えるべきだと思うんだけどな

 

 おはようございます。土曜日なのにやることが山のようにあります。だからこそ、まずは部屋の掃除と皿洗いから始めることにしましょうか。現実逃避ではありませんよ。やっぱり、部屋が汚いとやる気がでないじゃないですか。だから、掃除をするのです。やらなければならないことを後回しにしているわけではありません。お皿を洗わないと次につかうときに困るじゃないですか。決して、やらなければならないことから目を背けているわけではないんですよ...。どうも、インクです。

 

歴史は史実よりもそうなった必然性を教えるべきだと思うんだけどな

  「歴史は暗記科目ではない!」とよく言われるけれど、定期テストで点をとるためにはやはり暗記をしなければなりません。学生時代はよく、「これだけは絶対に覚えるノート」をつくっていました。そのノートにまとめたことは何としてでも覚える。ただし、そのノートにまとめなかったことは全部捨てる。そんな勉強方法をとっていました。おかげで100点はとれなかったけれど、そこそこの点はキープしていたと思います。

 「定期テストのせいで、本来の学びとは違うところに時間をかけなければならない」という類の議論はいろいろなところで行われていると思うので、今日はそちらではなく、「歴史における本来の学びとは」という話をしていきたいと思います。筆者は社会科を専門にしているわけでも、歴史に精通しているわけでもないので細かいことは気にすんなよ!それでは、どうぞ。

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1.歴史上の人物はみんな同じ人間

 今を生きる人々が過去のことを学ぶのが、いわゆる「歴史」と呼ばれる科目ですが、大抵の場合は「今」と「過去」が切り離されて考えられます。織田信長の活躍がまるで別世界でおこった、一種のフィクションのように、学習者は捉えるのです。

 さらに、今を生きる学習者は、知らないうちに、過去を生きた人々をバカにしています。「ふうん、昔の人はこんなことをしたんだ。今なら絶対にそんなことはしないのにな」という具合です。歴史上の人物のことを、まるで技術も知恵ももたない阿呆のような扱い方をするのです。少なからずおまえよりもよっぽど賢いよ!と思ってしまいます。

 それもこれも、「歴史上の人物は自分と同じ人間だ」という感覚が薄いことと、「過去のできごとが今に繋がっている」という認識がほとんどないことに原因があります。人物名や年号を覚えることに必死になって、それで終わってしまうのです。そりゃあ「こんな勉強をしていて意味があるのか?」と思いますよ。断言できます。何も考えずに、ただ人物名や年号を覚えることにはなんの意味もありません。

 

2.史実よりも必然性を考えよう

 歴史上の人物はみんな同じ人間だという認識ができたら、自ずと「なぜこの人はこんなことをしたのだろう」という疑問に辿りつきます。ちなみに、歴史の授業ではまったくといってもいいほど、この必然性を考えません。「この人がこんなことをした」という史実だけを教えられて終わりです。仮に必然性を話したとしても「どうせテストには出ないんでしょ」と放り出されてしまうのでしょう。

 しかし、歴史の学習は、この必然性を考えることにこそ価値があると思うのです。社会科は「できごと」ではなく「人間」を学ぶ教科であるはずです。人間がどのようなことを考えてきたのか。人間がどのような世界をつくってきたのか。そこには必ず理由があります。人間はなんの理由もなく、なんとなく、あんなに大きな大仏をつくったりはしません。人間は、なんとなく、関ヶ原の戦いをしたりはしません。なんとなく、薩長同盟を結ぶこともなければ、なんとなく、大政奉還することもありません。できごとには、相応の理由があり、そこにはその理由を含めた人間の物語があります。そんな物語をスルーして、結果だけを教える歴史の授業に果たして価値はあるのでしょうか。

 

3.変わらないものから人間の普遍性が見えてくる

 「過去のできごとが今に繋がっている」という認識ができたら、自ずと「今との類似点・相違点」を探ることになります。もちろん、時代が違いますので、相違点が山のように出てくることになるでしょう。そんなときに、物語を無視して、史実だけを教えていたら、はじめに述べたような「過去の人をバカにする」という現象が起きてしまいます。必然性を含めた物語を捉えることで、まずはこの現象を防ぐことができます。その上で相違点を学んでいくわけですが、どちらかと言えば、その中に埋もれた類似点にこそ価値があると思います。

 何百年という時を経た「今」にも通ずるところがあるということは、それが「人間の普遍性」だと言うことができるかもしれないのです。たとえば、平安時代に詠まれた和歌の中には、別れを惜しむ歌がたくさんあります。当然、和歌が詠まれた当時の時代背景と今の時代背景はまったく異なります。それにも関わらず、「別れの辛さ」を共感できるのは、「人間は別れを辛く思う」という普遍性もっているからです。

 古文や漢文の学習でもおなじことが言えると思っています。人間は何をおもしろいと思うのか。何に喜び、何に悲しむのか。経過した時間が説得力となり、今を生きる私たちに伝えてくれるのです。

 

 

 「定期テスト問題」と「時数問題」という大きな問題を抱えているということは重々承知していますが、今行われている「歴史」の学習を続けることに本当に価値があるのかはつくづく疑問でしかありません。社会科の先生、ごめんなさい。はじめに述べたように、筆者は社会科を専門にしているわけでも、歴史に精通しているわけでもありません。もし、専門にされている方がいらっしゃいましたら、ご意見いただけるととてもありがたいです。

 

 

【金】「自分がやられて嫌なことは人にもしない」は言うほど万能じゃあないぞ

 

 おはようございます。今住んでいる部屋には、広めのロフトがあります。そこに布団を敷いて寝ています。部屋を決めるときには「ロフトはやめておいた方がいい」だとか「結局は物置になるだけ」だとかいろいろなことを言われましたが、数年経った今でもまったく後悔はしていません。むしろ正解だったと思っています。他人のアドバイスなんてそんなものです。「相手のため」というテイをとりながら、その人が言いたいから言っているだけなのです。そんな意見をいちいち真に受けてはいけません。柳に風。風に柳。どうも、インクです。

 

「自分がやられて嫌なことは人にもしない」は言うほど万能じゃあないぞ

  自分がやられて嫌なことは人にもしない。誰もが大人からこう教わったのではないでしょうか。学校現場でもよく耳にすることばです。お子さんがいらっしゃる方なら、親として、このことばをつかったことがあるかもしれません。

 今日はそんなことばを鵜呑みにせず、一度立ち止まって考えてみたいと思います。たったひとりの「自分」という人間の判断基準が誰にでも当てはまると思いますか。自分が嫌なことは、隣の人にとっても嫌なことですか。隣の人が嫌なことは、自分にとっても嫌なことですか。

 世の中には、罵られることに喜びを感じる人もいます。はたまた、自分の身体に傷をつくって安心する人もいます。異性を愛する人もいれば、同性を愛する人もいます。肌が黒い人もいれば、白い人もいます。野菜が大嫌いな人もいれば、野菜しか食べない人もいます。改めて尋ねますが、そんな世界で、たったひとりの「自分」という人間の判断基準が誰にでも当てはまると思いますか。

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  「自分がやられて嫌なことは人にもしない」ということばが使われる場面の多くは、子どもが何か悪いことをしでかしたときだと思います。大人が子どもを叱るときに「自分がやられたらどう思うの?嫌でしょ?自分がやられて嫌なことは人にもしてはいけません」と言うのです。なぜこのことばを大人がつかうかと言うと、それっぽいからです。なんて叱ればいいのかが分からないから、とりあえずお決まりのこのことばをつかうのです。便利なことばですからね。

 しかし、このことばに本当に責任をもつのであれば「自分がやられて嫌でなければ、人にしてもまわない」を認めなければならなくなります。自分が殴られてもいいのなら、人を殴ってもいいことになります。自分が殺されてもいいのなら、人を殺してもいいことになります。

 もちろん、これは屁理屈です。「自分がやられて嫌なことは人にもしない」ということばの真意はそこではありません。このことばに込められたもっとも大きなメッセージは「人として間違ったことをしてはいけないよ」です。そのメッセージ自体を否定するつもりはありません。悪行を肯定するつもりもありません。問題は、そのメッセージを伝えるためのことば選びにあるのです。

 何度も言いますが、自分が嫌だからといって他の人も嫌だとは限りません。善悪の判断において「自分の気持ち」は、あくまでもひとつの材料です。それがすべてではないのです。たしかに「気持ち」というものは、自分のものしか分かりません。本当の意味で他人の「気持ち」を理解することなんてできません。だから、「自分の気持ち」だけで「相手の気持ち」を推し量ろうとしてしまうのです。「自分がやられて嫌なことは人にもしてはいけない」ということばは、まるでそれが絶対的な基準であるかのようにつかわれることが多いので、少し危険だなと思うわけです。

 先日授業をした道徳の教材にこのようなお話がありました。

 重い荷物を抱えたおばあさんに「持ちましょうか」と声をかけたが、断られてしまい、がっかりする主人公。あとあと話を聞いて、おばあさんはリハビリで歩く練習をしていたということを知る。

 翌日もおばあさんを見かけたが、「持ちましょうか」と声はかけずに少し離れたところから、転ばないように見守った。

  このように、相手に歩み寄るために必要なのは「自分の気持ち」ではありません。「相手の情報」です。相手のことを知れば、思いやりの形も大きくがらりと変わるのです。相手のこともよく知らず、「自分の気持ち」だけを押し付ける。そして、喜んでもらえなかったらショックを受ける。相手からしたら、そんなに無茶苦茶なことはありません。自分の基準が相手にも当てはまると思っている人ほど厄介なものはありませんからね。

 これからは「自分がやられたらどう思うの?嫌でしょ?自分がやられて嫌なことは人にもしてはいけません!」ではなく、「相手はあなたのせいで嫌な思いをしたんだって。もっと相手のことを知ってから動けたらよかったね」と話せたらよいのかもしれません。

 

 

 今回の「自分がやられて嫌なことは人にもしない」のように、当たり前だと思われているけれどよくよく考えたらおかしなことばって、生活の中にたくさん紛れ込んでいるような気がします。特に子どもたちに向かってつかうときには、よく考えてつかいたいものですね。それでは、ラスト1日なんとか乗り切りましょう。