ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【木】小さなチョコレートを食べるだけで人は動けるようになる

 

 おはようございます。昨日の頭痛は最悪でした。時々やってくる、気持ち悪さを伴うタイプです。対処法はただひとつ。寝ることです。おかげで今日の準備が何もできていません。すまんな、子どもたち。こういう日もあるんだ。どうも、インクです。

 

小さなチョコレートを食べるだけで人は動けるようになる

  11月17日(日)に神戸マラソンを走ってきました。身バレがこわいので正確なタイムは言えませんが、ぼちぼちのタイムで完走することができました。今回の神戸マラソンは、人生で2度目のフルマラソンです。はじめて走ったフルマラソンは、もっと規模の小さな大会でした。そんな規模のちがいはもちろんですが、他にも2回目だからこそ感じることがたくさんあったので書いていきたいと思います。

 ちなみに、走らない人にとっての一番の疑問だと思われる「どうしてしんどいのに走るの?」については、過去の記事で述べていますので、ぜひそちらをご覧ください。

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1.全員が味方

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  フルマラソンを走って、改めて強く感じたことは、全員が味方だということでした。もちろん上位入賞者ともなれば、マラソンは勝負です。隣の人よりも1秒でもはやくゴールできるように、一生懸命走ります。だから、ダッシュで42.195kmを走り抜けます。間近で見ればよく分かりますが、本当に信じられないスピードで走っています。筆者が参加したマラソンとはまったくの別物だと思ってください。

 一般参加者にとってのマラソンは、他者との勝負ではありません。よくある言い回しになってしまいますが、本当に自分との勝負です。まわりに敵はいません。むしろ、味方です。きっと周りで一緒に走っている人がいなければ、今回と同じタイムで走り切ることはできなかったでしょう。

 まわりの全員が味方。こんなスポーツは、ほとんどないような気がします。やったことはありませんが、もしかすると「ゴルフ」には通ずるところがあるのかもしれませんね。勝ち負けに一生懸命になるのではなく、お互いに助け合いながらゴールを目指す。本当に魅力的なスポーツだなと改めて思いました。

 

2.応援の力はすごい

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 これまた、ありきたりなことを言って申し訳ないのですが、応援の力は本当にあるんだなと思い知らされました。前述したとおり、1回目に走ったマラソンは規模が小さかったので、沿道で応援してくださる方もパラパラでした。しかし、今回のマラソンはさすがの神戸ということもあって、常に誰かが応援してくれているというような状況でした。

 はじめは恥ずかしさもあり、できるだけ沿道から離れた道の真ん中を走っていたのですが、せっかくの機会だったので、後半は「自分から応援されにいく」スタイルで走ってみました。子どもたちとハイタッチをしながら、時には「ありがとう!」と声を出しながら、走ってみました。すると、おもしろいことに走れてしまうものなんですよ。もちろん沿道で応援してくださっている方は知り合いでもなんでもありません。自分ひとりに向かって「がんばれ!」と言ってくれているわけでもありません。しかし、それでいいのです。せっかくエネルギーをコースの上に投げてくれているのなら、自ら受け取りにいかないともったいないのです。自分にとってはとても新鮮で、いい経験になりました。

 

 

3.チョコレートは偉大

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 次に感じたことは、チョコレートは偉大だということでした。マラソンを走ったことがない方でもイメージはあると思うのですが、コースの途中にある給水所で、水と一緒に食べ物が並んでいるところがあります。神戸マラソンでは「バナナ」「どら焼き」「カステラ」「薄皮パン」「塩分タブレット」「きのこの山」などがありました。

 走っている途中に食べる必要があるの?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、食べものの存在はとてつもなく大きいです。むしろ食べものがなければ、きっと完走できません。長い距離を走っていると、単純にエネルギーが不足するのです。まさに「お腹が空いて力がでない」状態です。いや、お腹が空いているわけではないのかな。ただ、食べものを欲している。そんな感覚です。1回目のフルマラソンでは、これで失敗しました。20kmくらいまで、何も食べずに走り続けてしまったのです。力が出なくなってから、次の給食所までの道のりが遠いこと遠いこと。

 そんな反省があったので今回のマラソンでは、すべての給食所で、置いてあるものはとにかく食べました。そして、スタートの前から、ポケットにチョコレートを忍ばせておきました。本当にチョコレートってすごいですよ。あんなに小さなチョコレートを食べるだけで人は動けるようになるんです。ドラゴンボールに登場する「仙豆」ってこんなかんじなんだろうなと思いながら走っていました。

 

 

 こんな新しい発見があるから「また走ろう」と思ってしまうのです。それもまた、ゴールした直後には、すでにそう思っているからおもしろいものです。「もう当分はいいや」とは思わないのです。やっぱり「走る」っていいですよ。これからも走り続けたいと思います。ありがとう、神戸マラソン。大満足ですが、唯一物申すとしたら、どうしてきのこなんだ。

 

 

 

【水】<終編>英語とプログラミングよりもお金とインターネット

 

 おはようございます。という挨拶でいつも始めていますが、果たして朝に読んでくださっている方がどれだけいるのでしょうか。通知を見て「おもしろそうだから読もう」と思ってくださることもとてもありがたいのですが、だれかの毎日の習慣にこのブログが入り込めたら、それほど素晴らしいことはないだろうなと思います。毎日のコーヒー、毎日の新聞、そして毎日の『ツイートの3行目』。そんな人がひとりでも増えてくれるように、毎朝6時更新を続けていきたいと思います。あなたの毎日に、ツイートの3行目。どうも、インクです。

 

英語とプログラミングよりもお金とインターネット

 同タイトルの記事が随分と長く続いてしまいました。本当は<前編><中編><後編>の3部作で終えようと思っていたのですが、謎の<終編>ができてしまいました。話の内容としては、もちろん続いているのですが、どこから読んでも内容は理解できるようになっています。少しでもおもしろがっていただけたのであれば、ぜひ他の記事にも足を運んでみてください。

 というわけで、この<終編>では「英語やプログラミングの授業よりも、お金やインターネットの授業をした方がいいんじゃないか」という意見の「インターネット」の部分についてお話をしようと思います。黙って俺についてこい(最後まで読んでいただけると嬉しいです)。

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(5)インターネット

 皆様にこのブログを読んでいただくことができているのは、インターネットのおかげです。LINEで連絡ができるのも、Twitterでつぶやくことができるのも、Amazonで買い物ができるのも、すべてはインターネットのおかげです。

 そんな便利なインターネットですが、学校で使い方を教えてもらうことはほとんどありません。せいぜい「Yahoo!キッズ」で知りたいことを検索して調べ物をするくらいです。学校教育でフォーカスが当てられるのは、「インターネットの危険性」ばかりです。「知らない間に個人情報が流出する」だとか「身に覚えのない請求書が届く」だとか「インターネットで知り合った人と実際に会ったら事件に巻き込まれる」だとか。過剰な注意喚起で、もはやインターネットを使うなと言っているようにさえ聞こえます。表面上は「おうちの人との約束を守って使いましょう」と締めくくられるんですけどね。

 インターネットは、とっくの昔に調べ物をするときだけに使うツールではなくなりました。大げさでもなんでもなく、人によっては「生きる意味」になり得るものだと思っています。正確に言うならば、インターネットを経由して繋がった「人」や「作品」が、その人にとってとても大切なものになる可能性があるということです。特に、閉鎖的な学校や会社という空間で息がしづらいような人たちにとっては、インターネットでなら自分の居場所をみつけられるということも大いにあり得るのではないでしょうか。

 インターネットを使用することを必要以上に制限してしまうと、このような世界を知ることもなく、現実でもがき苦しむことになるかもしれません。完全に持論でしかありませんが、人はひとつでも居場所をもっていれば生きていけると思っています。繰り返しになりますが、インターネットは十分に居場所になりうる存在だと思っています。 

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 では、そのようなインターネットをどのように子どもたちに利用させればよいのでしょうか。タブレット端末を与えて「ご自由にどうぞ」と言うのが一番な気もするのですが、なかなか現実的ではありません。「ゲームばかりする」だとか「視力が低下する」だとか、何かにこじつけて大人たちは、タブレットの使用を制限しようとするでしょう。大人が求めている「勉強」もその一台で済ませられると思うんですけどね。学校の連絡も宿題の送信もすべてインターネット上で行えたらとても便利だろうなと思います。

 仮に「学校でインターネットを教える」という形をとるとしたら、どんなことができるでしょうか。まずはやはりタイピングでしょうか。「寿司打ち」をつかって練習することもありますが、あまりにもその場限りすぎて効果がありません。やはりタイピングはチャットで慣れていくのが一番な気がします。自分よりもタイピングが早い相手と、チャットを通してコミュニケーションをとることで、「はやく返信しなきゃ」と必死になって練習するようになるのです。「今日の授業におけるコミュニケーションはすべてチャットの上で行う」という形をとってみてもおもしろいかもしれません。目の前に相手がいるので、その存在を意識しながらことばを選ぶ訓練にもなるのではないでしょうか。 

 他にも、ゴールだけを示して「ここまで辿り着け!」という授業もおもしろいかもしれません。たとえばひとつのウェブサイトを大きく映し出し、なんの説明もせずに「自分の端末に同じ画面を表示しなさい」と言うのです。手段はいくつかあると思います。検索窓にキーワードを入力する人もいるでしょう。URLを直接入力する人もいるかもしれません。はたまた、その画面を写真でとって「Yahoo!知恵袋」で質問する人もいるかもしれません。手段はすべて子どもたちに任せます。この試行錯誤や、手段の多様性こそ、まさに「インターネット」のような気がします。このゴールをウェブサイトではなく、アプリケーションのダウンロードを前提としたものだったり、いくつかのソフトを組み合わせたものにしたりすると、難易度はより高くなっっていくと思います。その過程でトライ&エラーを繰り返し、インターネットの使い方を覚えていってくれたらと思います。

 ここだけの話、多くの男の子は、いかがわしいサイトを渡り歩くことで、インターネットの歩き方を覚えていくような気がします。どこまでが危険で、どこまでが安全なのか。何が本当で、何が嘘なのか。この判断は、やはり使ってみて初めてわかることが多いのです。未だにわけのわからない迷惑メールが届くことがありますが、あんなメールが届くということは、世界のどこかにはそれに引っかかる人がいるということです。もう今の時代を考えると、インターネットリテラシーは子どものうちから身につけておくべき力のひとつであると言い切れるのではないでしょうか。

 

 

 はじめにリンクを貼った過去の記事のスター数を見ていただけたら分かるとおり、<後編>に近づくにつれて数字がぐんと減っています。やはり、タイトルに<中編>や<後編>とついていたら、なかなか読む気にはならないのでしょう。「前の記事の続き= はじめから読むには時間がかかる」という判断になりますからね。自分が読む側だったとしても、きっとクリックしないと思います。分かりやすい実験結果が出てくれたので、いい勉強になりました。

 ひとまずは、この長編「英語とプログラミングよりもお金とインターネット」もこの記事で終了です。明日からはまた、1記事完結のスタイルに戻していこうと思います。改めて各教科について考えてみて、やはり教師自身が、その教科の価値を模索することがとても大切だなと思いました。ほとんど思いつきで書いていたので、浅い考察になってしまったかもしれませんが、どこかのだれかが考え始める「きっかけ」として機能してくれたらいいなと思っています。このブログは、筆者の自己満足でありながら、同時に「提案」をしているつもりでもあります。ひとりよがりは寂しいですからね。一緒になって考えてくださると書き手冥利に尽きるというものです。これからも何卒宜しくお願いします。

 

 

【火】<後編>英語とプログラミングよりもお金とインターネット

 

 おはようございます。マラソンを完走して、2日目になります。思っていたよりも動けている自分に驚いています。はじめてフルマラソンを走ったときの翌日はまったく動けなかったのに。きっと走り方がよかったのでしょう。2回目ならではの発見がたくさんあったので、またひとつの記事にしようと思います。どうも、インクです。

 

英語とプログラミングよりもお金とインターネット

  ようやく<後編>までたどり着くことができました。初の3部作、ついに完結です。長い道のりでした。これもまた実験ですね。アクセス数にどう変化が表れるのかが楽しみです。<前編><中編>の内容を簡単にまとめると以下の通りです。

道徳 → 内容項目を議題として取り扱うとおもしろい

英語 → 日本語を知るための比較対象になる

プログラミング → 過程のつくり方の前に目的の定め方

 本格的に学校で導入される3つの教科(ややこしいのですべて「教科」と呼びますね)について、私見を述べてきました。まだの方がいらっしゃったら下のリンクから飛んで、読んでみてください。今日は、それらの内容を踏まえて「この3教科よりもお金とインターネットの授業をした方がいいんじゃないか」という話をしたいと思います。

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4.お金

 電子マネーに仮想通貨、年金問題クラウドファンディングと、お金のあり方が劇的に変わろうとしている時代です。「日本ではお金儲けが悪だと思われているけれど今一度ちゃんと考えなければならないよね」というような話もよく耳にするようになりました。そんな時代だからこそ「お金」について学ぶことは重要な気がします。

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 そもそも、どうして日本では「お金」が卑しいものとして扱われるのでしょうか。その原因は、江戸時代にまで遡ります。くわしく話し始める前に、まずは「江戸時代」についてざっくりおさらいしておきましょう。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が幕府を開く(1603年)

鎖国  

士農工商身分制度  

貨幣経済  

朱子学

・15代将軍徳川慶喜大政奉還によって終わる(1867年)

  このように、「江戸時代」は256年も続く平和な時代でした。この維持された平和には「お金」が大きく絡んでいます。そんな「政治」と「お金」の関係を紐解くためにも、江戸の幕政改革に注目していきたいと思います。

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 学生時代、テストに向けて一生懸命丸暗記した方も多いのではないでしょうか。享保・寛政・天保を指して、「江戸の三大改革」と呼ばれることもあります。「改革」と聞くとなんだか素晴らしいことにように聞こえますが、そもそも「改革」が必要な場面ってどのような状況でしょうか。なんの問題もない「改革」なんて必要ありませんよね。「改革」が行われるということは、その前に「どうにかしなくちゃいけない」状況があるということです。

 簡単に言えば、幕府は困っていたのです。何に困っていたのかというと「お金」です。つまり、これらの幕政改革は、政治資金をいかに集めるかという戦略だったのです。そんな「お金」の集め方がそれぞれの人物で違うのと、大衆の「お金」の捉え方がとてもおもしろいので、ひとつずつ見ていきましょう。 


(1)享保の改革徳川吉宗

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 まずは、享保の改革を行なった徳川吉宗についてです。彼は「暴れん坊将軍」という通り名の他に「米将軍」という異名ももっていました。当時の幕府の財源は、農民からの年貢、つまりは「米」でした。米を増やせば、年貢も増える。年貢が増えれば、幕府も潤う。ということで、新田開発の推奨など、「米」に関する対策をたくさん行なった人物でした。

  ただ、「米」は通貨としての役割を果たすのと同時に、商品としても市場に流通しています。流通量が増えればどうなるかというと、当然のことながら価格が下落してしまいます。どれだけ幕府が「米」をもっていようとも、その価値自体が下がってしまうとどうしようもありません。

 つまり、一時的に財政は立ち直ったものの、それは儚い夢と散り、結果的には再び困難な状況に舞い戻ってしまったのです。公事方御定書を決めて裁判の公正化をはかったり、目安箱を設置して民衆の意見を聞こうとしたりと、様々なことを行なってはいるので一概には言えませんが、財政面で言うならば「享保の改革」は失敗に終わったのでした。

 

(2)田沼の政治:田沼意次

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 次は、田沼意次についてです。すでに疑問に思っている方もいるかと思いますが、田沼の政治には「改革」という名がつきません。なぜかというと、田沼は嫌われ者だったからです。一体どうして嫌われてしまったのでしょうか。

 田沼が生きた時代には、すでに貨幣が流通しており「お金は卑しいものだ」というイメージが刷り込まれていました。そのようなイメージが刷り込まれた理由は簡単です。庶民に財力をつけられると政府が困ってしまうからです。だから、政府は必死でした。なんとかして「質素倹約は美徳である」と説き続けました。当時、一番稼いでいた「商人」をもっとも低い身分に定めました(士農工商)。その縦関係を強固なものにするために「朱子学」も広めました。すべては、政府を守るためです。

 そんなときに、「商人」から「お金」を集めようとしたのがこの男、田沼意次だったのです。当時からすれば、卑しき「商人」と「政府」が直接的な関係を築くなど、絶対にタブーです。その壁をぶち壊したのが田沼意次だったのです。具体的に何をしたのかというと、同業者組合にあたる「株仲間」を推奨し、「冥加金」を徴収しました。政府に「株仲間」を認められるとどうなるかというと、その市場を独占することができるようになります。「商人」からすれば「冥加金」という名のわいろを支払うことで、さらに儲けられるようになるというわけです。

 先ほど述べたように、当時もっとも稼いでいたのは「商人」です。その「商人」から「お金」を集めたわけですから、そりゃあ政府の「お金」もたくさん集まりました。つまり、財政面として田沼の政治は大成功したのです。

 しかし、このあと立て続けに天災に見舞われ、田沼は失脚することになります。失脚した後には、「卑しき商人と結託した悪人」として語り継がれることになるのでした。悪人の政治に「改革」はつけられないというわけです。

 

 さあ、話を元に戻しますが、今の日本でもお金が卑しいイメージをもたれている理由が分かったでしょうか。我々は、100年以上も前から続く政府のイメージ戦略に、まんまとはまり続けているというわけです。「多くの人がお金を卑しいと思う」ということは、「多くの人がお金を卑しいと思ってくれていた方が得をする人がいる」ということです。ここまでの話では、それが徳川政権でした。

 きっと徳川政権は、庶民が財力をつけて立ち向かってくることに怯えていたのでしょう。しかし、当然そんなことは言えないので、なんとか庶民にお金が回らないようにしなければならなかったのです。そのために、「質素倹約」を前面に押し出し、お金を稼ぐ「商人」の地位を下げました。だからこそ、どれだけ財政を立て直したとしても、政府は田沼を認めるわけにはいかなかったのです。なんてかわいそうな田沼意次。一応、のこりの2名も簡単に紹介しておきましょう。

 

(3)寛政の改革松平定信

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 寛政の改革を行なった松平定信です。「悪人」が失脚した後に、前に立つわけですから、彼は庶民にとっての「ヒーロー」です。しかも、あの「享保の改革」を行なった徳川吉宗の孫にあたります。人々の期待はとても高かったと言えるでしょう。

 松平定信が行なったことは、主に「田沼政治の破壊」でした。田沼が財源としていた「株仲間」を解散させたのです。「商人」を優遇することを止め、今まで通りに戻しました。また、おじいちゃんのやり方に見習い「質素倹約」を徹底させました。

 しかし、その徹底加減が度を超えてストイックだったそうです。朱子学以外の学問を禁止するにまで至っています。庶民からしたら、押し付けがましかったのでしょうね。

白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき

という「田沼が恋しい」という歌が詠まれるほどでした。松平定信もまた、民衆の反感を買い、失脚してしまいました。

 

(4)天保の改革水野忠邦

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 最後は、天保の改革を行なった水野忠邦です。当時は、江戸への出稼ぎ農民が増えており、単純に「米」をつくる人が減っていました。貨幣経済になったといえども、「米」が重要であることには変わりませんので、出稼ぎ農民を帰郷させる「人返しの法」を発令しました。

 その他にも、松平定信と同様に、株仲間を積極的に解散させたり、倹約令を強化したりしたのですが、市場を大きく変化させることとなり、結果的にはむしろ混乱をまねくことになってしまいました。

 そして決定打になったのが「上知令」という法令でした。幕府の権威を取り戻すべく、江戸や大阪の周辺の土地を幕府の直轄地にしようとしたのです。当然そこには、はじめから住んでいる旗本や大名がいましたが、その人たちに引っ越すことを命じたのです。しかも自腹で。大外脅威への対策強化でもあったそうですが、そりゃあ反対されますよね。結果的には実施されずに終わり、このまま幕末へと向かっていったというわけです。

 

 このように「お金」という観点から、歴史を振り返ってみるととてもおもしろいですね。決して成功していないのに、「農民」に焦点を当てて対策を行なった3人は「三大改革」と呼ばれ、「商人」に焦点を当てて見事財政を回復させた田沼意次の政治は「改革」とは呼ばれないのです。

 先ほども述べましたが、100年以上経過しているにも関わらず、市民の「お金」の捉え方がまったく変わっていないのがおもしろいですよね。「お金は卑しい」「お金稼ぎは悪い」「お金に関することは難しくてよくわからない」、ある意味政府のたゆまぬ努力の成果だと言えるのかもしれません。

 結局根本にあるものは「いかに税金を徴収するか」です。市民からお金を手放させるためには「お金」を「悪」とすることが、もっとも手っ取り早いのです。実際にそうすることで、平和な江戸時代が続いたわけですから、一概にそのようなやり方を否定することはできないのかもしれませんが、それらを知っているのと知らないのとでは大きな違いがあるような気がします。

 「お金は卑しい」「お金は難しい」とむやみに遠ざけてばかりでは、いつまでたってもただ搾取され続けるだけです。考えない大衆は簡単にコントロールされてしまいます。しかし、コントロールする側の政府は、当然ながら、大衆がこのまま何も考えずにいてくれた方がありがたいのです。だから政府の配下にある学校では「お金」のことを教えることがありません。これだけ生活に密着しているにも関わらずです。きっとこれからも「お金」が教科化されることはないでしょう。私たちは本当に「英語」や「プログラミング」を学んでいる場合なのでしょうか。「お金」のことはよく知らないまま、大人になればいいのでしょうか。

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 「あれ、インターネットの話は?」と思ってくださっている方は正解です。筆者自身も同じように思っています。あれ、インターネットの話は?

 週のはじめに調べながら書きものをするべきではないですね。時間がかかって仕方がありません。そのせいもあって、今日も最後まで書ききることができませんでした。<後編>の次ってなんて言うんだろう。明日で必ず「英語とプログラミングよりもお金とインターネット」シリーズは終わらせたいと思います。乞うご期待。

 

 

【月】<中編>英語とプログラミングよりもお金とインターネット

 

 おはようございます。昨日は無事に神戸マラソンを完走することができました。おかげで体はバキバキです。休み時間に子どもたちと鬼ごっこすることはまず無理でしょう。そもそも果たして学校までたどり着けるのでしょうか。こんな日に限って、登校指導や朝会指導が重なっているんですよね。ひとつの試練だと思って、乗り越えたいと思います。どうも、インクです。

 

英語とプログラミングよりもお金とインターネット

  「道徳」「外国語」「プログラミング」、そして「お金とインターネット」という順で書きたかったのですが、昨日の記事では「道徳」のことだけを書いて終わってしまいました。今日の記事から読み始めていただいても特に問題はありませんが、一応昨日の記事のつづきという形になっています。まだの方がいらっしゃいましたら、ぜひ昨日の記事から読んでみてください。

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2.外国語(英語)

 外国語の学習につきものなのは「何年もかけて勉強するのにまったく話せるようにならないじゃないか」問題です。その通りだと思います。どれだけグローバル化うんぬんと叫ばれようとも、やはり必然性がありません。「話せるようになりたい!」と思うきっかけがないのです。そもそも、外国語を習得してまで、外国人に伝えたいことがありません。そりゃあ、話せるようにもなりません。

 外国語を学習する上でもっとも効果的な動機は「恋」だと思っています。外国人に恋をする。そうすれば、なんとかコミュニケーションをとりたいと必死に勉強することでしょう。「恋」とまではいかずとも、洋楽や洋画にハマるのもいい動機になるかもしれません。そのような動機付けが、学校では確保できません。

 だから、みんな空元気で乗り切ろうとします。必然性どうのこうのよりも、とりあえずテンションを上げて、楽しい雰囲気にしよう。これが、外国語になると妙なテンションになる所以です。この妙なテンションは、むしろ外国語嫌いを助長しているような気がします。外国語の授業のときは、変にテンションを上げろと言われて、英語の歌をうたわされたり、ペアで英会話をさせられたりする。それが嫌になる子どももいます。実際に筆者がそうでした。「国語や算数では普通なのに、どうして英語のときだけ変なテンションになるんだ?」といつも思っていました。

 では、そんな必然性をつくり出せない「外国語」の価値は一体なんなのでしょう。日本語もままならない子どもたちに「英語」を教えてどうするのでしょう。現時点で、これは唯一の価値かもしれないと思っていることがあります。それは「外国語は日本語の勉強でもある」という価値です。

 以前にも話した気がしますが、私たちは「長い」鉛筆を知っているから、使い込まれた鉛筆を見て「短い」と判断します。「まずい」料理を知っているから、「おいしい」と感じることができます。なんだって同じです。表には裏があり、裏には表があります。このように、比較対象があるからこそ、ものごとを認知することができるのです。

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 当然、日本語と英語の関係にもあてはまります。私たちは基本的に、日本語というひとつの言語で生活しています。言語内における語句の比較等はできますが、「日本語」そのものがどのような言語なのかに気づくためには、やはり外国語との比較が必要不可欠です。英語が「S+V+O」の語順で並ぶことを知って、はじめて日本語は「S+O+V」の語順になっていることに気がつくのです。また、「語順を入れ替えても成立すること」が大きな特徴であると気がつくのもこのタイミングかもしれません。他にも、「いただきます」や「おつかれ様です」、「オノマトペ」など、英訳できないことばがあることを知り、日本独自の考え方に気がつくこともあるでしょう。

  今の「外国語」の授業に価値を見出すとしたら、上記のような「日本語の比較対象になる」くらいではないでしょうか。正直、今の活動を続けていても話せるようにはならないでしょう。繰り返しになりますが、そこに必然性が存在しないからです。なんとかクラス単位・学年単位でこの必然性を作り出せないものでしょうか。英語圏から絶世の美男・美女に転校してきてもらうしかないのかな。

 

 

3.プログラミング

 この教科がもっとも現場を賑わせていると言ってもいいでしょう。「わたしパソコンなんてぜんぜんわかんな〜い」という先生がたくさんいるからです。ようやく教科の意図が「プログラミング的思考」を育てることであって、「パソコンを使いこなす」ことではないと浸透してきましたが、未だに「パソコンなんて〜」と言っている先生もたくさんいます。

 「プログラミング的思考」とは、一体なんなのかと言うと、「逆算して考える力」のことです。目標を見据えて計画を立てる力と言ってもよいでしょう。もうお分かりかとは思いますが、この力は日常生活と密接に結びついています。「来週の水曜日に発表会があるから、今日の時点ではここまで終わらせないといけない」「次の時間は算数だから、休み時間のうちに用意をしておこう」「30分には朝の読書が始まるから、はやく連絡帳を書かないと」などなど。大きなくくりで言えば、これらができるかどうかも「プログラミング的思考力」の有無だと言えるのではないでしょうか。

 ちなみに、子どもたちには「未来予知」と伝えています。「人にはある程度の未来を予知する力がある。あなたにも。あなたにも。だからその力を存分に活かせるようにしよう」という具合です。かっこいいですよね。未来予知って。

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 実際、現場で子どもたちを見ていると、なかなか見通しを立てられない子どもが確かにたくさんいます。だからこそ「プログラミング的思考」の必要性もおおよそ理解することができます。この「逆算」ができるかどうかで、生活は大きく変わるでしょう。ただ、このような「逆算」ができない一番の原因は、「過程を組み立てる力の欠如」ではないような気がします。子どもたちに不足しているのは「目的を定める力」です。自分は今ここに向かってると、遠くに旗をたてることがとても苦手です。

 要は、学校が大好きな「めあて」や「目標」が機能していないということです。4月に画用紙に書いた「こんな◯年生になりたい」という目標なんてだれも覚えちゃいないのです。また、それ以外の行き先も基本はすべて先生が決めてくれます。自分で旗を立てて、そこまでの道のりを想像する機会が、そもそもそんなにないのです。当然「目的」が定まらなければその「過程」を組み立てることもできません。

 「プログラミング」の学習では、この「過程」の組み立てが中心になると思うので、それが始まる前に「目的」の定め方を身につけさせておかなければならないのかもしれません。

 

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 やはり、長くなってしまいましたね。初の3部作になりそうです。明日は引き続いて、「お金とインターネット」について書こうと思います。 英語やプログラミングよりも「お金やインターネット」の授業をした方がいいんじゃねえか?という話です。ぜひ最後までお付き合いください。

 

 

【日】<前編>英語とプログラミングよりもお金とインターネット

 

 おはようございます。今日は神戸マラソンに出場してきます。人生で二度目のフルマラソンです。目標はとにかく完走。足切りに引っかからないように、何とか走り切りたいと思います。靴を履いて走っているのが筆者ですので、見かけたら声援お願いします。どうも、インクです。

 

英語とプログラミングよりもお金とインターネット

 「道徳」に引き続き、「外国語(英語)」や「プログラミング」が本格的に導入されるということで、現場はてんやわんやです。「もっと他にやるべきことがあるだろ」だとか「文科省は現場を知らない」だとか、批判だらけです。何事も始まりには批判がつきものですが、現場にいる身としては、そりゃあ批判もしたくなるよという感じです。ただ、批判ばかりしていても、始まるものは仕方がありません。それこそ、子どもたちのためにも準備をしなければなりません。というわけで、今日はそれぞれの教科(ややこしいのでこの記事ではすべて「教科」と呼びますね)についての私見を述べていきたいと思います。

 

1.道徳

 たびたび言っているので、よく読みにきてくださっている方ならご存知かと思いますが、筆者は道徳が大嫌いです。子どものころから嫌いで嫌いで仕方がありませんでした。気持ち悪いったらありゃしません。大人の顔色を伺いながら、それらしい「良いこと」を言わなければなりません。そのくせして「答えはないよ」「自由だよ」といったスタンスをとってきます。

 一言で言うなら、浅いんですよね。道徳のテーマになることが多い「人間関係」も「命」も、もっと複雑でもっと難解なはずなのに。気味の悪いコテコテな物語を読まされて、「仲間外れはよくないことだよね」「命は大切だよね」と言われておしまいです。そもそもはじめから、そのようなゴールに向かうためにつくられた物語です。その意図がスケスケに見え透いています。もはや露出狂です。何が多様性だよ。何が人それぞれだよ。はじめから答えがあるんじゃねえか。道徳の悪口を言っているとキリがありません。思わず口も悪くなってしまうものです。

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 だからこそ、自分が先生として授業をするときには苦労しました。自分に嘘をついているようで、子どもたちを騙しているようで、「いやあ、先生やってるなあ」という感じでした。そこから試行錯誤を重ね、今では割と楽しんで道徳の授業ができるようになりました。きっかけは、内容項目をゴールとして扱うのを辞めたことでした。

 内容項目とは、各教材に設定されている「キーワード」のようなもののことです。簡単に言えば、内容項目を理解させられたらそれでOKというわけです。いわゆる授業のゴールです。「生命の尊さ」や「礼儀」、「思いやり」「公正」など種類は様々です。話を戻しますが、これらの内容項目を「ゴール」ではなく「議題」として扱ってみたのです。そこから道徳はおもしろくなりはじめました。

 たとえば、先日「国際理解」「国際親善」という内容項目の教材をつかって授業を行いました。もちろんここで求められていることは「国による文化の違いを理解してみんなで仲良くしましょうね」です。口が滑ってもそんなことだけは言いたくありません。この授業では以下のような流れで話を進めました。

①「みんなと同じじゃないと不安?」

②「『ふつう』ってなんだろう?」

③「あなたは『ふつう』?」

 子どもたちの話を聞いているとかなりおもしろかったです。順番におおよその意見を紹介していきたいと思います。まずは、①の「みんなと同じじゃないと不安?」という問いに対してですが、ほとんどの子どもが「YES」と答えました。たとえばどんなときかと聞くと、「算数の答えがまわりの友だちと違ったとき」だとか「多数決で少数派になったとき」だと言っていました。学校で過ごす限り、多くの子どもが経験する感情なのでしょう。

 ②の「『ふつう』ってなんだろう?」という問いに対しては、「当たり前なこと」「みんなができること」「テストで平均点をとること」などという回答が並びました。そして、自分たちがふだんから「ふつう」ということばをよくつかっていることにも気が付きました。

 そして、最後の③の問い「あなたは『ふつう』?」です。ここでおもしろいことがおきました。自分のことを「ふつう」だと思う人に挙手させたのですが、ほんの数人しか手が挙がらなかったのです。一番はじめにこの質問をしていたら、もしかするともっと手が挙がったのかもしれませんが、改めて「ふつう」について考えた後だと、数人しか手が挙がらなかったのです。もうお気づきかと思いますが、この時点で矛盾が生じているわけです。「ふつう」が少数派なのです。あれ?「ふつう」って「みんな」に共通することなんじゃなかったっけ?「ふつう」の方が少ないっておかしくない?

 もうこのあたりから子どもたちのニヤニヤが止まりませんでした。「えー!じゃあ、『ふつう』って何!?」「『ふつう』って人によって違うのかな?」「もしかすると『ふつう』なんてないんじゃないか?」「でも、「ふつう」ってよく言うよ?」というように話は進んでいきました。

 そんな話をひと通りした後に、「国際理解」に関する教材を読ませたのですが「そんなことはもうすでに話し合ったよ!」「それより『ふつう』って何なんだ!」とツッコミをいれていました。本当にその通りです。人によって違うことなんてとっくの昔に気付いています。人によって違うのだから国によって違うのは当たり前、とこういうわけです。つまり、この段階でしれっと内容項目をクリアしているのです。

 他の内容項目でも同じです。「生命の尊さ」なら「命ってなんだ?」と問いかければいいのです。その上で、「命は大切?」と尋ねます。大抵は「ひとつしかないから大切」と答えますが、そういうときは手に持っているチョークを見せて、「このチョークも世界に一本しかないよ。磨り減り具合や長さが全く同じチョークは他にはない」と屁理屈をこねましょう。すると、子どもたちは分かりやすく困ってくれます。なんとか先生を黙らせてやろうと考え始めます。先生はとことん揺さぶり、子どもたちは「当たり前」だと思っていたことについて改めて深く考える。これが「道徳」なのではないでしょうか。

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 「1.道徳」とナンバリングしておきながら、語り始めると随分と長くなってしまいました。初の試みですが、前編・後編に分ける形をとりたいと思います。後編では「外国語」「プログラミング」、そして「お金とインターネット」について書きたいと思います。もしかすると、3部作になるかもしれませんね。読みづらくなるかもしれませんが、気長にお付き合いください。それでは、完走目指して走ってきます。よい日曜日をお過ごしください。