おはようございます。今年から通勤にバスをつかっています。ベンチにすわってバスが来るのを待つわけですが、どうもそのベンチの位置が変なのです。
乗り降りする部分だけガードレールが途切れている形になっているのですが、その途切れている部分からすこし離れたところにベンチが配置されています。
要するに、列の先頭がとてもわかりづらいのです。ベンチに人が座っても、それに気づかずにガードレールの切れ目から並びはじめる人もいます。はたまた、ガードレールの切れ目から並んでいる人がすでにいれば、その後につづくしかないのでベンチに座ることができません。
作成者はどうしてベンチをこんなにも中途半端な位置にしたのでしょう。「動かせばいいじゃん」と思った方がいるかもしれませんが、地面にくっついているタイプのやつなんですよね。どうも、インクです。
人が動くときには理由が必要でその内容は意外と筋が通っていなくてもいい
人が動くときには理由が必要でその内容は意外と筋が通っていなくてもいい
— インク@青年求職家 (@firesign_ink) 2020年6月2日
人はいつも理由を求めています。はじめる理由、やめる理由。挑戦する理由、諦める理由。運動する理由、勉強する理由。生きる理由、死ぬ理由。
理由がないように見える「散歩」でさえ、健康のためだとか、リフレッシュのためだとか。何かと理由をつけたがります。理由の種をまき、理由を育て、理由を食べながら生きています。まさに自給自足です。
理由がみつからなければ、人は絶対に動こうとしません。理由がみつからなければ、人は今やっていることをやめようともしません。理由に生き、理由に生かされているのです。
どうして人々はこんなにも理由を求めるのかというと、理由があれば他者に説明することができるようになるからです。言い換えるなら、他者に同意してもらえるようになるということです。
自分には向いていないからやめるんだ。ふうん、そうなんだ。才能がないから諦めるんだ。ふうん、そうなんだ。健康を維持するために運動をするんだ。ふうん、そうなんだ。将来のために勉強をするんだ。ふうん、そうなんだ。
ひとりで決めるのは不安ですからね。「理由」を材料にして、だれかに背中を押してほしいのです。もちろん同意している側には、背中を押しているつもりなんてありません。理由を聴いて「ふうん、そうなんだ」と思っているだけです。それでもやっぱり「他者に聞いてもらった」という事実が、安心感を生むのです。いつでも聞いてもらえるように、何にでも理由を求めるようになるのです。
以前、ツイッターで「不登校傾向にある子どもには『教室に入るときは左足から』という約束をする」というようなツイートを見かけたことがあります。なるほどなあと思いました。筆者自身にも不登校の経験があるので、こんな先生がいてくれたら変わっていたかもしれないなと思いました。
毎日のように「行かない」という選択肢をとり続けていると、いずれはそれが当たり前になってしまいます。するとどうなるのかというと、気もちが整っていたとしても「今日は行く」と言いづらくなるのです。
なぜ言いづらくなるのかというと、他の日との違いがないからです。要するに、他者に説明するための理由がひとつもないのです。自分の気もちが整った。ただそれだけなのに「今日は行く」と伝えると、大人はオーバーなリアクションをとってきます。
「勇気を出して行くんだね!えらいじゃん!」と、こんなことを言うわけです。「勇気を出したから」という理由を勝手につけられてしまうのです。ただ気もちが整っただけなのに。こんなことを勝手に決めつけられたら、もう二度と「今日は行く」と言えなくなってしまいます。
ここまで話せば「教室に入るときは左足から」という約束のすばらしさがわかっていただけたでしょうか。そうです。こんなにどうでもいい約束が「今日は行く」の理由になるのです。
当然、左足で入ったところで何かがあるわけではありません。右足で入ったからといって罰則があるわけでもありません。両足で入ろうが逆立ちして入ろうが、べつになんだってかまわないのです。
だからこそ、すばらしいわけです。左足で入ったからといって、だれにも褒められません。今日は学校に来ることができた理由を、だれかに勝手に決めつけられることもありません。左足から教室に入った。ただ、それだけなのです。
このように、人が動くための理由は「あるのかないのか」が重要なのであって、その内容は意外となんだってかまいません。なんでもいいから、理由がひとつでもあれば、人はぐんと動きやすくなるのです。
1歩が踏み出せない人に足りないものは理由です。そんな理由を他者が与えてやれば、それだけで動けるようになることもあります。内容は意外と筋が通っていなくてもかまいません。他者に説明するひっかかりになれば、それでいいのです。
半ば強引に誘うというのもひとつの手でしょう。「あの人に強引に誘われたから」が理由になりますからね。筆者にも、初任のしんどかったころに半ば強引にキャンプに誘ってもらって、気分転換をすることができたという経験があります。
理由なんてべつになんだっていいのです。本当のことを言えば、理由なんかなくても、自分で決めて自分で動けばいいんですけどね。
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