おはようございます。さすがに我慢の限界だったので、昨日は髪を切りに出かけました。やはり最近の美容師さんの間では「お客さんにプライベートなことを聞いてはいけない」というルールが徹底されているのでしょうか。
かつては当たり前のように「なんのお仕事をされているんですか?」からコミュニケーションがはじまっていたのに、今となってはまったく聞かれることがなくなりました。これも時代の変化なのでしょうか。
あの探り合いのようなコミュニケーションがそもそもあまり好きではなかったので、プライベートな質問をされないことは単純にありがたいと思います。しかし変に内容が制限されることで、コミュニケーションがより苦し紛れになるという可能性も考えられます。
1日に何人ものお客さんを相手にする美容師さんは、これらのコミュニケーションを一体どのように考えているのでしょうか。いろいろな職業の方のコミュニケーション論を聞いてみたいものです。どうも、インクです。
「めんどくさい」や「おもしろくない」という感覚が近いことの方が大切な気がする
「めんどくさい」や「おもしろくない」という感覚が近いことの方が大切な気がする
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年5月29日
学校の先生という仕事において「だれと組むか」は、とても大きな要素です。「おなじ学年のほかのクラスの先生がだれなのか」という話です。基本的には学年単位でいろいろなことを決めていきますからね。だれと組むかによって、その1年の色合いががらりと変わるというわけです。
先生といえども、人間なわけですから「合う/合わない」が出てきます。「来年も同じチームで動けたらいいな」と思いながら終わる1年もありますし、「なんとか乗り切ったぞ」と思いながら終わる1年もあるのです。
そんな1年をくり返す中で、学年団の先生と「めんどくさい」と思うポイントが一致していると過ごしやすいということに気がつきました。「さすがにそこまでやらなくてもいいでしょ」とか「これはもっと簡単にできるでしょ」とか。ここの感覚が近いと、とても仕事が捗るのです。
「好き」という感情は、それだけこだわりが強いということでもあります。おなじアーティストのことを好きな人と話をしてもいまいちわかり合えないのは、細分化されたこだわりがなかなか重ならないからです。だからこそ、ファン歴を競い合ったり、ライブに行った回数を競い合ったりしてしまうのです。
一方で「嫌い」という感情には、大したこだわりがありません。それぞれに理由は違えど、最後にはひとつの大きな「嫌い」に収束されていきます。悪口や陰口が盛り上がるのは、それぞれに大したこだわりがないからです。だからこそ「嫌い」という感情は簡単に共有することができてしまうのです。
いいニュースよりもわるいニュースの方が広まりやすいのは、まさにこういうことでしょう。もちろんはじめに述べた、先生どうしの「めんどくさい」という感覚の共有もこれにあたります。人と人とが関係性を築く上で「負の感情のすり合わせ」は重要な鍵を握っているというわけです。
反対に、これらの負の感情が共有できなければなかなかに厄介です。なぜなら負の感情というものは、基本的には悪だとされているからです。「めんどくさい」は悪であり、がんばることこそが正義だと信じられているのです。
だから「めんどくさいポイント」が一致しなければ、「めんどくさい」と思っていない方の言い分に合わせていかなければなくなります。どれだけ「めんどくさいから不要だ」と思っても、どれだけ「めんどくさいから短縮しよう」と思っても、「めんどくさい」と思うことは悪なので、相手の「がんばろう!」に合わせなければならなくなるのです。
ただでさえ「めんどくさい」と思っているわけですから、それを「がんばろう!」の域にまでもってくるには、かなりのエネルギーをつかうことになります。「本当はやりたくないのに」とか「 どうしてこんなことをしなければならないんだ」と思いながら動かなければならないということですからね。
はじめから「がんばろう!」と思っている人と、エネルギーをつかって強制的に「がんばろう!」と思っている人とが、いっしょに仕事をするわけですから、そりゃあ齟齬が生まれて当然です。だからこそ、はじめに言ったように「めんどくさい」というポイントが一致しているかどうかが重要なのです。
勘違いしてはいけないのが、ここで言う「めんどくさい」は、ただ手を抜きたいという意味ではありません。「時間をかける必要がないところに時間をかけたくない」という意味です。「不必要なところにこだわらずに次に進もうぜ」という意味です。
学校の先生はこれが苦手です。口をひらけば「子どものため」と言い、そんなところ誰も見ねえよ!というようなところにまでこだわろうとする傾向にあります。端的に言うならば、時間の配分が下手くそなのです。だからこそ定時をこえても働きます。はじめから定時に帰ろうだなんて思っていないのです。
この「定時に帰ろう」という感覚も、学年団で一致していればかなり楽です。「早く帰ることを目指す」という共通の基準をもって仕事の選別ができるからです。しかし、これもまたズレがあると厄介です。「ひとりは帰るのにもうひとりは残る」という形になると、まるでひとりだけががんばっているかのような構図になってしまうのです。
定時だから帰ればいいわけですし、帰った人が手を抜いたわけでもありません。それでも、まるで「残った人に仕事を押し付けて帰った」かのような構図になってしまうのです。まさに「帰りづらさ」の原因ですね。それでも筆者は帰るわけですが。
このような「めんどくさい」という感覚の共有は、上の人間が積極的に行っていかなければなりません。下の人間が上の人間に向かって「めんどくさい!」と言うのはあまりにもリスキーですからね。先ほども述べたように、悪として捉えられてしまうかもしれないからです。
「なんでもかんでもがんばろう」はもうやめにしましょう。「めんどくさい」という感覚に忠実になって、不要なこだわりはどんどんと捨てていきましょう。それぞれに残された時間は驚くほど短いのです。
「めんどくさい」を無視してがんばってしまうと、大事な時間を無駄にしてしまいます。無視したせいで「めんどくさい」という感覚が研ぎ澄まされることもなくなり、またおなじことをくり返してしまいます。それはあまりにももったいない。限られた時間をどのように分配するのか。もっと真剣に向き合わなければならない問題だと思っています。
最後になりましたが、昨晩の「らの時代 第2回」に参加してくださったみなさま、遅くまでありがとうございました。ゴールを決めないおもしろさが存分に表れていたと思います。最後は雑談のような形になりましたが、実は大切な要素が散りばめられていますからね。まだ何も決まっていませんが、今からすでに第3回が楽しみです。まだ話したことがない人も、ぜひいつかお話ししましょう。改めまして、昨晩の参加者のみなさま、どうもありがとうございました。