おはようございます。子どものころに思ったことがあります。ガスも水も地下を通っているのにどうして電気だけが地上を通っているのだろう。大人になった今でも説明することができません。子どものころに思ったことがあります。電線にとまった鳥はどうして感電しないのだろう。大人になった今でも説明することができません。子どものころに思ったことがあります。鳥はどうして空を飛ぶことができるのだろう。大人になった今でも説明することができません。そんなことも知らないのか。わたしが説明してあげようじゃないか。そう思ったあなたはきっと大人なのでしょう。子どものころに思ったことがあります。大人はどうしてこんなにもだれかに教えたがるのだろう。大人になった今なら少しくらい説明することができるかもしれません。これからその理由をみなさんにお教えしたいと思います。どうも、インクです。
「説明する」という行為を人は好む
「説明する」という行為を人は好む
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2018年12月1日
子どもと大人の違いは知識量です。それ以外はだいたい同じです。子どもに知識がないのは当然です。それを身につけるだけの時間を過ごしてきていないからです。知識がないせいでできないこともたくさんありますが、知識がないからこそできることも同じくらいたくさんあると思っています。
そんな子どもたちを目の前にすると、大人は一生懸命知識を与えようとします。「戦後すみやかに復興しようと一時的に立てていた電柱がどんどんと増えて、いまさら地下に入れるのは難しくなったんだよ」だとか。「鳥は一本の電線につかまっていて、電気の出口がないから感電することもないんだよ」だとか。「軽い体に対して大きな翼をもっていて、限りなく空気抵抗が少なくなるようなつくりになっているから鳥は空を飛ぶことができるんだよ」だとか。
でも、きっと子どもたちが知りたいのはそんなことではありません。なんと言えばよいのでしょう。別に上記の内容が間違っているわけではありませんよ。疑問に対する答えとしては正しいと思います。ただ子どもたちが知りたいことは、そんな頭の中でこねくりまわしたような「正解」ではありません。「知りたい」と「教えてほしい」って、似ているようでまったく違うような気がするのです。
そんな教えたがりな大人が特に多いのは「学校の先生」という職業です。それはまあ多いこと多いこと。子どもたちが「わかりません」の「わか」まで言ったら、間髪いれずに飛んでいき「これはね」と説明をはじめます。
これは学校の先生どうしにも言えることで、新任の先生なんてのはもう恰好のカモです。先生という仕事のことをよくわかっていないわけですから、教えなければなりません。オレが教える、ワタシが教えると、もう大人気です。新任の先生の前には大抵2時間待ちの行列ができます。
しかも、先生によって言うことが違います。ある先生はAが大事だと教え、ある先生はBが大切だと教えます。どちらかを選べば、どちらかに背くことになります。新任の先生からしたらたまったもんじゃありません。勝手に教えてきておきながら、あなたたちの派閥争いに巻き込むんじゃないよという話です。
何よりも「教える」という行為の厄介なところは「よかれと思ってやっている」というところです。「よかれと思って」が実際によかったことなんて、歴史をふり返ってみても、指で数えられる程度にしかありません。誰もが、知らない人に知らないことを教えてあげるのはいいことだと思っているのです。
人がどうしてこんなにも教えたがるのかというと、手っ取り早くマウントをとることができるからです。ツイッターを覗いていると、マウンティング合戦は日常茶飯事ですが、「教える」という行為はまさにそれです。「教える」という行為が成立した時点で、そこには上下関係が発生します。
しかも、先ほども述べたように「教える」という行為は「よいこと」だと思われているので、マウンティング大好き人間からすればこれほど好都合なことはありません。確実にマウントがとれる上に、相手からはありがたがってもらえるのです。
だからこそ「わかりません!教えてください!」と言える新人は、諸先輩方にモテます。きっと「仕方がないなあ。教えてあげようじゃないか」だなんて言いながら意気揚々と教えてくれることでしょう。
本当に「後輩力」が高い人は、これをわざとやっています。要するに、教えてもらうために質問をするのではなく、相手にマウントをとらせてあげるために質問をします。あえて「教えてください!」と懇願することで「あなたの方が上だから大丈夫だよ」と安心させてあげているのです。一体どちらが上なのやらという話です。これができる人は本当にすごいなと思います。
上の記事にも書きましたが、学校の先生の仕事は「子どもたちがわからないことを教える」ではありません。「わからない」と頭を悩ませている子どもたちを見ながらニヤニヤすることが仕事です。
「教えられる」って圧倒的に受け身なんですよ。教えられ続けた子どもは自分の頭で考えることをやめてしまいます。外山滋比古がいうところの「グライダー人間」になってしまいます。やはり自分で飛べる「飛行機人間」を育てなければなりません。
だからこそ、学校の先生に必要な力は、もしかすると「我慢する力」なのかもしれません。教えたくなる気持ちをぐっとおさえる力です。なんならむしろ子どもたちに教えてもらうくらいでいいのかもしれません。「仕方がないなあ。教えてあげようじゃないか」と言わせることができたらもうこっちのものです。