ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】誤字脱字は愛嬌です

 

 おはようございます。昨日はバレンタインデーでした。毎年この日は、クラスの男子がそわそわしているのでとてもおもしろいです。バレンタインデーの話題になると「あ、そっか!今日はバレンタインデーか!」だなんて、あたかも今知ったかのように装ってみたり。「絶対にはじめからわかっていただろ」と思わず言いたくなってしまいます。なんなら数日前から意識していたくせに。

 しかし残念ながら、現在のバレンタインデーは、かつてのバレンタインデーとはすこし違ったイベントになってきています。メインは女子どうしの友チョコ交換です。センスのよさを競い合ったり、パティシエ力を競い合ったり。もはや別のイベントと化してきています。正直おもしろくありません。なんだよその馴れ合いは。ドキドキしながら過ごすあの1日は一体どこへいってしまったのでしょう。どうせやるのなら、たとえ発祥が商業的戦略であろうと、思いきり楽しめばいいのになあ。まあ、他人事だから言えるんですけどね。どうも、インクです。

 

誤字脱字は愛嬌です

 毎朝六時にブログを更新していると、五時脱字のひとつやふたつ十分にありえます。眠たい目をこすりながら書いていますからね。なるべくないように気をつけてはいるのですが、読者の皆様が先にみつけることもあるのではないかと思います。そんなときは愛嬌だと思ってください。誤字脱字は愛嬌です。

 だからと言って「伝わればなんでもいいだろ」だなんて言うつもりはありません。誤字脱字というのは、本来伝えたいメッセージにノイズを発生させてしまうものですからね。このブログを読んで、本来なら「なるほど、確定申告はこうやってすればいいのか」と思うところを、誤字脱字があることによって「なるほど、確定申国はこうやって....ん? ここの漢字間違っていないか? 間違っているよね? え、わざとかな? いや、そんなことないよな。まあきっとこう書きたかったんだろうな」と思うことになってしまいます。書き手の意図せぬ方向に、読者の思考が寄り道をしてしまうのです。

 

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 かつての記事にも書きましたが、もっとも理想的なコミュニケーションとは、発信者の思考のコピーが受信者の思考にそのままペーストされることです。発信者が A → B → C という手順でメッセージを作成したのなら、受信者はメッセージからさかのぼって C → B → A とという手順でメッセージを解読します。もちろん発信者と受信者がちがう人間である時点でまったく同じ手順を踏むことはできません。だから、完璧なコピー&ペーストを実現させることは不可能です。

 

発信者 → A → B → C → メッセージ 

 

メッセージ → C → B → A → 受信者

 

  まったく同じは不可能だったとしても、両者が可能な限り近しい道筋をたどることで、わたしたち人間はメッセージを介して意思疎通をはかることができます。先ほども述べたように、誤字脱字はこの過程に不要なノイズを発生させます。C → B → A という手順を踏んでメッセージを受け取るべきだったはずなのに、誤字脱字があることで C → B →  になってしまいます。ちゃんと X に寄り道をした上で A に戻ってこられたらいいのですが、もしかすると X を介した A は、本来のA ではなく A' になっているかもしれません。

 

発信者 → A → B → C → メッセージ 

 

メッセージ → C → B → X → A' → 受信者

 

 なんだか記号が増えてきましたが、伝わっているでしょうか。要するに、誤字脱字のせいで、発信者が本来伝えたかったメッセージが、すこしゆがんだ状態で伝わる可能性があるということです。しつこいですが、ちがう人間どうしなのでそもそもメッセージはゆがみます。ゆがむことは前提です。そこに、誤字脱字のゆがみを上乗せしてしまうのは蛇足でしかありません。人によっては誤字脱字がものすごく気になる方もいるみたいですからね。校閲をされている方などは、きっとすぐにみつけることができるのでしょう。

 

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 このように考えていくと、発信者の役割は「受信者が通る道をデザインすること」であると言うことができます。誤字脱字という障壁を取り払い、案内表示板を立てていきます。発信者は、受信者が迷うであろう箇所をあらかじめ想定しておきます。

 そんな場所にひとつひとつ案内板を立てていくのが「説明的文章」です。どんな読者も同じ道をたどれるように、多少親切すぎるくらいに案内板を立てていきます。一方で、案内板の数を限りなく減らしていくのが「文学的文章」です。道に迷うという体験そのものをおもしろさとして提供します。

 逆手をとれば、誤字脱字さえも案内板としての機能を果たします。当記事の本題1文目で少しでもニヤリとしてくださっていたら、筆者のデザインはうまくいったということでしょう。そして、今「1文目ってどんな文だったっけ?」と思ってくださっているのなら、これもまたデザインがうまくいったということでしょう。

taishiowawa.hatenablog.com


 文章を書くときにもっとも大切なことは、読者としての力だと思っています。何度も述べていますが、自分が書いた文章のひとり目の読者は自分です。そんなひとり目の読者がへなちょこだったら、いざ書くときに何も教えてはくれません。ひとり目の読者である自分が「その表現だとわかりにくいよ」と教えてくれるからこそ、書く自分がデザインを修整することができるのです。ひとり目の読者である自分が「こう書かれていたらたぶん笑ってしまうと思う」と教えてくれるからこそ、書く自分がおもしろい文章を書くことができるのです。読みたいことを、書けばいい。あなたはひとり目の読者である自分をどこまで信用していますか。