ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】圧倒的なものを目の前にすると「自分もやってみよう」だなんて思わない

 

 おはようございます。このままこないのかと思っていましたが、ちゃんとやってきましたね。冬。昨日は運動場に霜がおり、中庭の池には氷がはっていました。「せっかくだからちょっとだけ見に行く?」と子どもたちに声をかけると「はい!」という返事が教室中に響きわたりました。はじめて聞いたよ。きみたちのそんなにいい返事。廊下にでると、すでに1年生が観察をはじめているのが見えました。さすがに1年生にわり込むわけにもいかないので、撤退して、1時間目が始まりました。のこり15分くらいになろうとしたときに1人の子どもが「先生、氷は見に行かないんですか」と悲しそうな顔をしながら聞いてきました。わかっているよ。わかっている。行くよ。行く。のこり15分で授業をほっぽりだして、みんなで中庭に向かいました。「おお!すごい!」「意外とぶあつい!」「大きい氷みつけた!」と大盛り上がりです。一切ためらうことなく真冬の池に手をつっこむつっこむ。大人だって負けていられません。子どもたちを見習って、真冬の池に手をつっこむつっこむ。おお、冷たい。池の中にはまちがいなく冬がいました。子どもたちの姿を見ていると「冬が寒くて本当によかった」はあながち間違いではないのかもしれません。どうも、インクです。

 

圧倒的なものを目の前にすると「自分もやってみよう」だなんて思わない

  小説家になりたい。だれもが一度は思ったことがあるはずです。実際に筆をとってみたことがある人もいるでしょう。まさに現在進行形で書いている人もいるかもしれません。ただ、そんな人たちの中でも、最後まで書き上げられる人はほんのわずかです。大抵、途中でリタイアしてしまいます。実際に書いてみることで、はじめて気がつく小説の難しさがあったり。最後まで書き上げることの大変さを思い知ったり。それぞれがやめる理由をみつけて、自分を納得させていきます。そんな中でも、諦めることなく最後まで書き続けられたのが「小説家」と呼ばれる人たちなのです。

 

 すこし話はズレますが、そんな多くの人たちの思いを上手に汲みとった本があるので、ここで紹介しておこうと思います。天久聖一さんの『挫折を経て、猫は丸くなった』という本です。一度テレビ番組でも紹介されたそうなので、知っている方も多いかもしれません。この本では、小説の「書き出し」だけを一般から募集し、優秀な作品を選出して掲載しています。そうです。「書き出し」だけです。その先に物語はありません。まあ、百聞は一見にしかずということで、PR文にも使用されている実際の「書き出し」作品をいくつかご紹介しましょう。

 

ヒーローたちの利害は複雑に絡み合っていた。

 

担任に好かれている吉田と、ただの吉田がいた。

 

彼女の頰を、マウスカーソルで撫でた。

 

 いかがでしょう。このような作品がずらりと並んでいるのが『挫折を経て、猫は丸くなった』という本です。言わば、小説を最後まで書き上げることはできなくても「書き出し」だけなら誰でもおもしろいものが考えられるのではないかという発想です。つづきが気になるけれど、この物語には「書き出し」しか存在しない。そんなもどかしさも含めて、ふふふと笑える本だと思います。少しでも興味をもたれた方はぜひ読んでみてください。ちなみにこの「書き出し」だけをつくる活動、子どもたちと一緒にやるとめちゃくちゃおもしろいです。学校の先生やお子さんがいらっしゃる方はぜひ。

 

 

  すみません。脱線したまま長々と話してしまいました。今日考えたいのは「やってみよう」という感情についてです。たとえば、ここまでにふたつの「やってみよう」が登場しています。ひとつは、小説を書いてみよう。もうひとつは、小説の書き出しを書いてみよう。

  「小説を書いてみよう」と「小説の書き出しを書いてみよう」というふたつの選択肢があったとき、みなさんはどちらを「やってみよう」と思いますか。きっと多くの人が後者を選ぶのではないでしょうか。なぜなら簡単そうだからです。はじめにも述べたとおり、ひとつの小説を書き上げるのはとても大変です。「とても大変」ということばではおさまりきらないくらいに大変です。

 一方で、「小説の書き出しを書いてみよう」はどうでしょう。「書き出し」だけなら書けそうな気がしませんか。もちろんこれはこれで、一種の難しさを孕んではいるのですが、それでも単純に文字数は少なくて済みます。まあ、そのような感情を利用しているのが先ほど紹介した本なんですけどね。

 要するに何が言いたいのかというと、人は「自分にもできそう」だと思うことに対して「やってみよう」と思うということです。簡単に言えばナメているのです。これくらいなら自分にもできそう。これが「やってみよう」の正体です。つまり、逆に言えば、圧倒的なものを目の前にすると「自分もやってみよう」だなんて思わないということです。なぜなら「絶対に自分にはできない」と思うからです。

 

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 頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。

寺田寅彦(1948)『寺田寅彦随筆集 第四巻』岩波書店、P.203

 

 このブログにはたびたび登場する寺田寅彦も『科学者とあたま』の中でこのように述べています。要するに「やってみよう」に必要なのは、寺田の言う「頭の悪さ」であり、筆者の言う「ナメる」です。結果的にうちのめされたっていいのです。失敗したっていいのです。半ば自己暗示でもかまいません。これくらいなら自分にもできそう。そうやってナメてかかることが、結果的には人生の幅を広げていくのではないでしょうか。

 ただしその結果が「できなかった」のなら、それをしっかりと受け止めなければなりません。できていないのに「できている」と思い込んだまま続けてしまうのは、それこそ本当に頭が悪いです。だからこそ、昨日の記事にも書いたとおり、客観的な視点から「できていないよ」と言ってくれる人の存在がかなり重要になってきます。もちろん、自分で客観視することもある程度はできるのかもしれませんが、きっとそれは本当の意味での「没頭」ではありません。心からナメて、挑戦して、没頭して、できていないのなら誰かに引き戻してもらう。このサイクルがもっとも理想的な形だと言えるのではないでしょうか。

taishiowawa.hatenablog.com

 

 

 「最近の子どもは失敗をおそれて挑戦しようとしない」だなんてことをよく耳にしますが、きっと子どもたちがナメることのできる環境を大人が整えてあげられていないだけだと思います。子どもたちに挑戦させたかったら「自分にもできそう」と思わせなければなりません。「自分にもできそう」だと思えば、子どもたちは勝手に動き始めます。そのためにも、大人は「手段」を教えてやらなければなりません。手段の多さは自信につながり、自信は「ナメる」につながります。ナメて、挑戦して、没頭して、そして大人が「できていないよ」と引き戻す。子どもたちにとって、家庭や学校がそんな場所として機能してくれれば、世界はもっとおもしろくなるような気がします。