ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】子どものことを理解しているという思い込みはかなりこわい

 

 おはようございます。東京旅行2日目が終了しました。よく歩き、よく食べ、よく飲みました。いつも思いますが「画面の向こうには人がいる」ということを改めて実感しました。出会った人たちは間違いなく、あのアカウントで、あの発信をしている人たちです。しかしその一方で、「アカウント」と「実際に出会った人」が完全にイコールで結ばれることはありません。やはり、インターネット上だからこそ言えることがあり、同時に、実際に会うからこそ言えることがあります。その両方をひっくるめて「その人」です。はたまた、その両方ともに「その人」はいないという可能性も十分にありえます。露骨に自分をさらけ出す人が魅力的に見えることもあれば、本心がどこにあるのかわからない謎めいた人が魅力的に見えることもあります。いずれにせよ、結局はその人から滲み出る「生き様」です。自分の「生き様」をどこまでおもしろがってくれるのか。相手の「生き様」にどこまで敬意を抱くことができるのか。コミュニケーションってとことんおもしろいなと思いました。昨日お会いした方々はありがとうございました。本日お会いする方々もよろしくお願いします。どうも、インクです。 

 

子どものことを理解しているという思い込みはかなりこわい

 

 孤独は前提

 

 糸井重里さんのことばです。このことばに救われたことがありました。人は孤独を嫌う生物なのでどこかには必ず「自分のことを理解してほしい」という思いを持ち合わせています。しかしその一方で、「わかるわかるよ君の気もち」と言われると、「そう簡単にわかってたまるか」と思ってしまう傲慢さも持ち合わせています。

 「相談を受けたときは相手に共感しながら傾聴するのがよい」というような話をよく耳にしますが、迂闊な共感ほど相手との距離を遠ざけるものはありません。「昔の自分もそうだった」なんて返答はもう最悪です。相談者にとって重要なことを、軽視するような形になってしまうからです。「ふふん、自分はとっくの昔にその段階は超えたけどね」と言っているのと同じですからね。筆者がもしこのセリフを言われたとしたら、きっともう二度とその人になにかを相談することはなくなると思います。

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 当然、人に分かってもらおうと思えば自分の努力も必要になります。相手まかせでは何も前には進みません。しかし、皮肉なことに「相手を理解しよう」「自分を理解してもらおう」と思えば思うほど、相手と自分とがまったく違う人間なのだと知ることになります。孤独から逃れるために人に歩み寄ったのに、近づけば近づくほど孤独を強く実感することになるのです。その過程で、わかってくれない相手を責めてしまったり、孤独に苦しむ自分が嫌になってしまったり。何もいいことはありません。

 人と人とは本当の意味でわかり合うことなんてできない。孤独は前提である。このスタートラインに立つことが大切なのではないでしょうか。教員志望の学生に「どんな先生になりたいですか」と質問すると、よく「子どもの気もちをわかってあげられる先生」という答えが返ってきます。夢がないことを言って申し訳ないのですが、子どもの気もちなんてわかるわけがありません。むしろ、わかると思っているあなたが、子どものことを軽んじている可能性があります。子どもだってひとりの人間です。「子どもだから」という理由で、簡単に理解することができるほど、人の心は単純にできてはいないのです。

 ただ、ひとつ勘違いをしてはいけないのが、相手の気もちをわかろうと努めること自体はとても大切です。何度もいうように、決して本当の意味で理解することなんてできないのですが、だからといって放り出してしまうとそれこそ学校の先生なんていう仕事は務まりません。なんとか歩み寄ろうと努めはしますが、それをどう捉えるのかは子どもたちの自由です。「わかってあげようと頑張っているのだからいい先生でしょ」はただのわがままでしかありません。

 ときどき「自分は子どものことをよく理解していますけど」というような顔をしている先生を見かけますが、きっとそんな先生ほど注意が必要です。学校の先生はどうしても仕事柄、そこに陥りやすいのです。2年連続もち上がりで担任を務めるようなことがあればなおさらでしょう。

 「理解した」と思い込むことの何がまずいのかというと、それ以降その子のことを、自分の思い込みという枠で囲んで見るようになってしまうというところです。よく先生どうしの会話の中に登場するのが「家がしんどいから学校でもあのような振る舞いをしているんだ」という理由付けです。たしかに、家庭と学校は密着していますし、子どもたちからすれば地続きの生活です。家庭でのできごとが、学校生活に影響を及ぼすことは十分に考えられます。しかし、一度「家庭に原因がある」と思い込んでしまうと、今後のその子の言動もすべて「家庭」によるものだと紐づけてしまうようになります。要するに「家庭」とは離れたところで生まれた言動や成長を見落とすことになるというわけです。正確に言えば、「見落とす」というよりも「見えなくなる」なのかもしれません。

 しつこいですが、だからこそ「人と人とは分かり合えない」という前提に立たなければなりません。家庭の影響ももちろんあるのだろうけれど、本当の意味でその子を理解することなんてできやしない。だからこそ、理解しようと努めなければならないのです。

 

 

 これまでの内容と矛盾するような気もしますが、少し話してみれば相手が「わかっている人」なのか「わかっていない人」なのかってなんとなく把握することができますよね。「わかっていない人」はとことんわかっていません。きっと自分が「わかっていない」ということすらわかっていないのだと思います。そんな人からはスッと離れるのが一番なのかもしれません。そして、これまた話が少しずれますが「共感」という意味では、やはりBUMP OF CHICKENの『beautiful  glider』はすごい曲なんだろうなと思いました。聴いたことのない方はぜひ聴いてみてください。

 

分かち合えない心の奥 そこにしか自分はいない / beautiful  glider