ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】だれかが一生懸命はじめたせいでだれかが一生懸命やめなければならない

 

 おはようございます。文章を書き始めて、1ヶ月以上が経過しました。はじめは自分のことを分かってほしくて書いていたのですが、たんだん違うところで価値が生まれはじめました。それは、書き始めなければ出会うことがなかったであろう人たちとの繋がりです。「誰とでも繋がれる時代」といえども、きっかけがなければ繋がりは生まれません。闇雲にフォローするのもひとつの手ですが、やはり共通言語があるにこしたことはないでしょう。

 また、そんな人たちが新しい人を連れてきてくれます。それはもしかすると、人ではなく作品かもしれません。しかし、それらもきっと書いていなければ出会えなかったものたちです。ことばは一体どこまで連れて行ってくれるのだろう。この先が少し楽しみになりました。どうも、インクです。

 

だれかが一生懸命はじめたせいでだれかが一生懸命やめなければならない

 何かを始めるということはとても勇気のいることです。前例がないものならなおさらです。一から自分で考えて行動しなければなりません。だからこそ、まわりでその姿を見ている人たちはきっと賞賛してくれます。「努力家」だの、「熱心」だのと褒めてもらえることでしょう。さらに、その実践が成功すれば規模はどうであれ、もはや「時の人」です。たくさんの人が尊敬の眼差しをおくり、実践を広めてくれることでしょう。  

 いわゆる「ファーストペンギン」というやつですね。天敵であるシャチやオットセイに襲われるリスクを背負って、群れの先頭に立って水中に飛び込み、身をもって安全であることを仲間に伝えるペンギンのことです。その一方で、大きなリスクを背負って挑戦した分、誰よりも確実にお腹いっぱいのエサにありつくことができるのです。

f:id:taishiowawa:20191111215915j:plain

 最近のビジネス書や自己啓発本では、このようなファーストペンギンの姿を見習うべきだと主張するものが多いような気がします。「ブルーオーシャンをみつけてすぐさま行動しよう!」という類のやつですね。先ほど述べたように、リスクを背負ってファーストペンギンになれば、たしかに恩恵はあるのかもしれません。まわりからの承認も得られるのかもしれません。自分は幸せになれるかもしれません。しかし、この話にはまだ続きがあるのです。

 誰かの挑戦によって、うまくいった実践は今後どうなると思いますか。そうです、みんながマネをするようになります。みんながマネをするとどうなるかと言うと、その実践が珍しいものではなくなります。言わば、「習慣」に近づいていくのです。上司から部下へ、同僚から同僚へ、大人から子どもへ、どんどん広がっていきます。そして、このように広がっていく中で、ファーストペンギンがもっていた「目的」や「熱量」を見失っていくのです。みんなやっているから自分もやる、上司に言われたから自分もやる、去年もやったから今年もやる、という具合です。まさに思考停止です。

 そんなときに、賢い人たちが少しずつ気づき始めます。あれ?これをやり続ける意味はあるのか?始まったときとは規模感が変わりすぎていて、時代に合っていないぞ?それにしては、労力と費用がかかりすぎるぞ?本当に必要なのか?

 しかし、もうこの時点では「習慣」として成立してしまっています。みんなの「習慣」を急にストップさせるのは、そう簡単なことではありません。それ相応の理由を説明して、たくさんの人たちを納得させなければなりません。「この習慣を続けても無駄だ」ということだけを主張しても、おそらく納得してはもらえないでしょう。ほとんどの人が習慣の魔法にかかっているので、無駄だ言われたら反論したくなってしまうのです。なぜなら、その習慣を繰り返してきた自分の過去を否定することになるからです。それよりも、無駄になってしまうかもしれない未来を大切にしようよと思ってしまうんですけどね。

 つまり、「習慣」をストップさせるためには、最低限の一部だけを納得させて、あとは強行突破するしか方法はありません。きっとその人は、多方面からバッシングを受けることになるでしょう。「前まではできていたのに」だとか「楽しみにしていたのに」だとか「一方的にやめるだなんてありえない」だとか、様々なことばを浴びせられると思います。この程度ならまだまだ優しい方なのかもしれません。習慣を否定された人々は、怒らないと過去の自分を認めてやることができないのです。

 何かを一生懸命始めた人には大きな拍手が贈られ、それを一生懸命やめた人にはブーイングが贈られるのです。変な話だとは思いませんか。そして、そんな火が消え始めたころに、ようやく「あのときにやめてくれていてよかった」という声が現場から聞こえ始めるのです。

 

 

 だからと言って、「始めた人」がここまでを見越して、すべての責任を担うというのも違う気がします。ただ、こうなる可能性があることは十分に理解しておくべきでしょう。ここで問題なのは、「始めた人」でも「やめた人」でもありません。「習慣を疑わずに続けてしまった人たち」です。規模が合っていないこと、時代に合っていないこと、費用対効果が低いこと、そんなことを考えもせずにただ続けてしまった人たちです。何も考えていなかったとしても、続けてしまうと自然とそれが「習慣」となり、疑うことができなくなってしまうのです。

 まずはこの「簡単に習慣化してしまう人たち」が疑う力を持たないと、「やめる人」はいつまでもブーイングを贈られ続けることでしょう。集団としてもっとも理想的なのは、始めやすく、やめやすい状態だと言えるのではないでしょうか。