ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】読むのは前から、書くのは後ろから

 

 おはようございます。「台車」って乗りたくなりますよね。あと、スーパーの「ショッピングカート」も。足をひっかけてすいーっと滑りたくなります。要領はキックボードと同じなのですが、キックボードではだめなのです。本来は荷物を運ぶものである台車だからこそ、買い物かごを乗せるカートだからこそ、乗りたくなってしまうのです。それの究極形が「トラックの荷台」です。トラックの荷台に乗って、道の凹凸を感じながら、運転席に通じる窓をコンコンとノックしてみたいですよね。別に用件なんて何だっていいのです。荷台に乗って窓をノックすること自体に価値があるのです。朝から何を言っているんだこいつは、と思わないでください。こっちは結構真剣です。どうも、インクです。

 

読むのは前から、書くのは後ろから

 本を読んでいる途中で「この本おもしろくないな」と思ったらどうしますか。 ほとんどの人がそのタイミングでパタリと本を閉じるのではないでしょうか。かつてのように、本そのものに物質的価値が存在していたとしたら「せっかく買ったのだから最後まで読もう」という心理が働いていたかもしれませんが、印刷技術の発達による価格低下や電子書籍の誕生により、本そのものの物質的価値はみるみるうちに低下していきました。その分手軽に様々な本を手に入れられるようになったのも事実ですが、その一方で読むことを止める勇気も必要ではなくなりました。

 つまり、書き手側からしたら、何とかして読者を引き止めなければなりません。どれだけ後半に重要なことを書いていたとしても、前半で「おもしろくない」と判断されて本を閉じられてしまったら、もう二度とその読者には後半の内容を読んでもらうことができなくなってしまいます。だから、文章の「書き出し」は非常に重要です。はじめの一文で決まると言っても過言ではないでしょう。

我輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめしたところでニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。

 日本の文学の中でもっとも有名な書き出しは、夏目漱石の『吾輩は猫である』だと言ってもいいのではないでしょうか。この書き出しの中には、読者を惹きつける工夫がところせましと並んでいます。みなさんは、一人称が「我輩」の人に会ったことがありますか。ただでさえ、この時点で「なんだこいつは」と思うのに、その直後には「猫である」と続くのです。読者からしたら「猫に自己紹介された!しかも『我輩』かよ!」となるわけです。さらに、そのくせして「名前はまだない」だなんて言い始めます。人間の得意分野である「名付け・分類」が及ばない存在であるということです。しかも生まれた場所まで教えてくれません。かなりタチが悪いです。でも、薄暗いところにいたこと「だけ」は教えてくれる。情報を小出しにされているわけですね。そりゃあ、読者も続きを読みたくなってしまいます。これが『我輩は猫である』の書き出しのレトリックです。

  繰り返しにはなりますが、著者が書き出しに命をかける理由は、作品を最後まで読んでもらうためです。最後まで読んでもらうことができなければ、本来伝えたかったことが伝わらないからです。この発想は、説明的文章だとより顕著になります。みなさんも学校で教わったはずです。「筆者の一番伝えたいことは最後に述べられることが多いんだよ」と。「はじめ・中・おわり」という構成なら「おわり」に、「起承転結」という構成なら「結」に、筆者の主張が配置されます。しつこいようですが、筆者はなんとしてでも、ここまで読者を連れてこなければなりません。

 要するに、書き手が文章を作成するときの思考は、本来なら後ろから順に形成されていくのです。「おわり」に伝えたいことを主張する → そのためには「中」でどのような説明をしよう → そのためには「はじめ」でいかに読者を惹きつけよう。と、このように考えていくのです。読むのは前からですが、書くのは後ろから組み立てられていくのです。

 理屈は十分に理解していただけるかと思うのですが、案外これを意識せずに書かれることがよくあります。ゴールも定まらずに闇雲にスタートするのは、なかなかの博打です。もちろん、「とりあえず書き始める」ことによって生まれてくるものもあるとは思うのですが、やはり構成が美しい文章は、基本的に後ろから組み立てられています。このような、ある種当たり前の手順が忘れ去られてしまう一番の原因は、原稿用紙による作文にあると思っています。

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 原稿用紙をぱっとわたされると、やはりどうしても一行目の「題名」から書き始めたくなってしまうのです。しかし、冷静になって考えてみると、本文全体の総括にもあたる「題名」を 、一文字も書いていない段階でつけられるはずがありません。先ほど「書き出し」の重要性について話しましたが、「題名」なんてもっと大切です。本来なら、すべてを書き終わったあとにつけるものなのです。

 有名な話ですが、先ほど引用した『我輩は猫である』も、はじめは『猫伝』という題名でした。高浜虚子が書き出しのレトリックに注目し、漱石の許可を得て『我輩は猫である』という題名で発表したのです。『猫伝』のままだったとしたら、もしかするとこれほどまでに多くの人に読まれる作品にはなっていなかったかもしれません。

 ここまでの内容を最後にまとめると、以下の二点に集約されます。

 

①おもしろくないと読者は簡単に読むことをやめる

②読むのは前から、書くのは後ろから

 

 ネタバラシを筆者自身が語るのはかなり野暮ですが、この結論を「おわり」で伝えるために、「中」では夏目漱石の『我輩は猫である』を例に説明を展開し、「はじめ」ではみなさん自身ともリンクする「読者と本の関係性」から書き出しました。そして、本文の内容を端的に表した「読むのは前から、書くのは後ろから」を題名につけました。ここまで読んでくださっているということは、筆者の目論見通りについてきてくださったということです。最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

 

 冒頭に書いた「乗りたい欲」を描いた作品に、芥川龍之介の『トロッコ』があります。教科書に載っていたから読んだことがあるという人も多いのではないでしょうか。八歳の少年である良平が、土工のお手伝いとして憧れのトロッコに乗って少し先まででかけるのですが、帰りはひとりで帰れと言われて、不安の中猛ダッシュで家に帰るというお話です。土工たちには悪気がなく、単純に遠くまで行きすぎると帰れなくなるから、そろそろお帰りと言ってくれたのですが、良平にとってはそれが思いがけないできごとでした。それにより、突如やってくる不安感に襲われるのです。この大人と子どもの感覚の違いや、絶妙な不安感を本当に上手に描いた作品だと思います。そんな『トロッコ』の中でも輝いているのがこの文です。

その途端につき当たりの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。

 これは、良平がはじめてトロッコに乗ったときの視点を描いた文です。風景が両側に分かれて、目の前に展開する。何度読んでも素敵な一文ですね。一生に一度でいいからこんな文を書いてみたいものです。

 語り始めるとキリがないので、今日はこのあたりにしておきたいと思います。みなさんも乗り物に乗る際は、くれぐれも十分にお気を付けください。目的地へ向けての道順をしっかり確認してから落ち着いて出発できるようにしてくださいね。それでは、よい休日をお過ごしください。