ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【金】いじめやハラスメントの肝は行為そのものより関係性だと思うんだけどな

 

 おはようございます。デパートやショッピングモールのトイレから出るときって、右か左か分からなくなりませんか? 何も考えずにふらっと左に出たら、行き止まりだったり、従業員専用と書かれた扉しかなかったり。しかも、大抵誰かには見られているので、いつも恥ずかしい思いをしながら回れ右をすることになります。これってあるあるなのでしょうか。それとも、ただ方向音痴なだけなのかな...。どうも、インクです。

 

いじめやハラスメントの肝は行為そのものより関係性だと思うんだけどな

 いじめやハラスメントに関する報道では、いつもその「行為の内容」が報道されます。報道側のねらいは、視聴者を煽ることですので、事実から離れない範囲でできるだけ共感を得られる切り取り方をします。視聴者はその報道を受けて「それはひどい!」「信じられない!」「被害者がかわいそう!」と発言し、自分はそう思えるだけのまともな感性をもった人間ですよとまわりにアピールします。ここまでがひとつのパッケージです。

 実際に、そこで報道されるいじめやハラスメントと呼ばれる行為は劣悪なものなのかもしれません。しかし、ここで大事なのは行為そのものではないような気がするのです。たとえば、教室で「バカ」ということばが聞こえてきたら、学校の先生はさかさず「そんなことばをつかってはいけません!」と指導します。報道でもこれと同じことが起こっているような気がするのです。f:id:taishiowawa:20191108001927j:plain

 たしかに「バカ」ということばは、一般的に他者を蔑むときに使われますが、その行為自体を禁止することが本当に最適解だと言えるのでしょうか。たとえば、お笑い芸人は、漫才の中でしばしば「バカ」ということばがつかいます。しかし、言われた側はこのことばに傷ついてはいません。むしろ「バカ」と言われるためにボケています。そして、その「バカ」によって笑いが生まれます。

 この「お笑いのことば」と「日常生活のことば」を混同させてはいけない、というような議論をよく耳にはしますが、日常生活でも同じことが言えると思うのです。つまりは、どのような状況で誰に「バカ」と言われるかによって、傷つく場合と傷つかない場合があるということです。

 重要なのは「バカ」という発言そのものではなく、そのことばが交わされる両者の関係性なのです。極端な例にはなりますが、きっと世の中には罵り合っても大丈夫な関係性もあるのです。そんな関係性が築かれていない状態で、もしくは築かれていると勘違いしてしまって、過剰な行為に及んでしまい、いじめやハラスメントが生まれるのです。何度も言いますが、関係ありきの行為です。行為だけを切り取って判断したつもりになっても何の意味もありません。

 問題の当事者になった両者の関係性はどうだったのか。お互いの捉え方にどのような違いがあったのか。その上で、どのような行為があったのか。この順番で考えなければ、改善には繋がらず、お互いが嫌な思いをするだけして終わります。そして、また同じことを繰り返すことになるのです。

 

  

 さっき通ったばかりの道が分からなくなるくらいです。人と人との距離感なんて、そう簡単に分かるはずがありません。自分がおもしろいからといって、相手もおもしろがっているとは限らないのです。人はそれぞれ違います。本当の意味で分かり合うことはできないのかもしれません。しかし、だからこそ、歩み寄る努力をやめてはならないと思います。お互いのちょうど真ん中で、手を伸ばせばぎりぎり届くくらいがベストのかもしれません。

 A∩B(共通部分)を広げることに一生懸命になりすぎると、違いにばかり目がいって、完全に重なり合えないことに失望してしまいます。そうなってしまうくらいなら、ほどよい距離感でA∪B(和集合)を楽しめたらいいのかもしれませんね。

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