ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

おもしろくもないのに笑うのはエネルギーを使いすぎる

 

 家のポストにDMが溜まっていることに気がつきながらも、いつも見て見ぬフリをしてしまいます。宅配ピザのチラシや選挙活動の広報誌など、意外とたくさん届くものです。きっと、電子メールが普及しはじめたころは、DMなんて無くなると思われていたのでしょう。ポストよりも宅配ボックスがあればいいのにな。どうも、インクです。

 

おもしろくもないのに笑うのはエネルギーを使いすぎる

  先日参加した研修会で、若手の先生が「教師にとってもっとも大切なものは笑顔だと思います!」と言っていました。いつかの記事にも書きましたが「さあ、笑顔の練習をしてみましょう!」なんて研修を受けたこともあります。まるで貼り付けたかのような笑顔をしている先生を見ると心の底からゾッとします。きっと教育業界以外でも「笑顔の大切さ」を語られる場面は多いのではないでしょうか。

 しかし、おもしろくもないのに笑うには、あまりにもエネルギーをつかいます。上手な愛想笑いができる人は本当にすごいなと思います。そういう人は、笑うことにストレスを感じることがあまりないのかもしれません。

 中学生のころはできるだけまわりに合わせて笑うようにしていたのですが、高校生になってから無理して笑うことを辞めました。高校に入学して間もないころのできごとでした。健康診断の際に、名前の順で並んで待っていると、両隣の男子たちが、列の前を通って教室に戻っていく女子を見て「あの子は70点」「あの子は30点」と点数をつけはじめたのです。もちろん冗談半分でしょうが、その点数付けを本当に楽しそうにキャッキャと話していたのです。このときに、この人たちと3年間いっしょに笑い続けることは無理だと思いました。

 きっと高校の同級生の多くからは、暗いやつだと思われていたでしょう。いじめられるようなことはありませんでしたが、間違いなく友だちは少なかったです。友だちが少ないと集団生活を送る上で苦労することもありましたが、それ以上に、彼らと話を合わせておもしろくもないのに笑うことの方が自分にとっては大きなストレスだったのです。

 そんな思いをしてきたからこそ、「笑顔は大切だ」という意見には気持ち悪さを感じてしまいます。正確に言えば、笑顔が大切であること自体は間違っていないのかもしれません。たしかに人の笑顔には魅力がつまっていると思います。気持ち悪さの根源は「おもしろくもないのに笑顔をつくろうとすること」にあるのだと思います。

 おもしろければ笑えばいい。おもしろくなければ笑う必要なんてない。そんな人の心に、土足で踏み込んでくる「笑顔信者」に苦しめられている人たちが一定数いるのではないかと思っています。

 

 

 「報連」と「相」は並べるものではないと思うんだけどな

  社会人の常識と聞いて真っ先に思い浮かぶのが「報告・連絡・相談」ではないでしょうか。「ほうれんそう」というキャッチフレーズが優秀すぎて、先輩面したい上司にとってはかなり使い勝手のいいアイテムと言えます(もはや擦られすぎて、今更「ほうれんそう」を語ると逆にスベるかもしれませんが)。

  しかし、あまりにもキャッチフレーズが優秀すぎたので、疑われる余地が残されていなかったのも事実です。本当に「報告・連絡・相談」のすべてが、均一に重要なのかという吟味がなされる機会がなかったということです。

 個人的には「報告・連絡」と「相談」はまったく異なる類のものだと思っています。たしかに「報告」と「連絡」は、組織として動く上で非常に重要です。一言でまとめるならば「情報共有」と呼べるでしょう。もし、この「情報共有」がなければ仕事の重複が各所で起こることになります。生産性どころの話ではなくなります。「報告・連絡」は、組織の一員としての義務であると言ってしまってもいいでしょう。

 一方、「相談」はあくまでも個人の意思で行うものだと思います。「報告・連絡」と違って、「相談」は相手によって大きな違いが生まれるものだからです。たとえば、以前、このような人に出会ったことがあります。その人は、こちらが何を言っても、すでに言うことが決まっているタイプの人でした。簡単に言えば、人の話を聞いていないのです。きっと何を言ってもこう返してくるのだろうなという予想が簡単にできました。他にも、何を相談しても最終的には「あなたが悪い」に着地するタイプの人もいますよね。パワハラ上司の典型です。そんな人たちに「相談」をしてもいいことなんてほとんどありません。

 つまり、「相談」は、したければすればいいし、したくなければしなくてもいいのです。さらに言えば、したい相手にすればいいのです。それなのに、「ほうれんそう」のせいで「報告・連絡」と一緒くたにされて、まるで義務であるかのように扱われてしまっています。気の合わない上司に、したくもない相談をしなければならない。そして、結局は「あなたが悪い」と言われて終わる。地獄のような悪循環です。誰だよ、「ほうれんそう」なんて秀逸なキャッチフレーズを考えたやつは。

 

 

意識やモラルや心やで問題を解決しようとするのはもうやめようぜ

  意識やモラルや心やで問題を解決しようとする傾向にある原因は、間違いなく学校教育にあると思っています。なぜだか分かりませんが、学校の先生って「心」が大好きなんですよね。さらにタチの悪いことに、本気で「子どもの心を育てよう」だなんて思っているから困ったものです。

 人の心なんてそう簡単には変わりません。学校教育で本当に人の心を変えたいのであれば、教師は催眠術師にでもなるべきです(催眠術師が人の心を変えられるのかは知りませんが...)。学校はあくまでも「行動」を学ぶ場所だと思っています。たとえば、「あの人なんて嫌いだ!」と思うこと自体は個人の自由です。何も悪いことではありません。しかし、「お前なんて嫌いだ!」とことばにしたり、嫌いだからといって殴りかかったりしようものなら、社会生活における人間関係に軋轢が生じます。では「あの人なんて嫌いだ!」と思ったときに、その「心」をどう処理すればいいのか。そんな相手とどう付き合っていけばいいのか。それを学ぶのが学校なのではないでしょうか。

 子どもたちにはよく、このような図を見せながら「心」と「行動」の話をしています。

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 成長するということは、「行動の選択肢が増えること」であり、「適切な選択肢を選べるようになること」です。「心」はまったく関係がありません。繰り返しになりますが、「心」は個人の自由です。大人が「心」の良し悪しを決めてしまうから、自分のことが嫌いな子どもに成長してしまうのです。自分の「心」は悪い、「心」を変えなければならない、そう思い込むから苦しいのです。「心」はそのままでいい。友だち付き合いや恋愛や上下関係を通して、自然と変化していけばいいのです。まずは大人がそう認識しなければならないと思います。
 

 

 きっと、今の自分にとって選ぶべき適切な「行動」は、ポストを開けて溜まりに溜まったDMを確認することだと思います。しかし、「心」はめんどくさいと言っているので、その選択肢を選び切ることができません。まだまだ成長過程だということですね。