ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

教師は演者だという考えは好きになれない

 

 小さい頃から爪を切ることが嫌いです。めんどくさいのはもちろんなのですが、正確に言うと「爪を切ったあと」が嫌いなのです。服や布団にひっかかるあのかんじも嫌いだし、かといって研いだら研いだで粉っぽさが指先に残ります。爪を切ったあとのお風呂なんて最悪です。髪の毛を洗うときの違和感ったらありゃしません。

 お風呂や歯磨きはいいのです。確かにめんどくさいけれど、終わったあとにすっきりします。お風呂に入ってよかった、歯磨きしてよかった、と思えます。しかし、爪切りはそうもいきません。切ったら気持ち悪さが残るのです。もう爪なんて伸びなければいいのに。どうも、インクです。

 

「そうやって使うものじゃないでしょ!」という注意はよくわからない

 学校の先生が子どもたちに注意するときによくつかうことばの中に「そうやって使うものじゃないでしょ!」というものがあります。 ほうきでちゃんばらをしていたり、消しゴムを投げて遊んでいたりすると、このことばが聞こえてくるはずです。

 たしかにほうきはちゃんばらをするための道具ではありません。掃除をするための道具です。消しゴムも投げるための道具ではありません。間違った字を消すための道具です。しかし、だからといって、ほうきでちゃんばらをしてはいけないのでしょうか。消しゴムを投げたらいけないのでしょうか。

 時に、ほうきは高いところに引っかかったものを取るときに活躍します。不審者が入ってきたときには武器にだってなるかもしれません。消しゴムだって、時にはすごろくのコマになるかもしれませんし、ハンコに姿を変えることもあるかもしれません。つまり、何が言いたいのかというと、ほうきでちゃんばらをしたり消しゴムを投げたりしてはいけない理由として、「そうやって使うものじゃないから」は成立しないということです。

 そりゃあ子どもたちは、あんなに長い棒があれば、ちゃんばらくらいしたくなりますよ。柔らかくて、壁に当たったら跳ね返ってくるものがあれば、そりゃあ投げたくもなりますよ。むしろ正常な好奇心だと思います。

 このような場面における大人の役割は、子どもの好奇心をいかに殺すことなく、その場の振る舞いを考えさせられるかだと思っています。何も考えることなく、頭ごなしに「そうやって使うものじゃないでしょ!」と怒鳴ってしまうと、子どもたちからすれば、理不尽に自分たちをコントロールしようとする大人として映ってしまうことになるでしょう。そうなれば、今後の振る舞いに繋がることもありませんし、むしろ反感を買う可能性さえあります。

 なぜそれをしてはいけないのか。どのように伝えれば、子どもたちの好奇心を殺さずにすむのか。そこまでを考えて、ことばを選ぶのが、大人の役割なのではないでしょうか。

 ちなみに自分が、ほうきでちゃんばらをしている子どもを見かけたとしたら、きっと自らその間に入りほうきで殴られにいくと思います。そして、「うっ!痛い!」と過剰なリアクションをとるでしょう。泣きマネでもするかもしれません。そんな茶番を繰り広げたあとに、「やめときよ」と伝えます。

 

 

教師は演者だという考えは好きになれない

  教師は演者だよ。1年目のときによく言われたことばです。きっと教師を経験したことのある人なら、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

 時にはテンションを上げて場を盛り上げ、時にはこわい顔をして叱り、時にはとぼけてわざと反対意見を出す。そのような「教師としての教師らしい振る舞い」が必要なんだよ、という意味合いのことばだと思っています。

 たしかに言わんとしていることは理解できるのですが、時間が経った今でも、この考え方は好きになれません。なぜ好きになれないのかを考えてみると、きっと自分が子どものときに、演技をする大人が嫌いだったからだと思います。

 「やる気にさせるために、今わざと褒めたんだろうな」とか「場を盛り上げようとして無理をしているな」とか、そこに含まれる意図を読み取ろうとしてしまう、嫌な子どもだったのだと思います。特に、授業中に「え、これってこうやって計算するんじゃなかったっけ?」ととぼけて、子どもからの「ちがう!ちがう!」を待つ先生がかなり苦手でした。「分かっているくせに、もういいって」と思っていました。相当ひねくれていたのでしょうね。

 きっと、教師は演者だという考えの中には、「子どもをコントロールできる」という大人の傲慢さが見え隠れしているのだと思います。もちろん何かしらのねらいをもって、子どもたちと関わることは大切です。そのねらいに合わせた表現力も教師には必要だと言えるでしょう。しかし、そこに少しでも「わざとらしさ」が生じると、比例して嫌悪感が生まれてくるものなのです。ぶりっ子が嫌われるのと同じ理屈ですね。

 教師は演者ではない。むしろ教師こそ演者であるな。リスペクトをもった上で、「教師らしさ」に中指を立てていきたいと思います。

 

 

他のクラスの友だちと仲良くしていたら心配されるってどういうことだ

  もし教師ではない方がこの記事を読んでくださっているのなら、きっと同じように思ってくださるはずです。むしろ、なぜ心配されるのかが分からないくらいかもしれません。教師の理屈はこうです。

「最近あの子、他のクラスの友だちとばかり遊んでいるな。きっと自分のクラスに居場所がないんだ!」

 余計なお世話だよ!と思わずつっこみたくなりますね。他のクラスの友だちと遊んで何がだめなんだという話です。これこそクラス担任制の大きな闇だと思います。もちろん、実際に自分のクラスに居場所がなくて、他のクラスの友だちと遊んでいる子どももいるかもしれません。だとしてもいいじゃないですか。どうしてそんなにクラスにこだわるのでしょうか。

 大人だって十分に同じことが起こり得るはずです。自分が所属している部署にはあまり気が合う人がいないから、いつも他の部署の友だちと飲みに行く。そんな話いくらでもあるはずです。さらに言うと、協力することさえできれば、同じ部署の人たちと無理に仲良くなる必要なんてありません。もちろん仲がいいに越したことはないのでしょうが、そのコミュニティの中ですべてを完結させる必要なんてこれっぽっちもないのです。

 むしろ、教師がこんな考え方をしているせいで、苦しんでいる子どもたちがいるのではないでしょうか。なんとかこのクラスに馴染まないといけない。なんとかこのクラスの中に居場所をつくらないといけない。どうかそんなことで苦しむのだけは、今すぐにやめてほしいものです。あなたの生きる世界は、こんなに小さなひとつの部屋で完結するものではありません。クラスなんて、人生のほんの一瞬、身を置く場所にすぎません。

 もちろん、世の教師に子どもたちを苦しめてやろうと思っている人などひとりもいません。しかし、だからこそ、クラスにこだわることが、時に子どもの世界を狭め、苦しめる可能性があることを知っておかなければなりません。担任としては、誰にとっても居心地のよいクラスにしたいものですが、絶対にそうならなければいけないわけではないのです。そこに居場所をみつけられない子どもがいても、何らおかしなことではありません。そんな子どもにクラスの外の世界を教え、遠くから見守るのも教師の役割なのではないでしょうか。

 もう「クラス」という檻に子どもたちを閉じ込めるのはやめましょう。子どもたちを苦しめるものは、もしかすると、「クラスに居場所をつくってあげたい」という教師の優しい思いなのかもしれません。

 

 

  記事の途中で「教師は演者だ」という考えについて触れましたが、それは「教師は五者であれ」という考えの一角にすぎません。五者とは、学者・演者(役者)・易者・芸者・医者のことを指します。詳しくはググってみてください。

 こういった類のキャッチフレーズ的な教訓は、若手に向けて語りたがるおじさんおばさんにとても好まれます。「『教師は五者であれ』って知ってるか?ひとつずつ言えるか?」という具合です。たとえ自分の力量がなかったとしても、こういうフレーズをつかっておけば、それらしく聞こえるんですよね。

 それに対して「そうなんですね!勉強になります!」と言うのが若手の役割なのかもしれませんが、「教師は五者であれ」を語る人を尊敬することはないと思います。「五者」である前に「自分」でしょうよ。「五者」である前に「人間」でしょうよ。そんな誰かのことばじゃなくて、あなたという教師を教えてくれよ。そう思ってしまいます。