ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

伝わればいいじゃんという考えにはあまりにも思いやりがない

 

 車に轢かれそうになったときにボンネットに飛び乗れば助かるんじゃないか、という妄想を小学生のころから続けています。インクです。

 

子どもにとってテストなおしほど価値の感じられないものはない

 テストはその単元のゴールではありません。言葉の意味通り、どのくらい理解できているのかを確認するための「お試し」にすぎないのです。そこでできていなかったら、対策を練り直せばいいだけです。その軌道修正の繰り返しこそが、人の思考を研ぎ澄ませます。

 しかし、この世で行われているテストの多くはゴールとして取り扱われています。結果がどうであれ、そこで点数がつけられて返却されておしまいです。軌道修正する機会が用意されることはほとんどありません。だからこそ、子どもたちは点数にしか興味をもちません。どの問題が正解で、どの問題が間違っていたかなんて知ったこっちゃないのです。

 そうなってしまうのも無理はありません。だって、教師がその点数で子どもを評価しているんだもの。

 たしかにテストの点数は便利です。わかりやすく差がつきますし、間違いのない事実なので主観的な偏りが生じません。言い換えると、誰かに文句を言われることがないのです。この「評価」の仕組みが、テストの役割をねじまげ、子どもの軌道修正の機会を奪っています。

 世の中のお父さん、お母さん、どうか子どもの通知表で一喜一憂したり、それをきっかけに子どもを叱ったりするのはやめてください。そこに書かれた数字や文字は、所詮はたったひとりの未熟な人間の見解でしかありませんから。

 

 

「夕焼け小焼けの小焼けって何?」という疑問に込められた絶妙な共感欲求

  「夕焼け小焼けの小焼けって何?」という問いが求めているものは、答えではありません。「たしかに何なんだろうね!」という共感です。別に「小焼け」の意味を知りたいだなんて思っていないのです。

 ここでもし、「『小焼け』というのは、ただ語呂をよくするためにつくられた造語なんだよ!」と答えても、「マジレス乙」と言われるだけです。

 もちろんこれはあくまでも一例であって、まったく同じ内容の疑問でも、その場の状況や相手との関係性によっては答えを求められている場合もあります。ここがコミュニケーションの難しいところです。

 「KY」という言葉が流行り、「空気を読むこと」に対して議論されることが多い時期もありましたが、上記のような内容を踏まえると、コミュニケーションにおいて「空気を読むこと」は、やはり大切なスキルであると言えるでしょう。

 そんなことを言い始めると、「いや、空気を読んで人の顔色を伺う必要なんてないんだ!自分らしく生きるんだ!」なんて言う人がでてきますが、うるせえってんだ。読めないよりも読める方がいいに決まってるんだよ。空気を読むスキルを身につけた上で、忖度するかしないかを選択すればいいんだ。空気が読めないというのは、その選択すらできないということだからね。

 

 

伝わればいいじゃんという考えにはあまりにも思いやりがない

  国語は、「自分の思いをより正確に相手に伝えるため」に学習するものだと思っています。もちろん「相手の思いをより正確に理解すること」も同じくらい大切な目的です。これらを前提とすると、「伝わればいいじゃん」という考えにはあまりにも思いやりがありません。

 たとえば字の丁寧さ。よく子どもが「読めたらいい」と言いますが、「より正確に伝える」ことを考えるのなら、丁寧な方がいいに決まっています。

 誤字も同様です。たしかに、漢字の横画が一本足りない程度で解読ができなくなることはありません。しかし、読み手に「あ、横画が一本足りない」と思われる可能性を発生させてしまいます。そう思われてしまった時点で、読み手の思考は寄り道をしてしまっているので「より正確に」という目的は達成できなくなってしまいます。

 さらに言えば、「この人、正しい漢字を知らないバカなんじゃないか」と思われる可能性までもがでてきてしまいます。そう思われたら一巻の終わりです。どれだけその内容が立派なものだったとしても、色眼鏡を通してでしか読んでもらえなくなってしまいます。

 そう考えると、パソコンで文字を入力するのがもっとも手っ取り早い解決策なのですが、未だに「手書きの方が誠意が伝わる」という考えをもつ人もいます。もちろん手書きには手書きの魅力はあるのですが、結局は何を目的とするかが大切なのです。

 

 

 このブログでも「より正確に」伝えるために、五時・脱字にわ気おつけたいと思っていmあす、