ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

あえてダサいのその「あえて」がダサい

 

 女性って電話に出るときに声色が変わりますよね。あれってすごく損をしているなと思います。もうその時点で、正直なコミュニケーションはとれなくなりますからね。もったいないなあ。どうも、インクです。

 

目上の人とのコミュニケーションにおいて生意気さって大切な要素だよな

 最近になってようやく人とのコミュニケーションを楽しめるようになってきました。特に目上の人とのコミュニケーションのとり方は、昔と比べると大きく変わったと思います。そのきっかけが「生意気さ」でした。

 目上の人に上手に取り入るタイプの人間を観察していると、確実に「生意気さ」をもって接しています。しかし、ただ「生意気」なだけではやっていけません。そこにはいい塩梅の「礼儀」がふくまれていなければならないのです。

 「礼儀正しくしなさい」とよく言われますが、礼儀正しいだけの人間ほどつまらないものはありません。「礼儀」というものはまさに「建前」であって、その人ならではの「本音」から遠ざかる行為です。その人の魅力や個性は、「本音」の中にこそあると思っています。その「本音」が表れているのが、先ほどから述べている「生意気さ」なのです。

 コミュニケーションは、「本音」だけでは成り立ちません。同様に「建前」だけでも成り立ちません。「本音」と「建前」をどのくらいの比率で混ぜ合わせるか。その比率は、実験を繰り返した人のみ、知ることができます。一時期から、頻繁に見かけるようになった有吉弘行やマツコデラックスは、「建前」が大きな勢力を持っていた芸能界に上手に「本音」を混ぜ込んで、人気になった人たちであると言えるのではないでしょうか。

 

 

「便利は危険、不便は安全」っておじさんとお爺さんの間くらいの人が言ってた

  今、教育現場は必死になってICT化に取り組んでいるフリをしています。自分たちが時代遅れではないと一生懸命アピールしているのです。それはまるで、スマホを使いこなそうと頑張っているお爺さんみたいなものです。

 現状としては、ようやくクラスに一台プロジェクターが用意されるようになってきました(もちろん自治体にもよりますが)。一生懸命つかい捨ての掲示物をつくっている先生はまだまだたくさんいます。あまりにも遅すぎる。

 以前、ICTの研修に行ったときに、おじさんとお爺さんの間くらいの人が「便利は危険、不便は安全」と言っていました。研修会で前に立って話すくらいなので、きっとこの地区のICT分野では上の方にいる人だと思います。教育業界におけるICT化の現状がつかみやすいエピソードだと言えるのではないでしょうか。

 この業界は「子どもの人生がかかっているから迂闊なことはできない」ということを言い訳にして、変化することをとことん拒みます。リスクをとることが、おそらくどの業界よりも苦手です。失敗がこわくてこわくて仕方がないのです。そんな業界が発展するわけがありません。

 ましてや、そんな場所ですごす子どもたちが、失敗をおそれずに果敢にチャレンジできる人間に育っていくでしょうか。本当の意味における「子どものため」とはどういうことなのか。もう一度考え直すべきなのではないでしょうか。

 

 

あえてダサいのその「あえて」がダサい

  ファッションの世界において、あえてダサいのがかっこいいという文化があります。近頃流行した「ダッドシューズ」などは、まさにその代表と言えるのかもしれません。ゴーシャが流行ったのもここに通ずるところがあると思います。

 たしかに、スタイリングにおいて「はずし」は大切です。「差し色」もひとつの「はずし」と言えるでしょう。はずし方は人それぞれですし、似合う「はずし」は人によって違います。

 この「はずし」を楽しむ文化として、「お笑い」が挙げられます。すばらしい漫才やコントをするお笑い芸人は、まさに「はずし」のプロと言えるでしょう。

 しかし、お笑い芸人は時としてスベることもあります。その原因は、「あえて」はずしたことが観客に見透かされてしまっていることにあります。つまらないネタほど観客の脳は冷徹に機能します。お笑い芸人のその「あえて」に観客は寒気を感じてしまうのです。

 ファッションも同じです。あえてダサいのその「あえて」が、多くの場合においてスベっています。お笑いであれば、その場でリアクションが返ってくるので、胸が痛くなるほどそのスベりを自覚することができますが、可哀想なことにファッションの世界ではなかなか自分がスベっていることに気がつくことができません。

 意図してスベり芸をしているのならもちろんかまいませんが、スベっていることに自覚がないまま漫才を続ける人たちがいたら、見ているこっちが恥ずかしくなるのです。

 そういう点において、ゴーシャの引き際は本当に美しいなと思いました。

 

 

 よく、算数には明確な「答え」があるのに対し、国語には明確な「答え」がないと言われます。それぞれの教科の性質を考えるとそのとおりだと思います。

 ただ、たしかに国語に「答え」はありませんが、「間違い」はあります。なんでもかんでも許されるわけではありません。

 そもそも、ことば自体が「制限」という機能をもっています。考えてもみてください。色も形も大きさも全然ちがう果実を、ことばは「りんご」とひとくくりに制限します。そんなことばの学習が、まったくの自由であるはずがありません。

 その「制限」をいかにかいくぐって進むのか。それが言語表現の醍醐味であり、コミュニケーションのおもしろさなのです。

 「こんにちは〜!〇〇さんのお宅でしょうか?ご無沙汰しております〜」なんて1オクターブ高い声で話している場合ではないのですよ、奥さん。