居酒屋のお茶はどうして、麦茶でも緑茶でもなく烏龍茶なんだろう。インクです。
地方公務員ってその地方に縛られるからおもしろくない
地方公務員ってその地方に縛られるからおもしろくない
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) June 23, 2019
教師の多くは地方公務員にあたります。教師になりたいと思ったことはもちろんありますが、地方公務員になりたいと思ったことは一度もありません。
地方公務員とは、読んで字のごとく、特定の地方で公の校務をこなす員です。言い方を変えれば、その地方に鎖で繋がれた飼い犬です。だからこそ、公務員試験や教員採用試験では、必ず「どうしてこの地方を選んだのか」と聞かれます。地方側としては、愛してもらっていることが前提条件なのです。なんてわがままなんでしょう。
しかし、このインターネットが普及した時代において、地方愛の必要性は間違いなく薄れていっています。今時、地方にこだわりをもち続けているのは、地方公務員とラッパーくらいではないでしょうか。そんなヒップホップ文化に彗星の如く現れた呂布カルマは、地方愛を前面には出さず、空想の街「Jet City」をつくりました。ヒップホップとは離れますが、DJ集団は自らのことを「レペゼン地球」と名乗りました。
もう、ひとつの地方にこだわる時代はとっくに終わっているのです。どこにいたってやり方次第ではなんだってできるのです。しかし、教育業界がそれに気がつくのはもっともっと先。いや、さらにその先になると思います。この沈みゆく泥舟を一生懸命漕ぐ先生方を心の底から尊敬します。教育に幸あれ。
「めんどくさい」がものごとを進化させる
「めんどくさい」がものごとを進化させる
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) June 22, 2019
水道がなかったころ、人々は井戸をつかって飲み水を確保していました。井戸がなかったころ 、人々は雨水や川の水をつかって飲み水を確保していました。
井戸に水を汲みにいく少女はきっとこう思っていたはずです。「ああ!めんどくさい!」と。川に水を汲みにいく少年もきっとこう思っていたはずです。「あああ!めんどくさい!」と。
彼らの「めんどくさい」という思いがなければ、きっとこの世界に水道は誕生していません。冷蔵庫も、洗濯機も、電子レンジも、掃除機も、きっと誕生していません。人々の「めんどくさい」という思いがものごとを進化させてきたのです。
しかし、それらの「めんどくさい」を利用してものごとを進化させてきた人はごくわずかです。大半の「めんどくさい」はただのマイナス発言として、自分の気分を下げ、周りの人の気分を下げて終わります。しかし、誰にだって「めんどくさい」を利用することはできるはずだと思っています。真剣に「めんどくさい」に向き合えばきっと何かを進化させることができます。
教科というのは考え方の違いであって中身はぜんぶ一緒
教科というのは考え方の違いであって中身はぜんぶ一緒
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) June 22, 2019
今は小学校の先生をしていますが、大学時代は塾講師として中高生の授業を中心に行っていました。そこで、しょうもないクソガキがよくこんなことを口にしていました。
「二次関数とかどこで使うん?お金の計算ができたらそれでいいし!」
「おれは一生日本に住むから英語なんて勉強せんでいいし!」
一生懸命教えているこちらとしては少しイラっともしますが、彼の意見はもっともだと思います。たしかに二次関数を普段の生活でつかうことなんてまずありませんし、日本で生活する分には日本語が話せたら事足ります。
役に立たないものはいらないと簡単に切り捨ててしまうのもどうかと思いますが、学校教育の前提を「社会で生きるための訓練」とするのであれば、社会で役に立たないものを学校で学習する必要がないと考えるのは理にかなっています。
それではなんのために二次関数や英語を勉強するのだろう。
二次関数の学習の最終目的は「二次関数の問題が解けるようになる」ことではありません。「二次関数の仕組みや考え方を知る」ことにあると思います。英語だって同じです。英語の学習の最終目標は「英語を話せるようになること」ではありません。「英語の仕組みや考え方を知る」ことにあります。もちろん二次関数の問題は解けた方がいいし、英語は話せた方がいいんですけどね。
使い古された鉛筆を見て「短い」と感じるのは、「長い」鉛筆を知っているからです。「日本語」しか知らなければ、「日本語」がどのような言語なのかを捉えることはできません。「英語」を学習して初めて「日本語」を知ることができるのです。「考え方」を学習するとはこういうことです。
国語も数学も英語も理科も社会も、すべては根っこでつながっています。それぞれで用いる「考え方」が違うから、「教科」として分類されているに過ぎないのです。そして、それぞれの「考え方」を学習し、組み合わせることで、私たちはようやく目の前の鉛筆が「長い」のか「短い」のかを判断できるようになるのです。
思うがままに筆を走らせているとどうしても文章が荒削りなものになってしまいます。推敲こそが醍醐味ではあるのですが、おそらくそこにこだわりはじめると記事を公開することなんてできなくなってしまうでしょう。
荒削りでも仕方がない。いや、むしろそれがいい。今の自分だからこそ発することのできることばをこれからも綴っていきたいと思います。
ちなみに、烏龍茶よりもほうじ茶の方が好きです。