ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】これまでに諦めてきたものを取り戻そう

 

 おはようございます。この3連休は、予定を詰め込みすぎてえらいこっちゃでした。我ながら本当に元気なものだなと思います。まだまだ若い証拠ですね。

 3日もあれば大抵のことはできるものです。ただ「何かをした」ということは「またべつの何かをしていない」ということでもあります。

 今のところは気づいていないフリをしています。学期末が着々と近づいてきていることになんて、まったく気づいてはいません。大丈夫。まだ大丈夫です。

 そもそも、3連休でどうにかしようと思っていることの方が間違っているのです。大間違いです。3連「休」ですからね。休んでなんぼの連休です。

 きっとまた、未来の自分ががんばってくれるのでしょう。そのへん彼は、わりとがんばり屋ですからね。頼りにしています。どうも、インクです。

 

これまでに諦めてきたものを取り戻そう

 転職活動をしています。ひとことで言うなら、とにかくおもしろいです。絶対に出会うことがなかったであろう人たちと出会い、企業の熱量を肌で感じとることができます。そのたびに新たな価値観に触れ、自分自身を見つめ直すことに繋がります。

 転職活動をはじめるまでは、こんなにもいろいろなことをしている大人が存在するということを知りませんでした。こんなにも強い思いをもって動いている人たちがいるということも知りませんでした。

 それと同時に、自分の無知さを思い知ることになりました。思っていたことをすでに形にしている人がいて、諦めている間に進んでいる人がいたのです。

 自分の至らないところが、次々にみつかっていきます。そりゃあ、いろいろなことを考えますよね。でも、そういう機会をいただけていること自体が本当にありがたいことなのです。

 相手からすれば、この先いっしょに働くことになるのかどうかもわからない人間なわけですからね。そんな人のために時間を割いて、真剣に向き合ってくださっているわけです。感謝しかありません。

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 企業の方々との対話を繰り返すうちに、転職を通してやりたいことがみつかりました。それは「これまでに諦めてきたものを取り戻す」ということです。

 かつて筆者は、おとなしい子どもでした。恥ずかしがり屋なわけでもなく、ことばが少ないわけでもなく。単純に諦めていたのだと思います。「言ってもどうせ伝わらないだろう」という諦めです。 

 何も、はじめからずっと不貞腐れていたわけではありません。何度も何度もチャレンジしたことはありました。思っていたことを、家族に、友だちに、先生に伝えようと試みたことは何回もありました。

 それでもやっぱり、伝えたかったことはどうしても伝わりませんでした。何ならそんなところには、誰も価値なんて見出してやいなかったのです。

 そんな経験をくり返すうちに、おとなしい子になりました。ほかの人格を纏えるほどの器用さはもちあわせていなかったので、ただ「見せない」という選択肢をとるしかなかったというわけです。

 

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 ある意味このブログでは、そんな「どうせ伝わらないだろう」と諦めてきた思いを、つらつらと言語化しているということになります。

 そうすると、不思議なことに、ちゃんとおもしろがってくれる人たちが現れました。伝わらないと思って諦めてきたことが、ちゃんと伝わっているのです。

 これは、書くようになってから気がついたとても嬉しいことでした。「どれだけ諦めたくなるようなことがあっても、自分が表現することをやめてしまったら可能性はゼロになってしまう」という当たり前なことを、改めて思い知ったのでした。

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 そこで今日のタイトルです。この転職を通して「これまでに諦めてきたものを取り戻そう」と思うようになりました。要するに「どうせ伝わらないだろう」と諦めて封印していた思いを、どんどんことばにしていこうと思うようになったということです。

 時間をとって対話をしてくださった企業の方々が、その点において、誰も諦めていなかったんですよね。「これを言ったら空気が読めないと思われるかな」とか「これを言っても伝わらないだろうな」とか、そんなことよりも大切にしているものがあるんだろうなと思ったんですよね。

 もう12月になろうとしていますが、このタイミングでようやく転職の方向性が決まりました。この転職を通して、これまで諦めてきたものを、もういちど取り戻そうと思います。そうすることが「おもしろい大人」への第1歩である気がしています。

 

【今後の予定】

①11月25日(水)こきけんよう Vol.20

②12月4日(金)らぱいんざWORLD Vol.9

 

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【月】孤独は前提だぜ

 

 おはようございます。インディーズのロックバンドを知っていたり、マイナーなドメスティックブランドを知っていたり。読んだことのある本が重なったり、観たことのある映画が重なったり。たまたま出身地がおなじだったり、海外で日本人に出会ったり。

 このような「奇遇」の連なりによって、人と人とは繋がっていきます。そんな中でも、特に大切なのは「ことばが通じる」という奇遇です。「日本人どうしなら通じて当たり前でしょう」と思いましたか。

 それがそうもいきません。「ことばが通じる」って、実はなかなかの「奇遇」です。しかし、だからこそ、ことばが通じると嬉しいわけです。「人とことばを交わす」というのは、やはり楽しいものなのです。

 今日もこうして、目に見えない空に向かってことばを発しつづけます。一方的でひとりよがりな行為ですが、そのことばが奇遇にも、どこかの誰かに通じたらいいなと思っています。どうも、インクです。

 

孤独は前提だぜ

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河出書房新社 文庫版の装丁

 先日、沖田修一監督の映画『おらおらでひとりいぐも』を観てきました。原作は若竹千佐子さんの小説です。第54回文藝賞と第158回芥川賞のダブル受賞に加えて、タイトルもかなり斬新なので、気になっていた方も多いのではないでしょうか。

 本屋さんで装丁をはじめて見たときは、思わず立ち止まってしまいました。おらおら? いぐも? なんだこれ?「ひとり」以外のことばの意味がまったくわからなかったのです。あまりにも気になったので、ひとりの現代人としてすぐに検索をかけました。

 どうやら元は、宮沢賢治の「永訣の朝」の1節「( Ora Orade Shitori egumo )」のようです。「わたしは、わたしひとりで逝きます」という意味ですね。

 妹である「とし子」の死を前にして詠んだ詩なので、先ほどのことばは妹のセリフだということになります。わたしは、わたしひとりで逝きます。

 この詩を読んだときに、パッと連想されたのが高村光太郎の『レモン哀歌』でした。妹が「とほくへいつてしまふ」と詠んだ宮沢賢治と、妻の「機関はそれなり止まつた」と詠んだ高村光太郎と。

 そして、肝心の『おらおらでひとりいぐも』ですが、こちらは「最愛の夫を亡くし、ふたりの子どもとも疎遠になっている70代の桃子さんが孤独と向き合う」という物語です。原作とは異なる部分も多いようですが、個人的にはお気に入りの1作になりました。

 桃子さんの妄想が具現化されるような場面がたびたび登場するのですが、ここの描き方が本当にお見事なのです。現実世界との違いを残酷なまでにスパッと切り替えたかと思ったら、最後にはそんな妄想の世界までもが現実の一部として機能しています。

 またその妄想が「馬鹿げたおふざけ」でもなく「老人のボケ」でもなく、本当に素敵なのです。まあ、あまり話しすぎるとネタバレになってしまうので、ぜひお近くの劇場に足を運んでみてください。

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大島依提亜さんディレクション イラスト版ポスター

 ここからはできるだけネタバレをしないように、この物語の主題である「愛」と「孤独」について、思ったことをひたすらに書いていこうと思います。

 先ほども述べたように、主人公の桃子さんは夫の周造を亡くしています。言い換えるなら、愛する人を失い、愛してくれた人を失っているわけです。

 これまでの人生でもっとも大切にしていた「愛」を失い、突如「孤独」になりました。そりゃあ、寂しくもあり、悲しくもあります。そんな感情を「弱さ」として吐露するような場面もありました。

 しかし桃子さんは、そのまま悲しみに暮れるのではなく、前を向いて進みはじめます。ここでタイトルが効いてくるわけです。おらおらでひとりいぐも。

 そう考えると、賢治が詠んだ「( Ora Orade Shitori egumo )」とは、すこし意味合いが違いますね。桃子さんの「おらおらでひとりいぐも」は、終わりではなく始まりです。愛に頼りきらない、孤独を前提とした人生の始まりなのです。

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左から子ども時代の桃子、70代の桃子、20代の桃子

 作者は決して「愛」を否定しません。ただし「愛からの解放」にも価値があると述べています。「愛」ってある種、他者に委ねるものですからね。

 それこそ桃子さんのように、自分の意思に関わらず、突然失われてしまう場合もあります。そんな不安定なものに、全身全霊を注ぎ込むのはあまりにもリスクが高いわけです。そんなリスクをも容易に飛び越えてしまうのが「愛」なのかもしれませんけどね。

 だからこそ「孤独」の中に価値を見出すことができたらよいのかもしれません。前提としての「孤独」の上に「愛」を注いでいくわけです。

 「愛」を失ったときのためのリスクヘッジではなく、自分の人生を歩むための「孤独」です。孤独は前提だぜ。おらおらでひとりいぐも。

 

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【日】「おかしいでしょ!」では何も変わらない

 

 おはようございます。先日とあるテレビ番組で、チョコレートプラネットの長田さんが「このままだと老人になったときに話せるエピソードトークが少なすぎると思ったから、東京に出て芸人になった」とおっしゃっていました。とてもいい理由ですよね。

 長田さんと言えば、和泉元彌さんのモノマネやTT兄弟など、数々のネタをヒットさせているわけですが、個人的には外見がとてもいいなと思っています。

 めちゃくちゃいい人にも見えるし、めちゃくちゃわるい人にも見えるんですよね。桜井画門先生の漫画『亜人』に出てくる佐藤さんと重なります。

 べつに長田さんが悪い人だと言っているわけではありませんよ。「いい人にもわるい人にも見える」というのは褒めことばです。誤解してはなりません。

 どれくらい長田さんが好きかと言うと、両手をめいいっぱい広げたくらい好きです。両手を思い切りまっすぐに広げて ...... T! ティー、ティティ、ティーティーティティ! どうも、TTインクです。

 

「おかしいでしょ!」では何も変わらない

 静かにしましょう。姿勢を正しましょう。教室を走るのはやめましょう。イスを二本足にするのはやめましょう。手元でゴソゴソするのはやめましょう。

 子どもから子どもへと、いわゆる「注意」が行われます。そして、そのほとんどの場合は名指しです。「〇〇さん、静かにしましょう」と言うわけです。

 するとどうなるかは想像がつくでしょう。「そんな言い方をしなくてもいいのに」とか「お前には言われたくない」とか「なんでオレだけに言うの」とか。

 くだらない水かけ論がはじまって、ついにはケンカがおこりはじめるのです。「注意」がきっかけになってケンカが起こることは本当に多いです。

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 では、どうしてそんなにも他者に注意をしたがるのかというと、その理由はふたつあります。ひとつ目は「いいことだと思っているから」です。

 「相手のためを思って、正しいことを教えてあげている」というポーズをとることができるので、タイミングや言い方が合えば、大人たちも褒めてくれます。

 言い換えるのなら、多くの人の支援を味方につけながら、圧倒的な「正しさ」を纏えるというわけです。だからこそ、自信をもって言うことができるのです。

 ふたつ目の理由は「自分が不安だから」です。今しがた「自信をもつことができる」と書いたばかりですが、自信がないからこそ自信がほしくなります。

 自信がなくて、不安だからこそ、他者に注意をするという行為を通して、安心しようとするのです。あの人よりも自分の方が正しい、あの人よりも自分の方ができている、というわけです。まさにネット上で散見される「マウンティング」というやつですね。

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 このマウンティング注意が増えはじめると、学級集団としては、あまりよろしくありません。他者の粗を探す人がたくさんいるということですからね。

 自分たちのことは自分たちでする「自律した集団」とは、まったくもって意味合いが違います。手を繋ぐどころか、誰かを蹴落とすばかりです。

 だからこそ、大人の先導が必要になるわけですが、ここが難しいところです。「言い方を考えなさい」とか「小さな声で優しく言いなさい」とか、注意そのものを何とかしようとしてしまうのです。

 先ほど述べたとおり、マウンティング注意の原因は「その子自身が不安である」というところにあります。ことば尻だけを捉えて指導しても、不安は解消されません。だから同じことをくり返してしまいます。

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 その子にとって本当に必要なのは「安心」です。他者のことなんて気にならないくらいに安心できる「べつの場所」です。簡単に言えば、見ている方向を変えてやるということですね。

 なんだか遠回りをしているように見えるかもしれませんが、ここに原因があるのだから仕方ありません。むしろ、このように直接的ではないように見えるからこそ、ミスリードが起こってしまうのです。

 他者にとやかく言う人は、自分が不安。この関係性さえ捉えておけば、アプローチの方法も何かと変わってくるはずです。言ってしまえば、問題行動のほとんどは、その子自身の不安が原因ですからね。大人が首の角度をちょいと変えてやるだけで、その子はみるみる輝きを放つようになるのです。

 

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【土】明るい人に救われる場は数知れず

 

 おはようございます。実家のリビングに居心地の悪さを感じるようになったころから、テレビを観なくなりました。ひとり暮らしをはじめるときにも、一応買いはしましたが、ここ数年でもっともつかっていない家電のひとつだと言えるのではないでしょうか。

 だからといって、テレビ番組が嫌いなわけではありません。最近はネットで観れるようになりましたからね。テレビ東京の「ゴッドタン」と「あちこちオードリー」だけは毎週かかさずに観ています。

 やはり、つくり手と演者の連携がとれていて、やりたいことが一致している番組は、観ていてとてもおもしろいです。なんと言えばよいのでしょう。

 視聴者を騙そうとしていないんですよね。つくったものを「これが素なんですよ」と言いながら見せるのではなく「つくったものですよ」と正直に言いながら見せているような気がするのです。

 「バレないようにしなきゃ」という妙な圧力がないからこそ、演者ものびのびと出演することができるのだと思います。もしかすると、教室という空間にも当てはまるのかもしれませんね。どうも、インクです。

 

明るい人に救われる場は数知れず

 「明るい/暗い」で分けるなら、筆者は間違いなく「暗い」に該当する人間です。声も低いし、ぼそぼそ喋るし、テンションの上がり下がりもありません。

 明るく振る舞おうとすると、嘘をついている自分が嫌になり、どうしてもぎこちなくなってしまいます。「明るい」には向いていない性格なのでしょう。

 だから仕方がない。ずっとそう思っていました。「明るい人はそういう性格なんだ」と思ってきたわけです。何なら「そんなふうに振る舞えてうらやましいな」とすら思っていた時期もありました。

 たしかに「性格」という要素が大きいことも事実でしょう。生まれながらにして明るいんだろうなと思うような人もいます。明石家さんまさんなんてまさにですよね。明るさでできているようなものです。

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 ただそんな明るさも、半分は「相手への思いやり」で成り立っているのではないかと思うようになりました。「暗い」って自分の都合ですからね。

 自分の都合で相手に迷惑をかけてしまいます。「人見知り」ということばともよく似ているのかもしれません。一緒に過ごすことになった相手が、暗くて人見知りだったら嫌ですもんね。こちらが気を遣って、間を埋めるように努めなければならなくなります。

 そういう意味でも、筆者はたくさんの人に迷惑をかけてきたのでしょう。変に気を遣わせてしまったことも、いま思えばたくさんあったのだと思います。

 べつに底抜けに明るくなれと言っているわけではありません。明るすぎたらそれはそれで厄介です。ただやっぱり「暗い」のはよろしくありません。根っから明るくなくても、せめて相手を思いやる上での明るさはもっておかなければならないのでしょう。

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 ここが非常に難しいところなのですが「明るく振る舞う」ということは、決して「無理をする」という意味ではありません。何と言えばよいのでしょう。

 いま思いつくことばの中では「正直になる」が、いちばん近いような気がします。思ったことをそのまま口にすることこそが明るさへの第1歩です。

 ふたりで話している途中に変な間が空いてしまったら「気まずいですね」と言ってしまえばよいのです。食べているごはんが美味しくなければ「イマイチですね」と言ってしまえばよいのです。

 「相手を思いやる」ということは「嘘をつく」ということではありません。「相手が正直になれる場をつくる」ということです。そのためにいちばん手っ取り早いのが「自分が正直になる」ということなのです。

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 多くの人が、そんな「明るい人」に救われた経験があるはずです。「あの人がいてよかった」と思ったことがあるはずです。もちろん「時と場合による」は大前提です。そんなことを言いはじめたら、何だって時と場合によりますからね。調整は大切です。

 そう考えると「人見知りなんですよ」だなんて言っている場合ではありませんね。「わたしはこういう人間なので」と言っている場合でもありません。

 くり返しになりますが、それはあなたの都合であって、相手からすれば知ったこっちゃないのです。思いやりのある正直な明るさで、人と接することができるようになりたいものです。

 

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【金】外的要因による変化を期待すべからず

 

 おはようございます。昔から食べものにおける好き嫌いがありません。ピーマンもナスもグリーンピースも、喉を通れば何でも食べられると思っています。

 そんな中でも唯一、勧められても手に取らない食べものがあります。食べものというよりかは「お菓子」と言った方がわかりやすいですね。噛むだけ噛んでペッと捨てるあのお菓子です。何だかわかりますか。

 そうです。ガムです。ガムだけは本当に意味がわかりません。何ですか、あの食べものは。味だけを感じて吐き捨てるって、都合がよすぎやしませんか。

 口内環境をリフレッシュさせるにしても、ほかの手段があります。「頭の回転をはやくするため」と言っている人ほど、全然はやくありません。

 ガムソムリエかガムコンシェルジュの方がいらっしゃいましたら、ぜひガムの魅力を教えてください。よろしくお願いします。どうも、インクです。

 

外的要因による変化を期待すべからず

 教育業界のトレンドに「GIGA スクール構想」というものがあります。GIGA とは「Gloval and Innovation Gateway for All」の略で「多様な子どもたちを誰ひとり残すことなく、子どもたちひとりひとりに公正に個別最適化され、資質・能力を一層確実に育成できる教育 ICT 環境の実現」を謳っています。

 簡単に言えば「ひとりに1台ずつコンピュータを支給するから、それを使っていろいろと変えていこうぜ」という施作です。正直に思ったことを言うなら、いくらなんでも遅すぎます。一体何年前からおなじようなことが言われつづけてきたでしょう。

 公立学校教育という大きな組織を動かすには時間がかかるということはわかっているつもりですが、そうだとしても遅すぎます。改めて、リスクを背負って動くことが苦手な業界なんだなと思いました。

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 ただ、そんな重たい腰を上げて、動き出そうとしていることは事実です。ようやく「変わらざるをえない」ステージにやってきたというわけです。

 子どもたちに1台ずつ端末が配られるわけですからね。何だか変わりそうでしょう。何かと便利になりそうでしょう。学習がぐんと効率化されそうでしょう。

 この妙な期待感が、ちょっとこわいなとも思います。「自分が何もしなくても勝手に変わる」という空気が漂っているような気がしませんか。集団心理のわるいところが出ているような気がしませんか。

 外的要因によってみるみるうちに変わっていくことを、みんながどこかで期待してしまっています。そう思っているものだから、結局は誰ひとりとして動くことなく時間が流れ、ついには「なんだ、期待してたのに」だなんてことを言いはじめる未来が見えます。

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 べつにこの施作を悲観的に捉えているわけではありません。きっかけとしては充分です。ただ、そのきっかけを活かしきれないのだろうなと思うわけです。

 「きっかけを活かせないバカばっかり」と言いたいわけでもありません。本来、きっかけなんてそんなものです。ひとつのきっかけで数人が動き出せば万々歳です。実際に、今回の施作によって、本当に目の前の世界が変わる人も一定数はいるでしょう。

 そして、そんな人たちが新たなきっかけをつくって、また新たな数人を動かしていくわけです。だから「いちどにガラリ」を期待しても仕方がありません。

 外発的要因に期待するのではなく、外発的要因を「内発的要因を生み出すきっかけ」として捉えられた人から順番に、じわじわと広げていくしかないのです。本当に「いちどにガラリ」を望むのなら、ビートルズかヒトラーを目指すしかないでしょう。

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 ここまでくると、はじめの話に戻ります。現代の教育業界には、きっかけが少なすぎるのです。数を撃てば当たるものを、数発しか撃たないものだから、何にも作用することなく空を切ってしまいます。

 なぜ数発しか撃たないのかというと「絶対に当てなきゃいけない」と思い込んでいるからです。GIGAスクール構想が2020年に行われている理由も結局は同じです。当てなきゃいけないと思うがあまりに、引いた矢をなかなか離すことができないのです。

 チャレンジ精神をもって矢を離したとしても、的を外せばボロカスに叩かれます。最悪の場合、職を失うかもしれません。そんな場所で判断を迫られている人間を責めるわけにもいきません。悪い言い方をしてしまいましたが、GIGAスクール構想を実行するためには大きな決断が必要だったことでしょう。

 失敗を笑って許せる場所になればいいんですけどね。子どもたちには「失敗してもいいんだよ」だなんてことを言うわけですが、本当の意味で他者の失敗に厳しいのは大人の方なのかもしれません。

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