ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】人を責めてもいいことなんてない

 

 おはようございます。今年度から職員室の机の上を更地にしてから帰るようにしています。1枚プリントを置けば無限に積み重なっていきますからね。

 今のところ何とか継続することができているので、そろそろ新しいことをはじめたいと思います。次にはじめようと思うのは「朝に走らない」です。

 勤務地が随分と離れたところになってしまった上に、公共交通機関の本数が限られているので、学校に到着するのがいつもギリギリになってしまいます。

 だからどうしても朝はバタバタしてしまうのですが、ここに余裕をつくりたいと思います。出勤したら荷物を置いて教室に向かうだけが理想的ですね。さっそく今日からスタートです。どうも、インクです。

 

人を責めてもいいことなんてない

 これまでにいくつかの学校を転々としてきたわけですが、職員室には2種類あるということがわかりました。そのちがいは、どこかのクラスでトラブルが起こったときに顕著になります。

 ひとつ目の職員室では、トラブルが起こったクラスの担任が負い目を感じなければならなりません。「自分の管理が行き届いていなかったせいで...すみません...」という具合です。

 一方で、ふたつ目の職員室では、担任が負い目を感じる必要はありません。「Aがまたこんなことしたんですよ!」「おいおい、またか笑」「じゃあ、話を聞いている間はわたしが教室を見ておくね」「よろしくお願いします!」という具合です。

 果たしてどちらの職員室の方が、隠蔽が起こりやすいと思いますか。隠蔽を前提に質問してすみません。こんなもの、聞くまでもありませんよね。当然、ひとつ目の職員室の方が隠蔽の発生率が高くなります。

 そりゃあ、言ったら責められますもんね。嫌な目で見られて、できないやつだと思われて、渋々協力してもらって。そんな環境下で報告・連絡・相談をしようと思うはずがありません。

 それはそれで「どうして報告しなかったんだ!」という話になり、結局はその人が責められることになります。ひたすらに悪循環ですね。

f:id:taishiowawa:20200707001807p:plain

 どうしてこのようなことになってしまうのかというと、何かが起こったときに特定の個人を責めてしまうからです。「あのクラスで起こったことだから、あのクラスの担任が悪い」というふうに。

 ふだんは「チーム学校」だとか「全員で子どもたちを見ていこう」だとか、いろいろと言っているくせに、こういうときだけ切り離そうとするのです。

 もちろん担任は担任で反省することはあるでしょう。そのトラブルをいちばん近くで見ていた大人ですからね。できることはあったのかもしれません。

 しかし、そんなことを今さら言っても仕方がありません。ちがう人間が何十人も集まっているのですから、トラブルが起こるのは当たり前です。担任を責めたって何もいいことがありません。

f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain

 ここで本当に改善しなければならないのは、担任ひとりの指導方法ではありません。学校という組織としてのスタンスです。

 ここまでの内容を読んでいただければ「担任が職員室で苦しむ理由」や「隠蔽が起こる原因」がわかっていただけたかと思います。それと同時に「教員の離職率の高さ」にも納得がいくでしょう。

 まるで業務量の多さばかりが原因であるかのように語られますが、いちばん大きい要素は職員室の空気感だと思っています。もちろん業務量と空気感は隣合わせなんですけどね。

 とにもかくにも、人を責めてもいいことなんてないのです。責められる人が可哀想だとか、そんな話ではありません。単純に損得という観点において何もいいことがないのです。

 失敗って、もっといいものであるはずなんですけどね。みんなが笑って許してあげられたらいいんですけどね。なかなかそうもいかないみたいです。

f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain

 どうして人を責めてしまうんでしょうね。必死に「自分はわるくない」ということをまわりの人にアピールしているのでしょうか。はたまた、自分の思いどおりにならないことによる苛立ちを他者にぶつけているのでしょうか。

 きっと「自分と他者はちがう」ということが前提にないのでしょう。自分にとっては何でもないことに他者が苦戦していると苛立ってしまうのでしょう。「どうしてこんなに簡単なことができないんだ!」とか「みんなやっているのに!」とか。

 要するに「その人自身のこと」をまったく見ていないのです。何が得意で、何が苦手で。どんなふうに他者と接していて、どんな思いで仕事をしているのか。それらをまったく知ろうとしていないのです。だから自分に当てはめて考えるしかないというわけです。

 もちろん、その人自身が自己表現を怠っていたという可能性も考えられます。実は、これもけっこう大きな要素なんですけどね。だからといって、責めてもいいというわけではありません。

 興味の有無に関わらず、お互いに「自分のことを知ってほしい」「相手のことを知りたい」という関係性を築くことができたら、もっと生きやすい世界になるのだろうなと思います。

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

【お知らせ ①】

 週の真ん中の定例会。「こきけんよう」も第3回になりました。次回は8日(水)の20:15スタートです。マイナーチェンジをくり返しながら「気楽さ」と「おもしろさ」を同時に成立させられたらと思っています。40分1本でスパッと終わりますので、折り返しの目印にぜひ遊びに来てください。参加希望はツイッターのDMへ。

f:id:taishiowawa:20200627002826p:plain

 

【お知らせ ②】

 Coming soon ......

f:id:taishiowawa:20200607201115j:plain

 

 

【月】なにかを否定することは簡単

 

 おはようございます。サングラスをよくかけるのですが、最近はもっぱらただの怪しい人です。やっぱりどう考えてもサングラスとマスクの相性はよくないんですよね。帽子をかぶれば銀行強盗の完成です。

 それでもやっぱりサングラスをかけます。なぜならカッコいいからです。かけた自分がカッコいいわけではありません。サングラスそのものがカッコいいのです。たしかにはじめは抵抗がありました。「日本人はサングラスが似合わない」とか「サングラスをかけているやつはイキっている」みたいな変な風潮がありますからね。多少なりとも気恥ずかしさのようなものを感じていたのは事実です。

 ところが、長らくかけているうちにそんなことはどうだってよくなりました。だって、カッコいいんだもの。カッコよく見られるためにかけているわけではありません。UVカットなんて二の次です。

 せっかくボーナスも出たことですし、今季も変なサングラスを1本新調しましょうか。毎年夏になるとサングラスが1本ずつ増えていくというのもアリですね。またさがそうと思います。どうも、インクです。

 

なにかを否定することは簡単

 なにかを否定することはとても簡単です。誰かが言っていることに違和感を感じたら、そのまま声に出せばいいだけです。「おかしいぞ!」と言いさえすれば、まるで自分自身の意見を述べているかのような気になれます。

 国語の授業でも「ふたつのものを比べながら自分の意見を述べる」という学習があります。いちばんベタなところで言うと「紙辞書か電子辞書か」で意見文を書かせるアレです。テーマとしてはつまらないですが、そこは一旦置いておきましょう。

 このような意見文を書くときに、よく「選ばなかった方をひたすら否定する文章」を書く子どもがいます。「紙辞書は重い」とか「電子辞書は書き込めない」とか。比較対象を下げることで、選んだ方をもち上げる。もちろんそれもひとつの手段です。何なら、ちゃんと比較できている時点で第一段階はクリアなのかもしれません。

 しかし、このような意見文はあまりおもしろくありません。あくまでも「自分はどちらを魅力的に思うのか」を述べることが目的ですからね。比較対象のネガティブキャンペーンが目的ではありません。それにも関わらず、どうして子どもたちがこのような否定する文章を書くのかというと、はじめにも述べたとおり、なにかを否定するのはとても簡単だからです。

 仕組みは悪口や陰口とおなじです。だれかを「バカだ」と言うことで「自分はバカじゃない」と主張しているのです。その姿はあまりにも愚かです。だれかを否定しなければ、自分の価値をたしかめることができないというわけです。

 そうなってしまっては、だれも幸せになれません。否定はあくまでもひとつの手段です。否定が中心になってしまってはあまりにもつまらないのです。

f:id:taishiowawa:20200705180511p:plain

 「ようし、それならどんどん肯定しようぜ!」と言いたいところなのですが、実は肯定ってめちゃくちゃ難しいんですよね。人と人は絶対にちがいます。そのちがいに触れようと思ったら、どうしても否定が先に出てくるのです。要するに、なにかを肯定しようと思ったら、いちど否定を乗り越えなければならないということです。

 ここをよく勘違いして、表面的な肯定で満足している人がいます。まるで自分がいい人であるかのような顔をしているので、なかなかにタチが悪いです。

 きっとこの人たちも「否定では幸せになれない」というおなじ思いからスタートしているのでしょうが、否定を無視することが肯定だと思ってしまっています。くり返しになりますが、肯定は否定を乗り越えた先にあるものなのです。

 そういう意味でも、Mー1で名をあげた「ぺこぱ」は、この否定と肯定の関係性を上手に漫才に組み込み脚光を浴びました。ぺこぱの漫才は、ただ肯定しているからおもしろいわけではありません。肯定の前に否定を乗り越えているからおもしろいのです。人々の中には「ツッコミとは否定することだ」という前提がありますからね。この前提がなければ、あれほどの笑いは生まれなかったでしょう。

www.youtube.com

 このように考えると「はじめはとにかく否定してみる」というのもひとつの手なのかもしれません。そもそもの否定ができなければ肯定もできないということになりますからね。「否定を乗り越えた先に肯定がある」ということを自覚した上で、否定することができたらいいですね。そうすればきっと否定自体の質も上がるのではないでしょうか。

 筆者は最近になってようやくこんなふうに考えるようになったので、こうして記事にしているわけですが、ずっと昔から否定を乗り越えた肯定をしてきた人たちがいるはずです。もっとはやくに気がつくべきだったのでしょう。ただ否定しても仕方がありません。ただ肯定しても仕方がありません。否定の先にある肯定を。あの人を殺すより、おもしろいことをしよう。

www.youtube.com

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

【お知らせ ①】

 週の真ん中の定例会。「こきけんよう」も第3回になりました。次回は8日(水)の20:15スタートです。マイナーチェンジをくり返しながら「気楽さ」と「おもしろさ」を同時に成立させられたらと思っています。40分1本でスパッと終わりますので、折り返しの目印にぜひ遊びに来てください。参加希望はツイッターのDMへ。

f:id:taishiowawa:20200627002826p:plain

 

【お知らせ ②】

 Coming soon ......

f:id:taishiowawa:20200607201115j:plain

 

 

【日】「好きなことで生きていけるほど社会は甘くない」を願っている人がいるわけで

 

 おはようございます。週1で映画館に通うようになって数ヶ月が経過したわけですが、未だにハズレくじを引いたことがありません。毎回ちゃんと満足して映画館から出てきています。

 映画を選ぶセンスがあるのでしょうか。はたまた近所の映画館のセレクトがよいのでしょうか。お金と時間を割いている分「満足したぞ」と思い込みたいだけという可能性も考えられますね。

 いずれにせよ、休日の貴重な2時間を割く価値はあるはずだと思っています。きっと来週以降も観に行くことでしょう。監督がどうのとか、オマージュがどうのとか、はやく語れるようになりたいものです。どうも、インクです。

 

「好きなことで生きていけるほど社会は甘くない」を願っている人がいるわけで

 好きなことで、生きていく。このことば、記憶に新しい方も多いのではないでしょうか。そうです。YouTube のキャッチコピーです。

www.youtube.com

 このCMは、もはや懐かしさすら感じますね。公開は2014年だそうです。3人ともまあ若い。6年も経てば人は随分と変わるものです。

  最近で言えば、世間を賑わせたあの手越祐也さんもこのタイトルで動画をあげていましたね。好きなことで、生きていく。YouTube らしい、とてもいいコピーだなと思います。

f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain

  しかしその一方で、この世界には「だれかに好きなことで生きられては困る人」が存在しています。「そんなもの他人の人生なんだからその人の自由じゃないか」と思うかもしれませんが、それでもだれかに好きなように生きられると困ってしまうのです。

 それはどんな人かというと「好きなことで生きていない人たち」です。「生きていくために我慢をしながら嫌々はたらいている人たち」です。

 彼らは、多かれ少なかれどこかのタイミングで「好きなことでは生きていけない」と諦めて、目の前の現実と向き合っています。「社会はそんなに甘くない」と自分に言い聞かせて、本心に折り合いをつけながら日々をすごしているのです。

 そんな人たちからすれば「好きなことで生きている人」に存在されては困るのです。通行禁止だと思って早々に諦めた道です。それが今になって通行可能だなんて言われたって、もう随分と先まで進んでしまったよ!という話なのです。

f:id:taishiowawa:20200704223511p:plain

 決めつけてしまうのはよろしくありませんが、きっとこの人たちは、はじめから試してすらいません。 どこのだれに聞いたのかはわかりませんが「社会はそんなに甘くない」ということばを信じて、心の底から望んだわけではない道を進んでしまってるのです。

 気がつけば5年、10年、15年。続けてきたことが楽しいかと聞かれたら、きっと楽しいと答えるでしょう。 そう思わないとやってられませんからね。ただ、心の底からやりたいと思ったことなのかと聞かれると、きっと多くの人が自信をもって「うん」と言うことができません。

 みんながみんな、どこかで我慢をして、どこかで折り合いをつけて、これが現実なんだと自己暗示をかけて、なんとか生活を送っているのです。上からものを言っているように聞こえたかもしれませんが、筆者もその中のひとりです。

f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain

 別に今の仕事が嫌いなわけではありません。まだまだ未熟ですが、手を抜いているつもりも一切ありません。今の自分にできることを精いっぱいやっているつもりです。しかし、この仕事を一生つづけるかと言われると、すぐに「いいえ」と答えます。

 自分の「わがまま」に忠実になろうと思ったら、さすがに組織が大きすぎます。時間をかけてたどりつく先もなんとなく想像できてしまいます。なんども言いますが、決して今の仕事をわるく言うつもりはありません。たしかに大変ですが、とてもおもしろい仕事だと思っています。

 それでもやっぱり、やりたいことが山のようにあるのです。この先はもう自分で決めるしかありません。実を言うと、大人たちにはすでに相談しています。大失敗してもかまわないから、いちどレールから外れてみようと思います。きっと何とかなるでしょう。

 何とかなってもならなくても、またこうして書くことができたらと思っていますので、すっころんでいたらぜひ笑ってください。よろしくお願いします。

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

【お知らせ ①】

 週の真ん中の定例会。「こきけんよう」も第3回になりました。次回は8日(水)の20:15スタートです。マイナーチェンジをくり返しながら「気楽さ」と「おもしろさ」を同時に成立させられたらと思っています。40分1本でスパッと終わりますので、折り返しの目印にぜひ遊びに来てください。参加希望はツイッターのDMへ。

f:id:taishiowawa:20200627002826p:plain

 

 【お知らせ ②】

 Coming soon ......

f:id:taishiowawa:20200607201115j:plain

 

 

【土】もしかすると説明的文章よりも文学的文章の方が具体的なのかもしれない

 

 おはようございます。ずっと思っているのですが、どうして「おなら」って恥ずかしいものとして存在しているのでしょう。やはりあの音が原因なのでしょうか。それとも、独特のにおいでしょうか。

 絶対にだれもがしたことがあるはずなのです。それでもやっぱり恥ずかしいのです。「屁」という名前にも原因はありそうですよね。「屁をこく」ってちょっとおもしろいですもんね。

 「こく」って一体なんなのでしょう。社会の教科書に出てくる「千歯こき」の「こき」と同じでしょうか。そういえば、方言なのかもしれませんが「嘘こけ!」って言いますよね。この「こく」は「屁をこく」の「こく」と同じなのでしょうか。

 「いい歳こいて」という言い回しもありますね。「こく」って案外たくさんあるものです。どこまでが同じ「こく」なのでしょう。「こく」に詳しい人がいたら、ぜひ教えてください。どうも、インクです。

 

【キーワードの答え:メタファー】

 

もしかすると説明的文章よりも文学的文章の方が具体的なのかもしれない

 説明文や論説文、評論文などをまとめて「説明的文章」と呼びます。一方で、物語文や随筆文、詩歌などをまとめて「文学的文章」と呼びます。

 あらゆる文章は基本的にこのふたつのどちらかに分けられます。もちろん、限りなく説明的文章に近い文学的文章もありますし、文学的文章に近い説明的文章もあります。何せ「的」ですからね。

 一般的には、説明的文章は具体的で、文学的文章は抽象的だと思われています。先ほど紹介したとおり、これらのふたつもさらに細分化されるので「その文章の内容次第だろ」と言われたらそこまでなのですが、まあそこらへんは大目に見てください。

 文学的文章の方が解釈が広がるようなイメージはありますよね。反対に、説明的文章は読者による解釈の幅をなるべく狭めることを目的にしているようにも思えます。できるだけ正確に情報を伝えようとするのが「説明」ですからね。 

f:id:taishiowawa:20200703213803p:plain

 ところが最近になって、もしかすると説明的文章よりも文学的文章の方が具体的なのかもしれないと思うようになりました。

 そもそも「ことば」というものは「見立て」です。木にぶらさがっているリンゴに、はじめから「リンゴ」という名前がついていたわけではありません。人間がそのモノを見て勝手に「リンゴ」と呼んでいるだけです。要するに、事物とことばとの関係性は一方通行であり、常に一定の距離があるのです。

 文章はそんな「ことば」によって綴られているわけですから、広い意味ではメタファーに含まれるのかもしれません。寓話とまではいかずとも、字面から離れたところにこそ真意があるのではないでしょうか。

f:id:taishiowawa:20200703213821p:plain

 説明的文章は一般的に、抽象概念を表現するために具体例を示します。もちろん説明文の中には、具体物をそのまま具体的に表現しているものもありますけどね。細かいことは置いておきましょう。

 それに対して文学的文章は、最初から最後まで、すべてが「理想的な具体例」なのではないかと思ったのです。理想的な枠組みの中で、理想的な登場人物が、理想的な言動をする。作者の手によってすべてが具体化されていきます。

 もちろん、すべてを思いのままに表現しきることのできる書き手なんていないでしょう。ただ、その文章には具体化された「作者の理想」が詰まっているはずなのです。

 ここで言う「理想」とは、作者自身が「こんな人になって、こんなできごとが起こってほしい」と願っているという意味ではありません。「表現したい世界」という意味での「理想」です。

f:id:taishiowawa:20200703213843p:plain

 事実に基づいているから具体的で、事実に基づいていないから抽象的になるわけではないということです。そう考えると、文学的文章って本当におもしろいですね。書き手の思いがより忠実に表れやすい形態だと言えるのかもしれません。

 子どもたちが、説明的文章よりも文学的文章を好むのは、より具体的でわかりやすいからだと考えることもできます。

 筆者も、誰もが思ったことがあるように「文学的文章を書いてみたい」と思ったことがあるわけですが、プロの作家の作品を読めば読むほど「自分には書けないな」と思ってしまうんですよね。

 だからこうしていつまでも、抽象的で、どうとでもとれるような文章を書きつづけているというわけです。生きているうちに1本くらいは、自分が読みたいと思えるような物語を書き上げてみたいものですね。

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

 【お知らせ】

 Coming soon ......

f:id:taishiowawa:20200607201115j:plain

 

 

【金】当たり前を疑う前になぜそれが当たり前として成立しているのかを考えよう

 

 おはようございます。電車から降りたときに、進む方向を間違えることってありますよね。改札へ続く階段は左なのに、右に向かって進んでしまうアレです。

 こういうときは大抵、隣の扉から降りてきた人たちとぶつかります。だって階段は左にあるんだもの。そりゃあ右に進もうとしたらぶつかって当然です。

 ときには進んだ先がホームの端っこだったり。絶対にそっちではありません。そんなときには、何でもないような顔をしながらUターンをするわけです。

 降りた人とぶつからなくとも、電車の中にいる人たちには見られています。べつにほかの人からすれば何でもないようなことなのでしょうが、当人としてはめちゃくちゃ恥ずかしいわけです。

 何でもないような顔をしているのも恥ずかしいし、だからといって「あっ、間違えた!」という感じを全面に出すのも恥ずかしいのです。

 さっきも言ったように、ほかの人からすればどうだっていいんですけどね。人の自意識はとてもおもしろいなと思いました。どうも、インクです。

 

当たり前を疑う前になぜそれが当たり前として成立しているのかを考えよう

 当たり前を疑え。よく耳にすることばです。ことばでは簡単に言うことができますが、実際に疑おうと思ったらそんなに簡単ではありません。

 当たり前というのは、言わば「考えることをやめた」ということですからね。これ以上考える必要がないからと「無意識」に放り込んだもの。それが「当たり前」なのです。

 そんな無意識を意識下に戻して、もういちど考え直すわけですから、そりゃあ難しいでしょう。生活の中で、突起は限りなく削りとられています。そんなところから引っ掛かりをみつけなければなりません。

f:id:taishiowawa:20200702211636p:plain

 仮に、引っ掛かりをみつけて「これはおかしい!」ということに気がついたとしましょう。一生懸命にさがした結果なので、きっと嬉しくなるはずです。

 しかし、どれだけ「これはおかしい!」と叫んだところで誰もふり向いてはくれません。なぜならほかの人たちは当たり前の中で生きているからです。あの太陽が偽物だということにだれも気がつかないのです。

 するとどうなるのかというと「どうして気づかないんだ!」と他者に対して憤りを感じるようになったり「自分だけは気がついている!」という優越感のようなものを抱いたりするようになります。

 そして、自己流のやり方でものごとを進め、わかりやすく失敗するのです。もちろんそれもまたひとつの経験として蓄えればいいのですが、少なくとも「どうしてうまくいかなかったのか」は分析しなければなりません。

f:id:taishiowawa:20200301074752p:plain

 当たり前を疑った人間がよく陥ってしまうのが、先ほどの「憤り」や「優越感」だけを武器にして突き進んでしまうというパターンです。

 簡単に言えば、当たり前の中に生きている人たちをバカにしてしまうのです。「あの太陽は見るからに偽物なのに気づかないなんておかしい」という具合に。

 もしかすると、その太陽は本当に偽物なのかもしれません。言っていることは正しいのかもしれません。だからこそ憤りを感じるのでしょう。

 しかし、すべての人にとって「正しさ」が最優先事項だとは限らないのです。理屈が通っていれば納得してくれるというわけではないということです。

f:id:taishiowawa:20200702211924p:plain

 当たり前を疑う前に「どうしてそれが当たり前として成立しているのか」を考えなければなりません。偽物の太陽が当たり前として成立している限り、そこには必ず理由があるのです。

 当たり前を疑う人は、この過程をよくすっとばしてしまいます。おかしいところだけを指摘して、どうしてそれが成立してきたのかを考えようとしません。

 長く続いているものにはそれだけの理由があります。「意味がわからない」と言って切り捨てるのは簡単ですが、その経緯に敬意が払えない人間が何かを変えられるはずがないのです。

taishiowawa.hatenablog.com

taishiowawa.hatenablog.com

 

 【お知らせ】

 Coming soon ......

f:id:taishiowawa:20200607201115j:plain