ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】うちのクラスの体育は怒ったら退場

 

 おはようございます。前にも書いたかもしれませんが、最近座ったまま寝てしまうことがよくあります。22時ごろからの記憶がなくなり、気がつけば夜中の3時です。なんの授業準備もできていません。お風呂にも入っていません。身体はバキバキです。お風呂に入って、準備をして、布団に入り直すにはあまりにも微妙な時間です。だからといって、ここで寝ておかなければ、夕方の職員会議でウトウトする可能性が高まります。こんなときの正しい選択が未だに分かりません。どうすればよいのでしょうか。「いや、はじめから布団に入って寝ろよ」だなんて言わないでくださいね。コミュニケーションにおいては、正論がいつだって最適解だとは限りません。どうも、インクです。

 

うちのクラスの体育は怒ったら退場

 子ども間のトラブルが起こりやすい教科第1位は間違いなく「体育」です。特に、チームに分かれて行うサッカーやバスケやバレーといった類の球技は、トラブルがよく起こります。そんなトラブルの原因は大きくふたつに分けられます。ひとつ目は「ルール違反」、ふたつ目は「チーム内格差」です。逆に言えば、教師が先手を打ってこのふたつさえ抑えておけば、平和な体育ができあがるというわけです。それではひとつずつ考えていきましょう。

 

1.ルール違反

 まず、大前提として、子どもたちはルールを守ろうとするものとします。もし、意図的にルールを破ろうとする子どもがいるのなら、それは「体育」以前の問題になってきますので、今日の記事では「守ろうとする」を前提として話を進めさせてください。

 その上で、トラブルが起こるのはどんなときかと言うと、「ルールを理解しきれていなかった子ども」や「ルールを間違えてしまった子ども」への過剰な反応が起こったときです。わざとルールを違反したわけではないのに、まるで悪者であるかのように攻撃されてしまうのです。そりゃあ当人は「そんなに言わなくてもいいじゃないか!」と思います。そこから揉めごとへと発展していくのです。

 他にも、そもそも違反したのかしていないのかで揉めることもよくあります。「今のライン出てたよ!」「いや、出てなかったよ!」「いや、絶対に出てた!」というやつです。基本的にはいくつかのコートで試合を同時進行するので、各コートに審判を配置することは不可能です。だから、子どもたちは、自分たちで判断しなければならなくなります。これがまた、なかなか難しいんですよね。本気になって、熱くなるほど、このパターンのトラブルは発生するようになります。

 

2.チーム内格差

 これは、おそらくほとんどの人が経験したことのある問題なのではないでしょうか。まさに「熱量の違い」から生まれるトラブルです。「上手なヤツが出しゃばるパターン」「下手なヤツが意固地になるパターン」の2種類があります。両者の熱量の差が大きくなればなるほど、怒りのボルテージは上がっていきます。

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 まず、大抵の場合は上手なヤツが出しゃばるところから始まります。調子に乗って自分だけがボールを触ろうと動くのです。そんな気持ちが強いものだから、思い通りにいかなかったら人のせいにしはじめます。「アイツが下手だから、オレが活躍できないんだ」と、こういうわけです。とてもタチが悪いですね。

 当然、まわりの子どもたちは、その子と同じチームであることが嫌になっていきます。いつも自分のことしか考えていない。ミスをしたら責められる。終わったあともずっと機嫌が悪い。するとどうなるかというと、「もういいわ」「勝手にやってくれ」と思い始めるのです。要するに、「やる気を出さない」という抵抗を始めるのです。

 これで熱量格差の完成です。「自分のことばかり考えているアイツとはやりたくない」「やる気がないアイツとはやりたくない」、こうしてトラブルは大きくなっていくのです。こんな「体育」がおもしろいはずがありません。おもしろくもない「体育」が学びになるはずがありません。

 

3.手立て

 はじめに書いたように、このふたつを防止するためには、先手を打つことがとても重要になります。始まってからだと、子どもたちの熱量が高まっていて、半ば強引に抑え込むしかなくなってしまうからです。 

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 先ほども貼り付けたこの記事にも書いたとおり、熱量の違いは打ち合わせ不足から発生します。打ち合わせが不足したまま試合を始めてしまうから、トラブルに繋がっていきます。だからこそ、球技が行われている期間中は、頻繁に教室で作戦会議を行います。1回目の作戦会議は教師主導で行います。ざっくりとした内容は以下の通りです。

 君たちは、今回の体育のサッカーで、ワールドカップを目指しているわけではない。今回の体育で勝つために血の滲むような努力を重ねてきたわけでもない。そんな体育で、ぷんすか怒りはじめる人が出てくると絶対におもしろくなくなる。だから、どんな理由であれ怒りはじめた人は退場ね。

 これを、初回の運動場に出る前に伝えます。反論の余地を残していないので、全員が頷いて、運動場へ出発します。もちろん初回ですので、ルールの食い違いや、こういうときはどうしたらいいんだろう?という疑問が多く出てきます。それを逐一、作戦会議で解消していくのです。この形が定着すると「どうせ後で話し合えばいいから、とりあえず今はじゃんけんで決めようか」と考えるようになります。なにせ、その場で怒ってしまうと退場させられてしまいますからね。

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 すると、当然トラブルは減っていきます。トラブルが減ると「体育」はおもしろくなっていきます。おもしろくなっていくと、技能を身につけるためのチャンスが増え、体育的な観点での思考に力を入れるようになっていきます。すべてのねらいはここにあります。退場させることが目的でも、トラブルを減らすことが目的でもありません。体育を通して身につけるべきことに、全力で向かわせるための手立てです。必要のない障壁は、教師が先手を打つことで取り除くことができるのです。むしろ、それこそが教師の仕事だと言うこともできるのではないでしょうか。

 2回目以降の作戦会議では、「おもしろくないことがあった人は、どうすればおもしろくなると思う?」と問いかけます。不満を「文句」ではなく「提案」として吐き出させます。すると「守備ばかりやらされておもしろくなさそうにしていた人がいたから、攻撃と交代する時間を決めればいいと思う」というような意見が出てきます。しかし、大抵その対象になっているような子どもは「下手なヤツ」であることが多いです。「自分が攻撃に参加して、ミスをしたら責められる」と思っています。そして、実際に責められてしまうことも往々にしてあり得ます。しかし、このままでは、一部の人は楽しいかもしれないけれど、その子は楽しくないままだ。と、こういう考えになっていくわけです。

 ちなみにうちのクラスでは「オールどんまい」がキーワードになりました。失敗してもオールどんまい。むしろ他の人の失敗を責めたヤツが責められる。そんな空気ができあがっていきました。これをもし、教師が主導になって「失敗した人にもプラスの声かけができたらいいね」だなんて言っても、効果はほとんどありません。そうするべき必然性を、子どもたちが体験を通して実感していないからです。しかし、子どもたちの思考の流れにこれらを組み込むことができたら「前回の作戦会議を活かして失敗した人にもプラスの声かけをしてみたら、みんなが楽しめるようになった」という因果関係を得られるのです。自分たちで思考して出した結果は、人に言われて出した結果とはわけが違います。こうして「みんながおもしろい体育」ができあがっていくのです。

 

 

 さらにおもしろいことに「みんながおもしろい体育」が成立すると、怪我がなくなります。体育をしていると、足に引っかかって転んだり、振り向き際にぶつかったりと、ある程度仕方のない怪我も起こるのですが、そんな怪我でさえなくなります。全員の熱量のバランスが整うと、怪我の発生件数も自ずと減っていくのです。

 これまた偉そうに語ってしまいましたが、筆者は体育を専門にしているわけではありません。勘の鋭い方はもうお気づきかもしれませんが、なんなら「体育」はただのメタファーでしかありません。ひとつの比喩です。寓話です。本当に「体育」のことが知りたいのなら、きっともっといい方法がたくさんあると思います。ただ、間違いなく言えることは、教師が先手を打つことで防ぐことのできるトラブルがあるということです。あらゆる教科において、子どもの思考の流れに沿った必然性をつくっていけるといいですね。

  

 

 

【土】Beatlesの凄さと戦争の恐ろしさは似ている

 

 おはようございます。たとえ自分が注文したものだったとしても、荷物が届くって嬉しいですよね。「その時間帯は家にいなければならない」だとか「コンビニに出かけた隙に不在連絡票が入っていた」だとか、文句を言われることが多い宅配便ですが、結局はそれらも含めて「荷物を待つ」という行為は幸せなことなのだと思います。

 届くかどうかも分からない荷物を待つのは「かなしい気持ち」かもしれませんが、届くと分かっている荷物を待つのは「しあわせな気持ち」なのです。たとえ、配達員が「かたつむりくん」だったとしてもです。どうも、インクです。

 

Beatlesの凄さと戦争の恐ろしさは似ている

 昨日まで、世界中の誰もが知っていたビートルズ

今日僕以外の誰も知らないー。

というコピーがつけられている映画『イエスタデイ』を先日鑑賞してきました。ビートルズのメンバーのドキュメンタリーではなく、ビートルズの曲を存分に使用したオリジナルストーリーでした。エド・シーランが本人役で出演したことも話題になっていましたね。ビートルズに関する知識の浅深に関わらず、誰にとっても分かりやすい映画だったと思います。

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映画『イエスタデイ』公式サイト

 そんなビートルズですが、映画のコピーにもある通り、世界中の誰もが知っていることが前提になるほど、とんでもないバンドです。シンプルなコード進行にキャッチーなメロディ。ビートルズの曲を一度も聴いたことがないという人は、まったくと言ってもいいほどいないでしょう。

 私たちはそんなビートルズの「凄さ」を知っています。曲を聴いたら分かる「凄さ」ももちろんですが、「ファンが気絶した」「来日の際は厳戒態勢が敷かれた」などのエピソードからもその「凄さ」を知っています。

 しかし、当然「若者」と呼ばれる世代の人々は、「体験」としてビートルズを知りません。なんせ50年前に解散したバンドですからね。 彼らの残した「作品」と語り継がれる「エピソード」からしか、その「凄さ」を判断することができないのです。

 この感覚は「戦争」とよく似ています。戦争も、「体験」としては知りません。子どもの頃から、とにかく「戦争は恐ろしいものなんだ」と教え込まれてきたから、まるで知っているような気になっているだけです。ほんとうの恐ろしさは、やはり実際に体験した人にしか分からないものなのです。

 ビートルズもきっと凄かったのでしょう。「凄かった」ということばでは収まりきらないくらい凄かったのだと思います。ただ、どれだけ熱く語られようとも、若者はビートルズを知りません。どれだけ曲を聴いて、その曲に惹かれようとも、もう知ることはできないのです。

 この映画を観終わったあと、そんなことを思いました。「知識」として知っていることと、「体験」として知っていることは、やはり違います。天と地ほど違います。私たちは、しばしばこの「知っている」を混同させてしまいます。人間は賢いからこそ、簡単に「知ったつもり」になってしまうのです。

 そう考えると、人生において、本当の意味で「知る」ことができるものは案外限られているのかもしれません。今という同じ時代に存在するものしか「体験」として知ることはできませんからね。「人生は移動距離で決まる」だなんてことばを聞いたことがありますが、やはり自らの足で「体験」を集めることが大切なのかもしれません。

 座っているだけでは見逃してしまう、今に散らばる「小さなビートルズ」を可能な限り集めていきたいものです。お金は「体験」に換えていこう。そんなことを思った映画でした。まだ公開している映画館もあるみたいなので、気になった方はぜひ足を運んでみてください。

 

 

  もっとも古いビートルズの記憶は『All You Need Is Love』です。車の中でかかっていたことを今でもはっきりと覚えています。当時は「ビートルズ」なんて知らずに、この曲を聴いていました。やっぱり耳にこびりつくんですよね。特に、歌詞の「All You Need Is Love」の後に続く「テッテテレレー」の部分(こんなので伝わるのか?)がとても好きでした。

 その後、ちゃんと「The Beatles」を認識した上で曲を聴くようになったのは、ロックにハマった中学生のころでした。それでもおそらく「にわか」の域を超えてはいませんが、いろんな音楽を聴くようになったからこそ、改めて「ビートルズって凄いんだな」と思った記憶があります。

 今でも時々聴きたくなることはありますが、昔ほどの熱量をもって音楽に向き合うことはできなくなってしまいました。しかし、考え方によっては、それでも聴き続けている曲は、それだけ自分にとって大切なものだったということなのでしょう。

 先ほど紹介した『All You Need Is Love』に加えて、お気に入りの曲をもう2曲紹介して終わろうと思います。選曲からにわか加減が溢れてしまいますが、何度も言う通り、筆者はにわかです。くれぐれもその点、ご了承ください。

 

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【金】その人だからこそ言えたことばが知らぬ間に他の人に伝わっていると悲しい

 

 おはようございます。声に出して読みたくなることばってありますよね。「墾田永年私財法」なんて長くて難しいことばなのに、誰もがあっという間に覚えてしまいます。「東海道中膝栗毛」なんてもう最高ですね。「膝栗毛」って。

 「リオネル・メッシ」とかもいいですよね。「クリスティアーノ・ロナウド」もなかなかイケてます。「ジャッキー・チェン」や「ブルース・リー」なんてのも逸材です。外国人であれ、声に出したくなるようなリズムをもっていれば、すぐに覚えられるというわけです。自分のハンドルネームも、もっと言いたくなるような名前にすればよかったかもしれないなあ。どうも、インクです。

 

その人だからこそ言えたことばが知らぬ間に他の人に伝わっていると悲しい

  「相手にとったら、自分は『数多くの友だちのひとり』でしかない」と思って、なんだか勝手に悲しくなってしまうことはありませんか。友だちが多い人と一緒にいると、いつもこんな風に思います。しかし、だからと言って、友だちが少ない人といると、それはそれで疑り深くなってしまいます。「友だちがいない」だなんて言っておきながら、「どうせ本当はいるんでしょ」と思ってしまうのです。

 もちろん、誰とどんな付き合いをするかなんて、その人の自由ですから、こちらがとやかく言うことはできません。ただ、その人の後ろにいる人たちのことを想像すると、どうしても一歩引いてしまうのです。

 特に話の内容は慎重になってしまいます。その人だからこそ言えたことばが、知らぬ間に他の人へと伝わっていることがあるからです。別に「秘密にしておいてね」と頼んだわけでもないので、誰に話すのもその人の自由なのかもしれません。しかし、他の人に伝わっていたことを知ると、「あなただからこそこの話ができたのにな」と思ってしまうのです。

  だからといって、他の人にも伝わることを前提として話をするとなると、内容がかなり限定されてしまいます。信用できない人なんて世の中にたくさんいますからね。たとえその人のことを信用できたとしても、その後ろに繋がっている人たちのことまで信用できるとは限らないのです。

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 子どもの頃からずっとこんなことを思っていました。自分のいないところで、自分の話をされるのが大嫌いでした。だからこそ、誰にも「自分の話」をしなくなっていきました。徹底的に壁を作り上げていったのです。

 簡単に言えば、自意識過剰だったのでしょう。誰も自分のことなんて気にしちゃいません。でも、それを踏まえた上で、やはり「自分」という素材をオープンにすることはできなかったのです。

 だから、大人たちからは「自分を出せ」だの「殻を破れ」だのとよく言われてきました。その度に「うるせえよ」と思い続けてきました。閉ざしているくせに、そんな強さはもっていました。「自分を出せ」ということばは「今のお前はだめだ」という人格否定ですからね。今でも大嫌いなことばです。絶対に他の人に向かってこのことばをつかうことはありません。

 そんな思春期に溜め込んだ自意識が、今の自分をつくっています。このブログの記事にも存分に表れている「ひねくれ」はこのころにできあがったものたちです。そんな自意識は、「生きづらさ」の原因になっていましたが、今となってはいい素材です。

 今こうして少しずつオープンに表現していくときに、他の人とは少し違うものが出てくるからです。他の人が持ち合わせていない、気持ちの悪いドロドロしたものを、表現に混ぜ込んでいくことができます。過去の苦しみが、今では武器になるということです。過去を全肯定することはできませんが、うまく扱いながら、ひとつの材料にしていけたらいいなと思っています。

 

 

 このような、精神的な部分のお話はもっと思うところがあるし、もっと言いたいことがあります。なんなら今日の記事で変に書こうとしてしまったせいで、中途半端になってしまったような気もします。また、休みの日にでも、時間をかけてゆっくり書きたいと思います。だから、今日の記事はあまり真に受けないでくださいね。

 

 

 

【木】習った漢字をすべて使えばその分読みやすくなるわけではない

 

 お早う御座います。昨日は無事、研究授業を終えました。矢張り、研究授業は攻めるからこそ面白いですね。放課後の研修会では、様々な御助言を頂きましたが、先生に依って見ている観点が違うのでとても面白かったです。子供達の姿や授業の組み立てだけでなく、教師としての自分を見て戴けるので本当に有り難かったなと思います。今日から早速、役立てて行きたいと思います。どうも、インクです。

 

習った漢字をすべて使えばその分読みやすくなるわけではない

  子どものころ、先生に「習った漢字は必ず使いなさい」と言われて育ちました。習った漢字をひらがなで書いていると、赤で訂正されることもありました。同じような経験のある方も多いのではないでしょうか。そんなときに、ずっと疑問に思っていたことがありました。

 

本の中では簡単な字もひらがなで書いている

 

 本を読んでいると度々出会うわけです。「この字は漢字で書けるのにな」ということばに。先生が言っていたこととは違います。どうしてこんなに簡単な字をひらがなで書いているのだろう。作者が漢字を忘れてしまったのでしょうか。

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 この謎が解明したのは、大人になってからでした。たとえば、筆者の大好きな村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』という作品を見てみましょう。

「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何もしてあげられなくなってしまう。永遠にくなってしまうんだよ。そうすると、あんたはこっちの世界の中でしか生きてけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしてくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もい。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」

 僕は目を上げて、また壁の上の影をしばらく見つめた。

「でも踊るしかいんだよ」と羊男は続けた。「それでもびっり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」 

村上春樹(2004)『ダンス・ダンス・ダンス 上』講談社、 P.182-183

 好きすぎて、引用が長くなってしまいましたね。ざっと、漢字で表現しようと思えばできるであろう字を大きくしてみました。意外とたくさんあるものです。「考えだしたら」の「出す」なんてとても簡単な字ですね。小学1年生で習います。それでもひらがなで表現されています。どうしてなのでしょうか。

 もうお気づきかと思いますが、その理由は、今日の記事のいちばんはじめに書いています。今日の記事の「はじめに」は、漢字で表せるところはすべて漢字で書いてみました。どうでしょうか。とても読みづらくはありませんでしたか。いちいちスクロールするのもめんどくさいと思いますので、もう一度書きますね。

 お早う御座います。昨日は無事、研究授業を終えました。矢張り、研究授業は攻めるからこそ面白いですね。放課後の研修会では、様々な御助言を頂きましたが、先生に依って見ている観点が違うのでとても面白かったです。子供達の姿や授業の組み立てだけでなく、教師としての自分を見て戴けるので本当に有り難かったなと思います。今日から早速、役立てて行きたいと思います。どうも、インクです。

 「お早う御座います」や「矢張り」などといったことばは、やはりひらがなで書かれていた方がしっくりきますよね。たとえ漢字で書けたとしても、わざわざ漢字を使わない言い回しもたくさんあるというわけです。ちなみに、いつも通り書くとしたら、こんな感じになると思います。

 おはようございます。昨日は無事、研究授業を終えました。やはり、研究授業は攻めるからこそおもしろいですね。放課後の研修会では、様々なご助言をいただきましたが、先生によって見ている観点が違うのでとてもおもしろかったです。子どもたちの姿や授業の組み立てだけでなく、教師としての自分を見ていただけるので本当にありがたかったなと思います。今日からさっそく、役立てていきたいと思います。どうも、インクです。

 どうでしょう。まったく同じことが書かれているはずなのに、読みやすさは大きく異なるのではないでしょうか。つまり、漢字をつかえば、それだけ読みやすくなるとは限らないということです。だからといって、すべてひらがなにしてしまうと、それはそれでとてもよみづらいぶんしょうになってしまいます。結局は漢字とひらがなのバランスが大切だということです。

 もしかすると、人によっては「おもしろい」や「さっそく」はひらがなで書くよりも漢字の方がいいという方もいらっしゃるかもしれません。はたまた、「本当に」はひらがなの方がいいという方もいらっしゃるかもしれません。結局そこを選ぶのは書き手です。出版する際には、きっと編集者もここに絡んでくるのでしょう。読者のことを思い、読みやすさを追求する中で、漢字なのかひらがななのかが選択されていくのです。

 もちろん筆者も、記事を書くときにはこれを意識しながら書いています。読み返したときに、漢字をひらがなに書き換えるのはよくあることです。そんな中、以前フォロワーさんとのやりとりでこんなものがありました。

  筆者にとっての、ひらがな表記は、このツイートで言うところの「マーキング」でもあるような気がしてます。完全に個人的な好みなのですが、このことばは必ずひらがなで表記しようと決めているものがいくつかあります。たとえば、まさに今つかった「ことば」ということばは、個人的にはひらがなで書きたい派です。他にも「つかう」ということばも、できるだけひらがなで書きたいと思っています。

 「漢字」という表現は、意味を限定する書き方だと思っています。漢字には一文字一文字に意味がありますからね。「言葉」という漢字も決して嫌いなわけではないのですが、意味を限定してしまうにはあまりにも大きなことばのような気がするので、「ことば」はひらがなの方がしっくりきます。

 「つかう」ということばも、漢字で「使う」と表現すると、どこか物質性が表れてくるような気がしています。「モノを使う」「道具を使う」というイメージです。つかうものが物質とは限らない場合も多いので、基本はひらがなで表記したいと思っています。

 そんなよく分からない個人的なこだわりが、筆者にとってのマーキングの一種になります。要するに、世の中に存在する数多くの文章の中でも、「ことば」や「つかう」がひらがなで書かれていたら、それは「インク」が書いた文章である可能性が高いということです。もちろん、それだけで特定することは不可能でしょう。判断する要素は、漢字かひらがなかだけではありません。

 ただ、筆者が書いている文章は、普段から読んでくださっている方なら、きっと無記名でも分かっていただけるのではないかと思っています。

  漢字だけでなく、「句読点」や「段落」も含めた表記上の特徴も合わせて、「その人だからこそ書ける文章」ができあがっていくのだと思います。だからこそ、「句読点」や「段落」の指導って難しいんですよね。正解がない。言ってしまえば、結局はその人の好みでしかないのです。数多くの文章に触れる中で、「読みやすさ」「読みづらさ」を感じ、自分の文章に取り込んでいくしかありません。

 度々述べていますが、そのときは、読みやすかったものをマネることよりも、読みづらかったものをマネない方が簡単だと思っています。他の人の文章を読んで「読みづらいなあ」と思うことって、案外とても大事です。読みづらい文章から学ぶことはとても多いです。こう書いたら読みづらいのか。じゃあ、自分はこう書かないようにしよう。このような消去法で、自分の文章は形作られていくのです。

 

 

 少し話が広がりすぎた気もしますが、そもそもは「漢字」と「ひらがな」の使い分けというお話でした。みなさんも「このことばは漢字で書きたい」「このことばはひらがなで書きたい」という自分のこだわりをもっていますか。

 先ほど述べたように、この選択は「読みやすさ」を追求するためのものなので、必ずしも「習った漢字はすべてつかう」が正解ではありません。学校の先生の中で「習った漢字はすべてつかう」をさせたいのであれば、せめて子どもたちに今日の記事に書いたようなことを説明してあげてほしいと思います。

 習った漢字をすべてつかうのは、漢字を覚えるためであって、文章を読みやすくするためではありません。文章の読みやすさを追求するのなら、あえてひらがなで書くという選択肢もあります。くれぐれも、漢字で書けるものを漢字で書いていないからといって「その文章は間違いだ」と判断してしまわないように注意したいものです。

 

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【水】辞書に書かれていることばの意味は「通説」であり「答え」ではない

 

 おはようございます。今日は研究授業です。やっぱり、時間をかけて準備した授業はいいですね。わくわくします。これが、先生の本来の仕事だよなあと改めて思います。じっくり授業について考えられるのが、どうして研究授業のときだけなんだ?授業がしたくて先生になったんだけどなあ。どうも、インクです。

 

辞書に書かれていることばの意味は「通説」であり「答え」ではない

 そもそも論を問いたくて、よく子どもたちに「〇〇って何?」という質問をします。「友達って何?」「 命って何?」「勉強って何?」という具合です。身近なものほど「〇〇って何?」を考える機会がありません。だからこそ、子どもたちは一生懸命悩んでくれます。その過程で生まれる話し合いに、とても価値があると思っています。

 そんなときに、子どもたちはよく辞書を引こうとします。「友達って何?」と聞かれたら「友達」と辞書を引こうとするのです。すると当然「友達」ということばの意味が出てきます。

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 辞書ともなれば、余程のことがない限り「間違ったこと」は書かれていません。志を共にして、同等の相手として交わっている人。確かに間違ってはいませんね。では、この「友達」はどうでしょう。

 

おい、金貸してくれよ。俺たち友達だろ。

  上記の定義でいくのなら、これは「友達」ではありません。とても同等の相手だとは言えないでしょう。「困ったときは助け合う」という友達の性質を悪用した分かりやすい例です。「友達」と聞くと、いいことばのように聞こえますが、このような使われ方をすることもあるというわけです。

 

愛と勇気だけが友達さ

  この「友達」はどうでしょう。発言者と「愛」は、志を共にした仲間なのでしょうか。発言者と「勇気」は、同等の相手として交わる人なのでしょうか。なかなか「うん」とは頷ききれませんよね。つまり、ここで使われている「友達」は限りなく比喩に近いということになります。愛と勇気は友達(のようなもの)だ、というわけです。

 

ボールはともだち こわくないよ

 この「ともだち」も、比喩なのでしょうか。かなり微妙なところですよね。作者のメッセージとしては、「こわくない」の方に重きがあるはずなので、「ともだち」は比喩だと捉えるのが妥当なのでしょう。

 でも、キャプテンの目を見ると、本気で「ともだち」だと思ってそうですもんね。仮に、この「ともだち」を認めてしまうと、それこそ定義は崩れてしまいます。なにせ、「ともだち」を思い切り蹴っていることになりますからね。改めて「ともだち」って何なのでしょう。

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 上記の三つの例で何が言いたかったのかというと、ことばの定義付けにおいて、反例なんていくらでもあるぞということです。もちろん辞書によっては、②③…といくつか意味を書いているものもありますが、それらを含めたとしても、ことばの意味を完全に網羅することなんてできません。

 一つ目の「友達」のように、そのことばのもつ一部の意味合いだけが転用されて使われていたり、二つ目・三つ目のように、比喩に限りなく近い使われ方をしていたりすることもあります。

 さらに細かいことを言うと、使い手の感情や声色、表情によっても、ことばの意味合いは変わります。そのことばを発する場の状況、タイミング、相手との関係性によっても変化します。「皮肉」なんてまさにそれです。その状況に合わせて、なんでもないことばに新しい意味合いが与えられるのです。

 要するに、辞書に書かれている意味は、そのことばの「答え」ではありません。できるだけ多くの場面に当てはまるであろう「通説」にすぎないのです。辞書の正しい使い方は、答えを調べることではありません。「参考にする」が正解です。それを自覚した上で使うことができたら、きっとあなたも辞書と友達になれるはずです。

 

 

 よく「紙の辞書か電子辞書か」という作文を書かせることがありますが、どうしてこのテーマはこんなに人気なのでしょうね。どっちでもいいよ!好きな方使えよ!と思ってしまいます。せめて「紙の辞書は将来なくなるのか」にすれば、少しはおもしろくなるのになあ。どの意味合いをもたせた、どのことばを選ぶのかによって、言っていることは同じでも、まったく異なる伝わり方をします。やっぱりことばはおもしろいですね。それでは、研究授業を楽しんでこようと思います。どうか皆様、よい水曜日を。