おはようございます。今日は研究授業です。やっぱり、時間をかけて準備した授業はいいですね。わくわくします。これが、先生の本来の仕事だよなあと改めて思います。じっくり授業について考えられるのが、どうして研究授業のときだけなんだ?授業がしたくて先生になったんだけどなあ。どうも、インクです。
辞書に書かれていることばの意味は「通説」であり「答え」ではない
辞書に書かれていることばの意味は「通説」であり「答え」ではない
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) November 6, 2019
そもそも論を問いたくて、よく子どもたちに「〇〇って何?」という質問をします。「友達って何?」「 命って何?」「勉強って何?」という具合です。身近なものほど「〇〇って何?」を考える機会がありません。だからこそ、子どもたちは一生懸命悩んでくれます。その過程で生まれる話し合いに、とても価値があると思っています。
そんなときに、子どもたちはよく辞書を引こうとします。「友達って何?」と聞かれたら「友達」と辞書を引こうとするのです。すると当然「友達」ということばの意味が出てきます。
辞書ともなれば、余程のことがない限り「間違ったこと」は書かれていません。志を共にして、同等の相手として交わっている人。確かに間違ってはいませんね。では、この「友達」はどうでしょう。
おい、金貸してくれよ。俺たち友達だろ。
上記の定義でいくのなら、これは「友達」ではありません。とても同等の相手だとは言えないでしょう。「困ったときは助け合う」という友達の性質を悪用した分かりやすい例です。「友達」と聞くと、いいことばのように聞こえますが、このような使われ方をすることもあるというわけです。
愛と勇気だけが友達さ
この「友達」はどうでしょう。発言者と「愛」は、志を共にした仲間なのでしょうか。発言者と「勇気」は、同等の相手として交わる人なのでしょうか。なかなか「うん」とは頷ききれませんよね。つまり、ここで使われている「友達」は限りなく比喩に近いということになります。愛と勇気は友達(のようなもの)だ、というわけです。
ボールはともだち こわくないよ
この「ともだち」も、比喩なのでしょうか。かなり微妙なところですよね。作者のメッセージとしては、「こわくない」の方に重きがあるはずなので、「ともだち」は比喩だと捉えるのが妥当なのでしょう。
でも、キャプテンの目を見ると、本気で「ともだち」だと思ってそうですもんね。仮に、この「ともだち」を認めてしまうと、それこそ定義は崩れてしまいます。なにせ、「ともだち」を思い切り蹴っていることになりますからね。改めて「ともだち」って何なのでしょう。
上記の三つの例で何が言いたかったのかというと、ことばの定義付けにおいて、反例なんていくらでもあるぞということです。もちろん辞書によっては、②③…といくつか意味を書いているものもありますが、それらを含めたとしても、ことばの意味を完全に網羅することなんてできません。
一つ目の「友達」のように、そのことばのもつ一部の意味合いだけが転用されて使われていたり、二つ目・三つ目のように、比喩に限りなく近い使われ方をしていたりすることもあります。
さらに細かいことを言うと、使い手の感情や声色、表情によっても、ことばの意味合いは変わります。そのことばを発する場の状況、タイミング、相手との関係性によっても変化します。「皮肉」なんてまさにそれです。その状況に合わせて、なんでもないことばに新しい意味合いが与えられるのです。
要するに、辞書に書かれている意味は、そのことばの「答え」ではありません。できるだけ多くの場面に当てはまるであろう「通説」にすぎないのです。辞書の正しい使い方は、答えを調べることではありません。「参考にする」が正解です。それを自覚した上で使うことができたら、きっとあなたも辞書と友達になれるはずです。
よく「紙の辞書か電子辞書か」という作文を書かせることがありますが、どうしてこのテーマはこんなに人気なのでしょうね。どっちでもいいよ!好きな方使えよ!と思ってしまいます。せめて「紙の辞書は将来なくなるのか」にすれば、少しはおもしろくなるのになあ。どの意味合いをもたせた、どのことばを選ぶのかによって、言っていることは同じでも、まったく異なる伝わり方をします。やっぱりことばはおもしろいですね。それでは、研究授業を楽しんでこようと思います。どうか皆様、よい水曜日を。