おはようございます。ハレを失ったケをどう生きよう。そう思っていましたが、意味合いの異なる別次元のハレがやってきました。ハレとケについて考えているといつも同じ作品を思い出します。中学校の国語の教科書にのっている別役実の『空中ブランコ乗りのキキ』です。別役実は童話作家でありながら、劇作家の顔ももち合わせており、この作品も非常に劇作に近い形をとっています。人々をハレの世界へと導くサーカス団のキキにとって、サーカスの公演はケでしかありません。人々にとってのハレが、キキにとってはケなのです。では、キキにとってのハレはなんなのだろう。意味合いの異なる別次元のハレがキキのもとにも訪れます。ハレには常にケイオス(混沌)がつきものです。ケイオスは人間生活および人類の歴史には必要不可欠な要素です。大切なのはケにもどったとき、そこに何が残っているかなのではないでしょうか。どうも、インクです。
みんなのフツウが僕には難しくてできなくて
みんなのフツウが僕には難しくてできなくて
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年2月23日
1年間おなじ教室ですごしていると「アイツはできる/アイツはできない」ということがなんとなくわかってくるものです。もちろん、先生がだれかのテストの点数を公開したり、「あなたはできるけど、あなたはできない」だなんてことを言ったりすることは絶対にありません。それでもなんとなく、子どもたちどうしで「できる/できない」は認知されていくものなのです。
そんな中でも「できる/できない」が目に見えてはっきりとわかってしまう教科があります。そうです。体育です。国語や算数なら、みんなの前で発表しなければならないタイミングが稀にあれど、基本は自分の机の上で展開されていきます。机の上が公開されることもありませんし、わかっていなくてもわかっているかのような顔をして乗り切ることもできます。しかし、体育はみんなが見ています。50メートルを6秒で走るフリなんてできません。できないものはできない。それが体育なのです。
だからこそ「体育でだれも嫌な思いをすることがないクラス」はいいクラスだと思っています。できない子どもがいかに楽しめるか。そのために、できる子どもがどう動くのか。これこそが、クラスという集団で生活をしている意義なのではないでしょうか。
反対に、体育がうまくまわらないと、きっと学級経営もうまくはいきません。できる子ができない子を責めて、できない子は反発することもできずに卑屈になっていく。うまくいかない場合は大抵こんなパターンです。
あるあるですね。赤い服の子が怒れば怒るほど、青い服の子が卑屈になればなるほど、このチームの体育はよりつまらなくなっていくでしょう。一見すると、他者の「できない」を認めてあげられない赤い服の子が悪いように思われますが、一概にそうだと言い切ることもできません。
青い服の子が、はじめから「どうせ僕なんて」とウジウジして試合に参加しようとすらしていなければ、そりゃあ赤い服の子が怒りはじめてもおかしくはありません。もしかすると、青い服の子は過去に似たような経験があって「どうせ僕なんて」という思考に至ったのかもしれませんが、赤い服の子からすれば知ったこっちゃありません。「できないならできないなりに、せめて全力をつくせよ」というわけです。もっともな言い分だと思います。
だからと言って青い服の子が悪いのかと言うと、こちらも一概にそうだと言い切ることはできません。今回はひとつの例として体育の話をしているだけで、きっと誰もがどこかでこのような気もちを抱えながら生きているはずです。
みんなのフツウが
僕には難しくてできなくて
もちろん感じ方の大小は人によってちがいます。幸せなことに、このような感情をほとんど抱くことなく生きてこられた人もいるのかもしれません。ただ、これを強く感じる人間にとってこの世界はかなり生きづらいものです。学校なんてなおさらです。きっと青い服の子も同じような気もちだったはずです。みんながいとも簡単にこなしている「ボールのキャッチ」が僕には難しくてできなくて。
字を整えて書くことが
僕には難しくてできなくて。
ごはんをたくさん食べることが
僕には難しくてできなくて。
じっとしていることが
僕には難しくてできなくて。
同時にものごとを進めることが
僕には難しくてできなくて。
電車に乗ることが
僕には難しくてできなくて。
人と話すことが
僕には難しくてできなくて。
笑顔をつくることが
僕には難しくてできなくて。
みんなのフツウが
僕には難しくてできなくて。
本当はもう少し個人的な意見を書いていたのですが、嫌になって消しました。学校という場所にいると「みんなのフツウが僕には難しくてできなくて」を何度も何度も目にします。上の記事にも書いているように、それぞれのケースごとに考えていけば「みんなのフツウが僕には難しくてできなくて」を少しでも解消してあげられる対策を練ることはできるはずです。
根本にあるのは「すべてのできないことはできるようになるべきだ」という考え方です。たしかに、できないことができるようになれば嬉しいのかもしれません。しかし、できないことのすべてをできるようになる必要なんてありません。できないことは「できるようになるべきこと」と「できなくてもいいこと」に分けられます。できないことはきっとそれを得意な誰かがやってくれます。別に誰もがパーフェクトヒューマンになる必要なんてないのです。