おはようございます。土曜日はとあるバーに行ってきました。そこへ行くのは2回目だったのですが、席についた瞬間に「前にも来られたことありますよね?」と声をかけられました。たぶん1年近く前のことなのですが、よくおぼえているものだなあと感心しました。ただ、疑りぶかい性格なものですから、心の中では「ほんまかいな」と思っていました。仮に初見の人だったとしても、べつに損はありませんからね。「いいえ、今日がはじめてです」と言われたら「あ、そうでしたか。どうぞごゆっくり」と言えばいいだけです。けっこう便利なことばです。まあ、真実はどうであれ、言われた身としてはすこし嬉しくなりますよね。このようなさりげないひとことってとても大切なのだろうなと思いました。今日は当ブログのリンクをクリックしていただきありがとうございます。たしか前にも読みに来られたことありますよね?どうも、インクです。
パロディやオマージュの元ネタがすぐに分かる人間になりたい
パロディやオマージュの元ネタがすぐに分かる人間になりたい
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2019年3月1日
パロディやオマージュの元ネタがすぐに分かる人間になりたい。昔からずっと思っていることです。後になって「あれはパロディだったんだ!」と気づくことがよくあります。それはそれでおもしろいのですが、やはりその場で理解できた方が作品をより楽しめるのだろうなと思います。ただ、やっぱり知らないものは知りません。だから、どうしようもありません。結局は知識です。知識がなければどうしようもありません。たとえば、村上春樹の『ノルウェイの森』にはこのような表現が登場します。
「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔払い方も、なんでも好きだよ」
「本当にこのままでいいの?」
「どこをどう変えればいいのかがわからないから、そのままでいいよ」
「どのくらい私のこと好き?」
「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。
村上春樹(2004)『ノルウェイの森』講談社
「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」ってなんだよ!と思いますよね。どうやったらそんな言い回しが出てくるんだと。ちなみに『ノルウェイの森』は、はじめて読んだ村上作品でした。はじめの数ページを読んでは止め、読んでは止めをくり返していました。この村上春樹独特の言い回しが、とてもクドく感じてしまったのです。まあ、そのクドさこそがこの人の書く文章のおもしろさだと気づいてからはどっぷりとはまってしまったんですけどね。
そしてとあるタイミングで、この言い回しがオマージュであったことを知りました。虎が溶けてバターになる。そうです。絵本『ちびくろサンボ』に登場する描写です。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。『ちびくろサンボ』では、虎が木のまわりをぐるぐるとまわり、気がつけばバターになってしまうのです。ちなみに主人公のサンボは、そのバターでパンケーキを焼きます。母のマンボは27枚、父のジャンボは55枚、息子のサンボは169枚、虎のバターでできたパンケーキを食べます。『ちびくろサンボ』という絵本はそんなお話です。
要するに『ノルウェイの森』を読んだときには、『ちびくろサンボ』のことを知らなかったというわけです。もしも知っていたならば、きっと『ノルウェイの森』という作品をより楽しむことができていたのだろうなと思います。無知は罪だなんて言いますが、罪とまではいかずとも、損をすることには間違いがないようです。
著書『読みたいことを、書けばいい。』がベストセラーになった青年失業家こと田中泰延さんも、このようなツイートをしています。「泰延(ひろのぶ)」って1発で変換されないんですよね。いつも「安泰」「延命」と入力しています。
なぜ人は勉強する必要があるのか?
— 田中泰延 (@hironobutnk) 2020年2月13日
それは世の中の「面白い会話」「楽しく盛り上がる話」のほとんどが「知識」をベースにしているからである。
だから「知らないと何も面白くないし、楽しそうな会話に入れない」のである。
それ以外の面白い話など、もうウンコとおっぱいの話しかないのである。
まさにここで言われている「おもしろい会話」「楽しく盛り上がる会話」のほとんどが「知識」という名のパロディやオマージュに支えられています。なんなら、歴史を積み重ねてきた人類の言動なんて、ほとんどがパロディやオマージュです。オリジナルなんてものは存在しません。だからこそ「知識」がものを言います。なんなら前提と言ってもいいかもしれません。「知識」があることは前提。話はそこから始まります。「知識」をもたずして、えらそうに語っても滑稽でしかないのです。
このブログでも度々述べていますが、勉強は「おもしろいものを見逃してしまわないようにするため」にあるものだと思っています。たしかに勉強なんてしなくても生きていくことはできるでしょう。身ひとつあれば、案外なんとかなるものです。ただし、そこに「知識」がなければ、やはりおもしろいものに気づくことができません。木のまわりをまわっている虎をみつけても「こわいから逃げよう」としか思えないのです。実は身のまわりにはおもしろいものは山のように転がっています。まさにダイヤモンドです。しかし、「知識」がなければただの石ころにしか見えません。それはあまりにももったいない。そう、あまりにもまったいないのです。どうせなら、おもしろい人生を生きたいではないですか。
ただし、当然のことながら「知識」を集めるには時間がかかります。何よりも世界には、一生をかけても集めきれないくらいたくさんの「知識」が存在します。とにかく手を出してみるというのもひとつのやり方なのかもしれませんが、やはり時間は有限です。ある程度の選択が必要になります。そんなときの一番の基準は「好き」という感情です。よく「共通の趣味をもっていて仲良くなった」だなんていいますが、要するに集めた「知識」の領域が重なっていたというだけです。領域が重なるということは、同じものに時間を費やしたということですから、そりゃあ仲良くもなるわけです。この領域を拡大させることができたら、仲良くなれる人の数も増えるということになります。「知識」とは、決して「それをもたない者」にドヤ顔をするために集めるものではありません。おもしろいものを見逃さず、かつ他者との共通部分をつくるために集めるのです。