おはようございます。昨日は久しぶりに朝マックに行きました。ガラガラのマクドナルドの窓際の席っていいですね。そして何より、ソーセージエッグマフィンは、おいしい。お昼の喧騒とした、ジャンキーなマクドナルドとはまた違って見えるものです。たまにはこういう生活もいいのかもしれません。
というのも、前の日の夜に変な寝方をしてしまったからなんですけどね。学校から帰ってご飯を食べると、椅子に座ったまま眠ってしまったのです。21時ごろだったでしょうか。そして気がつけば朝の3時というわけです。随分器用な寝方をしたものです。もう一度布団に入り直して眠るには微妙な時間です。もういっそのこと起きてしまおう。そしていっそのこと朝マックにでも行ってみよう。と、こういうわけだったのです。時々ありますよね、こういう日。きっとこのタイミングで何かしらの変化が必要だったのでしょう。変化は拒まず、流れの中で旬を生きよう。どうも、インクです。
授業の中でいかに子どもたちを当事者にできるか
授業の中でいかに子どもたちを当事者にできるか
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) October 30, 2019
授業における「発表」というシステムをどうにかできないものかといつも思っています。先生はみんな、当たり前のように子どもに挙手させて「発表」させようとします。手を挙げない子どもは「やる気がない」だなんて判断する先生さえいます。
しかし、子どもからすれば、「挙手制度」って割りに合わないんですよ。だって、せっかく手を挙げたのに答えられるのはひとりだけですからね。何度も何度も手を挙げて、ようやく当ててもらえたと思えば、「2+3=5だと思います」と答えて終わりです。一度当てられたので、その後しばらくは当てられません。それでも「やる気」を表明するために手を挙げ続けなければなりません。これほど無駄なことがあるでしょうか。「もう別に挙げなくてもいいや」と思っても仕方がないとは思いませんか。
言い方を変えるなら、「自分がいなくても授業は進む」ということです。これは事実です。子どもがひとりやふたりいなくても、授業は通常通りに進みます。当然と言えば当然ですね。体調不良で欠席者が出るたびに授業が止まっていてはキリがありません。しかし、だからこそ子どもたちは、授業をないがしろにするようになります。自分がそこにいる必然性がないからです。
そんなときに先生は「積極的に発言しなさい」だとか「主体的になりなさい」だとか、無茶なことを言い始めます。「学びたいと思いなさい」と言って、学びたいと思うようになるはずがないのです。
上の記事にも書いた通り、主体的に学ばせたければ、主体的になれる必然性を生み出さなければなりません。ここでは、それを「困らせる」ことだと書きました。まずはこれを前提とすることが大切です。「学びたい⇄学んでほしい」の関係になることがもっとも理想的なのです。そのためにも、まずは子どもたちを授業の当事者にしなければなりません。
その上で、再び「挙手制度」に話を戻すと、やっぱり割りに合わないということに気がつくでしょう。子どもたちがどれだけ主体的に発言しようと思っても、結局は先生に当てられたひとりしか喋ることができません。一斉授業という形をとる限り、難しいところがあることも分かります。授業時間にも限りがあるので、発言者が絞られてしまうのもある程度は仕方がありません。しかし、だからといって、ここを丸々諦めてしまうのはまだ早いような気がするのです。
先ほど述べたように、「自分はこの授業に必要だ」と全員に思わせることはかなり厳しいと思います。もしこのように思う子どもがいたとしても、それは騙されているだけです。別にその子がひとりいなくても授業は進みます。だから、どちらかと言えば、「自分が必要だから参加しないといけない」ではなく「これは参加した方がおもしろいぞ」と思わせたいのです。
もうお気づきかと思いますが、子どもの主体性の有無はもはや先生側の問題です。いかに必然性をつくりだせるかです。そして、そこでせっかく芽生えた主体性を「挙手」というシステムで殺してしまわないようにしたいものです。そもそも「挙手」をして発表する必要はあるのでしょうか。「発表」ってなんのためにするのでしょうか。我々、教師は意図をもって発表させることができているのでしょうか。
「子どもに手を挙げさせなければならない」なんてルールはどこにもありません。だれも「やってはいけない」だなんて言っていないのに、まだ誰もやっていない。そんなところに、まだ見ぬおもしろさが隠れているような気がします。そろそろ「あ、こいつ具体的な代案は思いついてねえな」ということがバレているかと思いますが、はじめに書いた通り、筆者もまだまだ模索中です。何かいい方法があればぜひ教えてください。よろしくお願いします。
なぜこんなことを考えるようになったかというと、自分が子どもの頃に「発表する意味はあるのか?」思っていたからです。自分が発表しなくても、誰かが必ず発表してくれます。しかも、そこで出てくる答えは、すでに先生の中にあるものです。先生の中にすでにあるものを、子どもたちが当てる。それなら初めから先生がその答えを説明すればいいじゃないか。わざわざ発表させるのはどうしてなのだろう。考えさせるため?だとしても、当てられるのはひとりだけだぞ?他の人はどうするんだ?考えるだけ考えて終わりか?
今思い返せば、かなり嫌な子どもですね。黙って手を挙げておけよと思ってしまいます。でも、当時のひねくれた姿勢は間違いなく今に生きています。子どもの頃の疑問が、今の改善点になっているのです。ある意味、昔の自分を救い出そうとしているのかもしれません。「そのために目の前の子どもをつかうのはどうなんだ」と言われてしまうかもしれませんが、正直なところを言うと、むしろ目の前の子どもたちを自分の力でどうにかしてやろうと思うことの方がおこがましいのではないでしょうか。
ここまで述べてきたように、先生として、可能な限りの「学ぶことへの必然性」はつくり出したいと思っています。だから、子どもたちよ。そんな場所は用意するから、あとは思う存分勝手に学んでくれ!