おはようございます。電車でスマホを見ることが当たり前になりました。かつては「電車に乗るとみんながスマホばかり見ていて怖い」と風刺的に言及されていたことが嘘のようです。一方で、そのような風景が当たり前になったおかげで、本を読んでいる人を見かけると「おっ」と思うようになりました。特に自分よりも若い人が読んでいるのを見かけると自然と好意を抱いてしまいます。ファッションとしての読書の価値が年々高まってきている証拠ですね。ただやりすぎると引かれてしまうので、くれぐれも過剰な読書家アピールには気をつけてくださいね。どうも、インクです。
ファンがいない人の感想文に価値はあるのか
ファンがいない人の感想文に価値はあるのか
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) November 3, 2019
夏休みの宿題の中でもっとも厄介なものは「読書感想文」です。ふだんから読書をしない子どもならなおさら苦労するでしょう。指定された文字数をなんとか埋めることだけに必死になります。親も一緒に頭を悩ませるというご家庭も多いのではないでしょうか。
そんな「読書感想文」が夏休み明けに提出されるわけですが、読んでいるこちらもまったくおもしろくありません。マス目を埋めるために薄く引き伸ばされた文章や、それらしいことを書いておけばいいやという魂胆が見え透いた文章ばかりです。当然ですが、学校の先生はそんな文章をクラス全員分読まなければなりません。なかなかの苦痛です。
「そうならないために書き方を教えるのが先生の仕事だろ」と言われてしまえばもう何も言えなのですが、書きたいとも思っていない文章を書かせることって実はとても難しいのです。スタートの時点でもう「絞り出す」ことが前提になってしまっています。何ならその前に「本を読む」という工程も必要です。読みたくもない本を読み、書きたくもない文章を書く。そりゃあ嫌にもなりますよ。
それでは、一体なんのために「読書感想文」を書くのでしょうか。こんなことを言うと無責任だと怒られるかもしれませんが、その宿題を出している先生でさえ、なんのために書かせるのかがよく分かりません。もちろん「読み書きの力をつけさせる」という意味合いはあると思いますが、果たして労力に見合った成果が出ているのでしょうか。疑問でしかありません。このような読書感想文を書く目的を探るためにも、日常生活で「感想文」を読む場面はどんなときなのかを考えていきたいと思います。
他者が書いた感想文を読むのは、以下の2パターンがほとんどかと思います。
- 自分が読んだ作品を他の人はどう思っているのかを知りたい
- 信用のある人が書いているから読んでみたい
ひとつ目の感想文を読むのは、「その作品に興味がある人」です。作品を読み終わったばかりで、他の人の感想も知りたい。もしくは、これから読もうと思っているから、ネタバレしない程度に評判を知りたい。そんな人たちが感想文を読みます。いわゆる作品レビューというやつですね。
ふたつ目の感想文を読むのは、「その書き手に興味がある人」です。作品のことはよく知らないけれど、あの人が感想文を書いているのなら間違いがないだろう。ちょっと読んでみよう。何なら、その作品自体もまた今度読んでみようかな。そんな人たちが感想文を読みます。
もうお分かりの通り、このふたつは同じ感想文でもまったく異なります。前者は「作品」に人が集まっているのに対し、後者は「書き手」に人が集まっています。「役に立つ」という観点から見れば、前者の感想文の方に価値があるのかもしれませんが、極端な話、前者の感想文は、書き手が誰であろうと関係がありません。読者の感想との比較対象になれば、誰が書いていてもよいのです。
一方、後者の感想文は、その人が書いているからこそ価値が生まれます。その人のフィルターを通して見た作品世界に、読者は興味をもつのです。その人の感動を知ってみたいと思うのです。そして、その感想文がおもしろければ、書き手への興味も増し、他の文章にも触れてみたいと思うようになるのです。
このように考えていくと、学校の宿題における「読書感想文」は、どちらかと言えば後者にあたるのではないでしょうか。毎日いっしょに過ごしている子どもたちが、作品をどのように読むのか。担任としては、その「書き手」に興味があります。しかし、そこに必要不可欠な「感動」や「動機」がまったくといっていいほどありません。はじめの話にもどりますが、読みたくもない本を読まされ、書きたくもない文章を書かされているに過ぎないのです。
かといって、後者のように「書き手性」を排除して読んだとしても、これまたはじめに述べたように、マス目を埋めるために薄く引き伸ばされた文章や、それらしいことを書いておけばいいやという魂胆が見え透いた文章ばかりになります。コンクールなどでは、「書き手性」を排除して読まれると思うのですが、そこでまた「家族は大切だと思った」とか「友達を大切にしたいと思った」といったそれらしいことを書いている感想文が選ばれてしまうことも問題だと思っています。コンクールでこのような作品が選ばれるから、それが「正解」になり、みんなが目指すようになるのです。
書き手の素直な感動ではなく、道徳的であることを目指す。ノウハウに従ってマス目を埋めることを目指す。そのような感想文にはたしてどこまでの価値があると言えるのでしょうか。
ブログの記事を書くときにいつも気をつけているのは、「自らがテーマに近づいて書く」のではなく「テーマをこちらにたぐり寄せて書く」ということです。これまでの話で言うなら、「書き手性」を中心にするということです。
こうすることで、自分が自分である限り、どんなテーマでも文章を書くことができるようになります。テーマについて書いているわけではなく、自分について書いているからです。
デメリットとしては、「書き手自身」に興味を持ってもらわなければならないので、読者を集めるのに時間がかかります。また、非常にバズりづらいです。ブログ界ではよく「誰かの役に立つ文章を書こう」という動きが見られますが、それとはまったく逆の動きになります。ただ、それでも長い目で見れば、価値が大きくなるのは間違いなくこの書き方だと信じています。
「何が書いてあるか」よりも「誰が書いたか」です。レイアウトばかりにこだわり、「書き手」がそこにいないブログは、ただの風景として読み飛ばされていくことでしょう。「内容」ではなく「書き手」のファンを集めよう。そんなことを思いながら日々文章を書いています。