ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】優しさがなきゃツッコミじゃない

 

 おはようございます。お葬式に誰も来てくれなかったら寂しくない? 先日、同い年の友達にこう言われました。考えたこともなかったので少しドキッとしましたが、それと同時に、寂しい...のか...?とも思いました。たしかにお葬式と言えば、その人にとってのエンドロールのような印象はあります。クレジットとして、その人と関わりのあった人たちが集まる。しかし、本人は不在。寂しいとか寂しくないとか以前に、その人はすでにこの世にいません。あの世でも寂しいという感情を抱くことができるのか否か。考えれば考えるほど、不思議な式典ですね、お葬式って。どうも、インクです。

 

優しさがなきゃツッコミじゃない

 

 タノシクナケレバテレビジャナイ。優しくなければツッコミじゃない。

 NO MUSIC NO LIFE。NO 優しさ NOツッコミ。

 

  道徳の教材に『フィンガーボール』というお話があります。フィンガーボールの「ボール」は、投げたり蹴ったりするあのボールではなく、ハンバーグのタネを混ぜたりメレンゲを泡立てたりするときにつかうあのボールです。

 中に水を張り、食卓の上で指先を洗います。それが「フィンガーボール」です。エビやカニ、果物など、素手で食べる料理とともに提供されるそうです。

 

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 皆様はつかったことがあるでしょうか。つかい方を知らなければ、思わず中の水を飲んでしまいそうですよね。道徳の教材もそんなお話でした。

 女王様との食事に緊張しているお客さん。フィンガーボールのつかい方を知らなかったのか、中の水をゴクゴクと飲んでしまいました。それを見た女王様も、同じようにフィガーボールの水をゴクゴクと飲みました。女王様はつかい方を知っていたはずなのに。

  というお話です。こんな女王様すてきですよね。相手に恥をかかせない。自分の身分をよく理解した上での行動です。「惚れてまうやろ」ですね。以前記事にも書いた「その場に悪者をつくらない」という考え方と似ているのかもしれません。お客さんを悪者にしないための女王様の思いやりです。個人的には気に入っているけれど、あまり伸びなかった記事なので、まだの方はぜひ読んでみてください。

taishiowawa.hatenablog.com

 

  話を戻します。こんなにすてきな女王様が登場するお話なのですが、ひとつ大きな問題が残っています。それは「教えてあげることが優しさなのではないか」という問題です。「女王様みたいな思いやりがもてたらいいですね」で終わるわけにはいきません。お客さんは今回の食事会でフィンガーボールの水を飲み、それが間違いだと教えてもらえなかったせいで、また別の食事会でも同じ過ちを犯すことになるかもしれません。恥をかくタイミングが後にズレただけです。それならばせめて、1回目に教えてあげるべきなのではないか。と、こういうわけです。読者の皆様はどう思いますか。

 

 ちなみに、同じ教科書に「教えてあげることが優しさだ」というお話も載っています。『絵葉書と切手』というお話です。こちらもあらすじを紹介しますね。

 友達から送られてきた絵葉書。しかしそこには郵便局からのメッセージが付いています。切手代が不足しているのでお支払いください。きっと友達は、絵葉書のサイズに合った料金を勘違いして切手を貼っていたのでしょう。そのせいで、絵葉書を受け取った側が不足金を支払わなければならなくなったのです。

 主人公は考えます。もしかすると友達は、他の人にも同じように送ってしまうかもしれない。でも、こんな些細なことをわざわざ伝える必要はあるかな。うんうんと悩んだ結果、最終的には「大切な友達」として、間違っていたことを伝えることに決めました。

 もうお分かりかと思いますが、言っていることは『フィンガーボール』と正反対です。真逆です。そんな真逆の考え方が同じ教科書に載っています。しかも道徳の教科書に。これはおもしろいと思い、すぐに子どもたちに投げました。その話し合いもまあおもしろかったです。「女王様もあとからこっそり教えてあげるべき」だとか「女王様本人が教えてしまうとなんだか嫌らしくない?」だとか。いろいろな意見がでてきました。そんな話し合いの中でひとりの子どもがこんなことを言いました。

 

女王様もフィンガーボールを飲んだのは〜

 

 このときに少しだけクラスがザワっとしました。なぜだか分かりますか。議題とはまったく違うところです。そうです。「フィンガーボール」は飲みません。お客さんや女王様が飲んだのはあくまでも「水」であって「フィンガーボール」ではありません。そして、もちろんこの子自身もそんなことは分かっています。ただの言い間違いです。それでもやっぱり気になるものは気になります。「いやいや、フィンガーボールは飲まないでしょ」とザワザワしたのです。

 これぞまさにだと思いました。間違いへの指摘。まさに『フィンガーボール』と『絵葉書と切手』で取り扱われている主題です。思わず話し合いをストップし「今〇〇さんが言い間違えたけど、どうしたらよかったと思う?」と問いかけました。「あとから教えてあげる」だとか「本人も水を飲んだということくらい分かっているからいちいち言わなくてもいい」だとかいろいろな意見が出てきました。そんな話し合いの中でひとりの子どもがこんなことを言いました。

 

フィンガーボールは飲まへんやろ!とツッコむ

 

  おもしろいなあと思いました。中途半端にザワザワしたり指摘したりするのではなく、むしろ大きな声でツッコんであげる。そして、その間違いを笑いに昇華させる。それがこの子なりの優しさだというわけです。

 このように考えていくと、改めて人と人とのコミュニケーションって、本当に複雑で奥が深いなあと思います。それと同時に、子どもたちって本当におもしろいなあとも思いました。話し合いは聞いているこちらがおもしろい。これからも、先生がニヤニヤしているだけで進んでいくような授業をつくっていけたらなと思います。

 

 

 先ほど、思わず話し合いをストップし「今〇〇さんが言い間違えたけど、どうしたらよかったと思う?」と問いかけたと書きましたが、これも大きな意味で捉えるとツッコミです。ただ、この類のツッコミは裏目にでると、ただただ間違いを顕在化させてしまうだけになる可能性があります。間違いを周囲に晒されるわけですからね。しかも先生からのツッコミです。下手すればその子がとても嫌な思いをすることになるかもしれません。

 今回のツッコミは、その子のキャラクターと、先生との関係性を踏まえた上でできたことです。きっと同じ間違いをしたとしても、ツッコんではいけない子どももいるはずです。同じようにツッコんではいけない先生もいます。そこを見誤ってしまうと、ただの嫌がらせのようになりかねません。確かな信頼関係と、間違いなく笑いに変わる空気感が前提です。優しさがなきゃツッコミではありません。

 

みんなでこうやって話し合いを深めるために、〇〇さんはわざと言い間違えてくれたんだよ。