おはようございます。23時に寝て、5時30分に起きるという生活をくり返しています。睡眠時間は6時間30分。大人にとっては充分な時間です。
生活習慣というのはおもしろいもので、寝る時間が15分おそくなれば、起きる時間も自動的に15分おそくなってしまいます。アラームは関係ありません。
先日もついつい23時20分くらいまでスマホを見てしまい、朝から慌てて準備をすることになってしまいました。わりとパキッと目が覚める方なので、起きてしまえばこっちのもんなんですけどね。
実は今日、いつもよりも早く起きて、同じように出勤しなければなりません。土曜日ダイヤを調べておかないと。どうも、インクです。
幸せに対する価値観の押し付けは人を苦しめやすい
幸せに対する価値観の押し付けは人を苦しめやすい
— インク@青年求職家 (@firesign_ink) 2020年9月20日
「幸せ」を定義づけるということは、同時に「不幸せ」を定義づけるということでもあります。結婚を幸せだと定義づけることで、独身は自動的に不幸せだと定義づけられてしまいます。お金持ちを幸せだと定義づけることで、貧乏は自動的に不幸せだと定義づけられてしまいます。そんなつもりがなくてもです。
これがまあ厄介です。幸せに対する価値観は人を苦しめますからね。他者が定義づけた「幸せ」に、自分が当てはまらないことを知り、自分は「不幸せ」なのだと思い込んでしまうのです。
劣等感を覚え、不安を感じ、ついには妬みや僻みを言いはじめるようになってしまいます。何度も言いますが、誰かが勝手に決めた「幸せ」です。どこぞのセレブがインスタに貼り付けた「幸せ」です。胡散臭いエッセイストが書いた「幸せ」です。そんな「幸せ」にまんまと踊らされてしまっているわけです。
ただし、どれだけ「人と比べるな」とか「自分で決めるものだ」とか言われても、社会の中で生きていく限りそう簡単なことではありません。
どれだけ「自分は幸せだ」と主張しようとも、まわりは認めてくれませんからね。「個人のことなのだから他人が口を挟むことではないでしょ」と思った方もいらっしゃるかと思いますが、同時に、その正論を通すことがいかに難しいかということもよくよくわかっていらっしゃることでしょう。
相対的な基準で自分のことを「不幸せ」だと思い込んでいる人は、自分と同じような境遇にいる人にも「不幸せ」でいてもらわないと困ってしまうのです。
同じような境遇にいるはずなのに、相手だけが「幸せ」だと、自分が「不幸せ」であることに説明がつかなくなってしまうというわけです。
それなら自分も「幸せ」側に基準をそろえればよいではないかという話になるわけですが、残念ながらそういうわけにもいきません。
「不幸せ」な人が安心を得ようと思ったら「不幸せな人を見つける」のが、もっとも手っ取り早いのです。不幸せスパイラルです。不幸せが不幸せを呼び、その不幸せがまた次の不幸せを呼ぶというわけです。
どこかの誰かの「幸せ」を信じ続ける限り、このスパイラルが途切れることはありません。逆に言えば、モデルから「幸せ」を定義することがなくなれば、ようやくこのスパイラルを断つことができます。
そう考えると「幸せ」って何なのでしょうね。そもそも「幸せ」なんてものは本当にあるのでしょうか。「幸せ」がなかったとしたら、それはつまり「不幸せ」もなくなるということであり、「不幸せ」がなくなるということは、つまり「幸せ」なのではないか、とそんなことを思ったわけです。
そもそもどうして「幸せ」になろうとするのでしょうか。「幸せ」になんかならなくたって、充分に「幸せ'」になれるはずなんですけどね。
【今後の予定】
①9月30日(水)こきけんよう Vol.12
②10月17日(土)Coming soon ...
③10月26日(土)Coming soon ...