ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【火】はじめることを自分で決めたのならやめることも自分で決めればいい

 

 おはようございます。「落ち着いたら飲みに行こう」というやりとりにもそろそろ飽きてきましたね。マラソンはゴールが決まっているからこそ、走りつづけることができます。ゴールが決まっているからこそ、ペース配分を考え、適切なタイミングで水分や食料を補給します。

 もしもゴールが決まっていなければ。「いつ終わるかわからないけれどとりあえず走れ」と言われたら。まず間違いなくそのレースは苦しいものになるでしょう。スタートダッシュを決めた人は途中でバテて後退し、体力を温存している人はペースを上げるタイミングがわからずに少しずつ消耗していくでしょう。

 こんなときにできることは、順位を競うことをやめて、みんなで一緒に歩くことです。だれかに勝とうだなんて思わず、一位になろうだなんて思わず。仮に長いレースになっても大丈夫なように、みんなで一緒に歩くのです。マラソンというスポーツには敵がいません。まわりで走っている全員が味方です。どうも、インクです。

 

はじめることを自分で決めたのならやめることも自分で決めればいい

  本を開いて「おもしろくないな」と思ったらどうしますか。きっとそのページで読むことをやめて、本を閉じてしまうでしょう。そして、そのまま本棚の奥の方にしまわれて、引越しのときにブックオフへと運ばれるのです。

 ではその本が、好きな人から勧められたものだったらどうでしょう。「またこんど感想を聞かせてね」と言われている本だったらどうでしょう。たとえ途中で「おもしろくないな」と思ったとしても、がんばって最後まで読むのではないでしょうか。

 ではその本が、1万円で買ったものだったらどうでしょう。こつこつと貯めたおこづかいの全額をつぎ込んだ本だったらどうでしょう。たとえ途中で「おもしろくないな」と思ったとしても、がんばって最後まで読むのではないでしょうか。

 このように考えると、文章の中身なんて案外なんだっていいのかもしれません。文章を読む前に何かしらの物語があれば、たとえおもしろくなくても人は最後まで読むのです。

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 逆に考えれば、何かに至るまでにかけたコストは「やめづらさ」を生む原因になります。高いスパイクを買ったからサッカーをやめづらい。がんばって部長にまで昇格したから今の仕事をやめづらい。結婚生活を10年以上つづけてきたから今更離婚しづらい。種類はちがえど、すべてかけてきたお金や時間というコストが「やめづらさ」に繋がっている例です。

 別にやめづらいことがわるいことだというわけではありません。むしろ、本気でつづけたいと思っていることなのであれば「はじめの段階で意図的にコストをかける」というやり方をとることもできます。「形から入る」というのはまさにこれですね。ものごとをつづける上で初期投資はとても大切だと思います。

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 ここまでの話は言わば「自己投資」です。自分で自分のお金や時間を費やしてきた例でした。先ほど述べたとおり、途中でかけてきたコストが大きくなれば大きくなるほどやめづらくはなりますが、本当にやめたいと思うのであれば自分の意思でやめることができます。どれだけコストをかけてきたとしても、やめたければ勝手にやめればいいのです。

 ややこしいのはここからです。この途中段階に他者が関係してくると、ねじれが発生してきます。いちばんわかりやすいのが親子関係でしょうか。

 たとえば、子どもが「野球をしたい」と言い出したときに、その道具をそろえるのは親です。子どもが何かをはじめるために、親がコストを払うのです。食費も学費も光熱費も、すべて親が払います。当然、その過程にはとてつもない手間と時間がかかります。

 こうなると、先ほどの話とは「やめづらさ」の原因がすこし変わってきます。実際に何かをはじめる者とコストを支払う者が異なる人物であるからこそ、何かをやめようとしたときにこんなことばが聞こえくるようになります。

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 あなたが「やりたい」と言ったでしょう。だからコストをかけて道具を用意してあげたでしょう。時間も費やしてあげたでしょう。それにも関わらず「やめたい」だなんて一体どういうことなのよ。と、こう言うわけです。

 もちろん、どこかにはきっと「つづけることで成果を上げてほしい」という思いもあるでしょう。ただ割合を考えると、やっぱり「あれだけコストをかけたのに」という思いの方が大きいのではないでしょうか。

 要するに、親子の場合は、子どもが自分の意思だけで「つづける」と「やめる」という選択肢を天秤にかけることができません。自分で本を買って、自分が「おもしろくない」と思ったから、自分で読むことをやめる。親子であればどうしてもこういうわけにはいかないのです。

 これをよしとするかどうかは、もはや家族の問題でしょう。外部の人間がとやかく言えることではありません。ただ、くれぐれも忘れてはいけないのが「やめない」という選択が可能性を狭めることもあるという点です。

 おもしろさを一切感じないことを我慢してつづけることに、どこまでの価値があるのかはわかりません。忍耐を美徳とする考え方や「継続は力なり」ということばもあるので、一概に「嫌ならやめる」がよいとは言えませんが、「やめたくてもやめられない」というのは大人でも子どもでもなかなかに辛いものです。

 はじめることを自分で決めたのなら、やめることも自分で決められたらいいなと思います。決して怠惰ではなく。真剣にはじめて、真剣にやめる。いつでもやめられるって意外と大切な要素だと思います。

taishiowawa.hatenablog.com

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  それまでにかけてきたコストが「やめづらさ」を生むと書きましたが、その副産物として「やめると言ったときのまわりの反応がめんどくさい」というものがあります。誰かが何かをやめることに対して異様に厳しいですからね。「途中で投げ出すのか」だとか「逃げるのか」だとか。もしもまわりの人がそんなことを言ってくるような環境なのであれば、むしろやめて正解なのでしょう。

  部活動なんてまさに「やめづらさ」を体現したようなものなのではないでしょうか。結局、社会にあるややこしい風潮の多くは学校で形成されているのだろうなと思います。そしてその風潮は、簡単にはやめられません。なぜなら、これまでに大きな大きなコストをかけてきましたから。