おはようございます。昔はずっと音楽を聴いていました。ごはんを食べるときも、勉強をするときも、寝るときも。常にイヤホンからは音楽が鳴っていました。しかし、最近になってすこしずつ音楽を聴くことができなくなってきました。
たとえば、本を読んでいるとき。かつては何ともなかったのですが、どうしてなのか「音楽を聴きながら本を読む」ということができなくなってしまいました。ほかにも、今やっているような、文章を書くとき。これもまたかつては何ともなかったのですが、どうしてなのか「音楽を聴きながら文章を書く」ということができなくなってしまいました。
別に困ることはないのですが、どうしてできなくなってしまったのか、原因が気になります。複数の情報処理に脳が追いつかなくなってしまったのでしょうか。はたまた「本を読む」「文章を書く」という活動により集中するようになったのでしょうか。謎は深まるばかりです。いずれは音楽なんて聴かなくなってしまうのかもしれません。どうも、インクです。
わかりやすい説明は思考の機会を奪う
わかりやすい説明は思考の機会を奪う
— インク@小学校の先生 (@firesign_ink) 2020年3月16日
わかりやすく教える。これが学校の先生の仕事だと思っている人が案外たくさんいます。現職の先生たちだって「わかりやすい授業がしたい!」と言っています。たしかに、わかりづらい授業は嫌ですよね。要点をまったく押さえられていなかったり、なんども同じことをくり返し言っていたり。聞いているこちらがやきもきしてきます。
子どものころ、学校の先生の授業を聞きながらよく思っていました。ここはもっとこんなふうに説明すればいいのに。ここはもっとこんなふうに書けばわかりやすいのに。今思えば、なんて生意気なガキんちょなのでしょう。思っていただけで、口答えをしていたわけではないので許してください。
とまあ、そんなガキんちょが大人になって、今は小学校の先生をしているわけです。習うより慣れよとはよく言ったもので、やはり自分自身でやってみなければわからないことってたくさんあります。そんな経験の中で、授業についてこんなことを思ったのです。
子どものころから生意気でしたが、相変わらずですね。相当ひねくれています。でもね、だからこそおもしろいのです。今日は「どうしてこのように思ったのか」について、細かく、わかりやすくお話しできたらなと思っています。最後まで読んでいただけたら、不幸中の幸い極まりないぞということでやっていきましょうか。それでは、レッツラゴー。
「さあ、これから始まりますよ」という雰囲気を出しておきながら、すべてはこの記事のタイトルに書いてあるとおりです。そうです。わかりやすい説明は思考の機会を奪うのです。もうすこし詳しくお話しいたしましょう。
みなさんは「ラーニングピラミッド」と呼ばれる図を見たことがありますか。「アクティブラーニング」がまるで流行語かのように扱われていた数年前に、たくさん出回っていました。本当はもっと昔から存在している図なんですけどね。
そうそう、これこれ。これが「ラーニングピラミッド」です。大きいですよね。王の権威を示すために、紀元前2630年ごろにつくられたと言われています。これほどまでに均一な石材をどのようにして切り出したのか。その切り出した石材をどのようにして運んだのか。未だに謎が絶えず、議論が続けられています。生きているうちに、一度は実物を見てみたいものですね。
そんな「ラーニングピラミッド」を見てみると、学修定着率がもっとも低いのは「講義」だということがわかります。要は「話を聞いているだけ」の状態です。なんとなくイメージできますよね。先生がべらべらと喋っているのを聞くだけの授業。先生の話がおもしろければまだマシですが、おもしろくなければ一瞬で睡魔に襲われます。学修定着率が高いわけがありません。
要するに「わかりやすい授業」でも、これと同じことが起こるというわけです。先生の説明がわかりやすいと、子どもたちは考える必要がなくなります。だって、聞いているだけでいいんだもの。わざわざ自分でどうにかする必要がありません。ノートのまとめ方も、先生がわかりやすい最適解を黒板に書いてくれるので、それをそのままノートに写しておけばOKです。何も考える必要はありません。工夫する必要もありません。だって、すでにわかりやすいんだもの。
いかがでしょう。「わかりやすい授業は思考の機会を奪う」というタイトルの意味がすこしでもわかっていただけたでしょうか。先生たちは「わかりやすい授業がしたい!」とよく言いますが、一概にわかりやすい授業がよいとも限らないというわけです。
と、このような「問いかけの段落」は、ある意味読者に思考の機会を与えているということになります。説明的文章にはよく登場しますよね。問いかけの文。「読書」の学修定着率は20%だそうなので、問いかけることですこしでも読者の思考を促そうとしているというわけです。
「なんだ、わかりづらい授業でもいいんだ!」と思ったそこのあなた。それはそれで考えが甘すぎます。はじめにも述べたように、要点をまったく押さえられていなかったり、なんども同じことをくり返し言っていたりすると、聞いている側はやきもきしてきます。言い換えるならば、だんだんとムカついてくるのです。もう!わかりづらいな!もっと端的に説明してよ!という具合です。
では、どうすればよいのか。簡単です。教えなければよいのです。はじめから教えなければ、わかりやすいもわかりづらいもありません。ぜんぶ子どもたちに放り投げましょう。
「そんなことをしたら先生は要らなくなるじゃないか」と思ったそこのあなた。そのとおりです。先生なんて要りません。強いて言うならば、先生の役割は「何を放り投げるのかを決めること」です。それだけです。「わかりやすく教えること」ではありません。
「事細かに教えなければ子どもたちは学習することができない」という思い込みは、大人のエゴから生まれたものです。「子どもにとって自分が必要な存在なんだ」と思い込みたいだけです。それを「子どもたちのためだ」と言って正当化しようとするのは、あまりにもタチが悪いです。子どもたちをナメすぎです。
子どもたちは自ら学びます。自ら伸びようとします。何をどのように放り投げるのか。先生はそこだけに全力を注ぎ込めばよいのです。
友よ
よく覚えておきなさい
悪い草も悪い人間もない
育てる者が悪いだけだ