ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【土】人に評価されながら育つ子どもたちが人の評価を気にせずに生きていけるはずがない

 

 おはようございます。これまでは秘密にしていたのですが、実はこのブログの筆者である「インク」は5人います。5人の人間がアカウントを共有して、交代で記事を書いています。いや、やっぱり7人にします。7って縁起がいいですからね。ラッキー7です。だから、このブログの筆者である「インク」は7人います。先ほどの5人は忘れてください。7人の人間がアカウントを共有して交代で記事を書いています。どうも、6人目のインクです。

 

人に評価されながら育つ子どもたちが人の評価を気にせずに生きていけるはずがない

  教育業界では「褒めること」と「叱ること」について語られることがよくあります。褒めることが大切だとか、叱ることが大切だとか。人によって言っていることが少しずつ変わります。本屋さんの教育書コーナーに行けばこの類の本が山のようにあるはずです。

 これらの「褒める」「叱る」の根本にあるものは「善悪の教育」です。大人が褒めることによって、子どもは「それが善である」と思い込みます。大人が叱ることによって、子どもは「それが悪である」と思い込みます。要するに、褒めることや叱ることを通して価値判断の基準を刷り込んでいるというわけです。

 人を殴るたびに褒められれば、きっとその子どもは「人を殴ることは善いことなんだ」と思いながら育つでしょう。人を助けるたびに叱られれば、きっとその子どもは「人を助けることは悪いんだ」と思いながら育つでしょう。言うまでもありませんが、だから親の存在というものは大きいのです。いちど染みついた判断基準は、なかなかとれませんからね。

 

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 つまり、子どもに教える大人自身が善悪の判断基準をもっていなければならないということです。あなたにとっての「善」とはなんですか。あなたにとっての「悪」とはなんですか。突然そんなことを聞かれても、ぐぬぬ ...... となってしまいますよね。

 なぜ答えられないのかと言うと、ほとんどの基準が自分で考えたものではないからです。自身の親から刷り込まれたものであったり、単純に多くの人がそうだと言っているものであったり。みんなが「人を殴ることは悪いことだ」と言っているから、人を殴ることは「悪」に分類しよう。みんなが「人を助けることは善いことだ」と言っているから、人を助けることは「善」に分類しよう。

 人を殴ることは善なのか悪なのか。人を助けることは善なのか悪なのか。そんなことを改めて考えることなんてありません。なぜなら、それが「当たり前」だと教え込まれてきたからです。多くの人がそれを「当たり前」だと思い込むことで、世界が回っていくからです。

 

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 こんなことを言う先生がときどきいます。学級目標に掲げている先生すらいるのではないでしょうか。筆者自身もひとりの先生なわけですが、このことばは絶対につかいたくないなと思っています。学級目標に掲げるなんてもってのほかです。

 「当たり前のことを当たり前に」とは、要するに「とやかく言わずに黙ってやれ」という意味です。時間になったら着席することは善なのか悪なのか。そんなことはいちいち考えなくてもいい。時間になったら座るのが「当たり前」なんだ。だから、とやかく言わずに時間になったら座りなさい。授業中に静かにすることは善なのか悪なのか。そんなことはいちいち考えなくてもいい。授業中は静かにするのが「当たり前」なんだ。だから、とやかく言わずに授業が始まったら静かにしなさい。


 当たり前=思考停止


 しつこいですが「当たり前」とは、「考えるな」という意味です。 考えられると困る人がいるのです。「当たり前」だと思い込んくれていた方が都合のいい人がいるのです。時間になったら、何も考えずに着席してくれると都合がいいわけです。授業が始まったら、何も考えずに静かにしてくれると都合がいいわけです。だから先生は「当たり前のことを当たり前に」だなんてことを言い始めます。これを学級目標に掲げるって、要はこういうことですからね。

 

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 しかし、先ほども述べたようにこれらの「当たり前」によって世界が回っていることも事実です。ときどき凶悪な事件も起こりますが、日本では基本的に「人を殺すことは悪である」が当たり前だと思われています。だからこそ、マズローの欲求段階の下層にあたる「安全欲求」が保たれているわけです。変に「人を殺すことは善なのか悪なのか」を考え始め、仮に「善」だと判断する人がでてきてしまうと、大勢の人が困ることになるわけです。

 ただ、見方を変えれば 「人を殺すことは善なのか悪なのか」と考えたときに、自分で結論を導き出すことができる思考力を身につけておく必要があると言うこともできます。くり返しになりますが「当たり前」とは、その善悪判断の分岐点の手前で「立ち入り禁止」の看板を立てることを意味します。

 もしも、その看板に従って何も考えずに育ってきた子どもが、いざ大人になって分岐点の前に立たされると一体どうなってしまうでしょうか。なんの訓練も積まないままで正しい判断ができるのでしょうか。自分で進むべき道を選ぶことができるのでしょうか。

 現在の学校は、看板だらけです。もうこれでもかというくらい看板にまみれています。看板が大嫌いなさすらいの旅人スナフキンが、もし学校にやってきたら発狂してしまうのではないでしょうか。看板に従って「当たり前のことを当たり前に」と子どもたちに言ってきた大人が、この記事を読んで、ひとつでもいいから看板を取り除いてくれると嬉しいなと思います。

taishiowawa.hatenablog.com

 

 日本で「善悪」と言えば、真っ先に西田幾多郎が思い浮かびます。『善の研究』で有名な哲学者ですね。もともとは中学校の先生で、このようなことばをのこしています。

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 『善の研究』にチャレンジしていただいても構わないのですが、きっとほとんどの人が挫折すると思います。以下のサイトに「二項対立が実は根っこで繋がっている」という西田の考え方がわかりやすくまとめられているので、興味がある方はぜひ読んでみてください。

kotento.com