ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【金】技に溺れるな若者よ

 

 おはようございます。こうして毎日ブログを書いていると、人の生活リズムが少しずつ見えてきます。ひとつの大きな特徴として「火曜日にはアクセス数が伸びない」というものがあります。新しい1週間がはじまり、まだまだ先も長い火曜日です。きっと体力的にも精神的にも疲れている方が多いのでしょう。一方で、今日のような金曜日はアクセス数がぐんと伸びます。「あと1日がんばれば終わる」という精神的なゆとりがあるのでしょう。お仕事を終えてから読みにきてくださる方も多いのかもしれません。いずれにしても、筆者から言えることは「ただただありがとうございます」です。忙しさに関係なく「今日も読みにいこう」と思わせられるような文章を書いていけたらなと思っています。どうも、インクです。

 

技に溺れるな若者よ

  「あれはいらなかったな」と、授業を見にきてくださった校長先生に言われたことがあります。初任のころの話です。それは理科の授業でした。実験の中でグループのひとりが水を汲みに行く必要があったのですが、ただ汲みに行ってもおもしろくないなあと思いこんな指示を出しました。

 

 1分間あげるから「氵」がつく漢字を思いつく限り書いてごらん。グループの中でいちばん多く書けた人が水を汲みにいこう。

 

 「水を汲みに行く」というひとつの動作に、ゲーム性を加えたかったのです。しかし、そんな思いも裏腹に「あれはいらなかったな」と言われてしまいました。今思い返しても、たしかに「あれはいらなかったな」と思います。

 要するに、授業おける「おもしろい」を勘違いしていたのです。この理科の授業でおさえるべきポイントと「氵」がつく漢字にはなんの関連性もありません。それにも関わらず、表面的な「おもしろさ」のために、貴重な時間を割いてしまっていました。もちろん、時と場合によっては「レクリエーション」と呼ばれる遊びのような活動も必要です。しかし、それは本来の「学び」ではありません。

 授業中に子どもたちが感じる「おもしろさ」とは、真剣に学ぶからこそ得られる「学ぶことのおもしろさ」であるべきです。先ほどの理科の授業なら「水の性質を知ることのおもしろさ」であるべきなのです。「氵の漢字を何個書けるかを競うことのおもしろさ」ではありません。本来の目的を追求するのなら、余計なことはせずに、すばやく水を汲みに行くのが正解だったのでしょう。

 

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 小さな子どもは、足し算をするときに一生懸命指を折りながら計算します。「2+3=」という問題が出されたら、まず親指と人差し指を折り、そのあとに中指と薬指と小指を折って、答えが「5」であることに気がつきます。

 しかし、成長するにつれて、わざわざ指を折らなくても計算ができるようになります。それは、「10進法における足し算の概念」を理解することができるようになるからです。「2+3」も「42+18」も、根っこでは繋がっているということに気がつくのです。「しかもピースやんか」というところにまで気がついてくれたらいいのですが、さすがにそのレベルまで到達する子どもはほとんどいません。

 

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 先ほどの話に戻しましょう。要するに「氵の漢字をさがす」という活動は、掘り下げても本来の学びには繋がっていないということです。さくらんぼでいうところの切り離された果実です。食べたらおいしいのかもしれませんが、それはどこにも繋がっていません。若手ほど、このようなさくらんぼに食いつきがちです。赤くて丸くておいしそうなさくらんぼを手に入れようと、みんがが必死になります。しかし本当に大切なのは、さくらんぼの木の方です。木がしっかりしていなければ、おいしい果実は実りません。切り離された果実ばかりを見ていたら、もしかすると、木の存在にすら気がつかないということもあるのかもしれません。

 大人が子どもにしてやれることは、収穫したさくらんぼを食べさせてあげることではありません。果実がついた状態の木を見せてやることです。それぞれの果実が木につながっているということに気づかせることが大切です。さらに言えば、そんな木は地面から栄養を得ています。地面は広大な大地へと広がっています。これこそまさに「ピースやんか」です。あらゆる学びは大地を通して繋がっているのです。

 まずは先生自身がこれを理解しておかなければなりません。その上で、今の子どもたちに合った果実を選び、子どもたちの目の前で収穫できたらベストなのでしょう。そして、それを切り分けてみんなで食べるというわけです。仮に子どもたちの目の前で収穫ができなくとも、先生がいつも同じ木から果実を穫ってきていれば、子どもたちも時間を経て木の存在に気がつくはずです。しかし、先生が八百屋で売られている果実を買ってきて、子どもたちに配っているようでは、いつまで経っても木の存在には気がつきません。たしかに八百屋で売られている果実はおいしそうに見えるんですよ。思わず手に取ってしまうこともあります。ただし、そればかりではやはり本来の学びには繋がりません。先生は消費者ではなく収穫者であるべきなのです。技に溺れるな若者よ。

 

 

 こんなことを書きながら、自分の授業を振り返ってみると、まだまだ無駄が多いのだろうなと思います。不要な無駄を排除して、必要な無駄を追加する。永遠にこれの繰り返しです。長らく続けていると、だんだんと不要な無駄を排除することをやめてしまうようになります。これでいいんだと現状を維持しようとしてしまうのです。こうして教育は変わらなくなっていきます。まずは不要な無駄を排除する。これをしなければ何も始まらないのかもしれません。