ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【月】ちゃんとやった方が結局は楽

 

 おはようございます。2学期の終業式が近づいてきました。もしかすると、すでに冬休みに入っている学校もあるのかもしれません。うちのクラスでは、子どもたちがクリスマスパーティーという名のお楽しみ会を企んでいるようです。一切関与していないけれどどうなるかしら。当日は子どもたちの席に座って一緒に楽しみたいと思います。どうも、インクです。

 

ちゃんとやった方が結局は楽

 宿題。それは君が見た光。ぼくが見た希望。

 宿題。それはふれあいの心。幸せの宿の題。宿題。

 

 ふざけました。ごめんなさい。実際の宿題は、ただただ面倒くさいものです。とにかく早く終わらせたい。少なければ少ないほど嬉しい。身についているかどうかなんてどうだっていい。誰もが思ったことがあるでしょう。

 

 ああ、宿題なんてなければいいのに。

 

 そんなことを思いながらも、なんだかんだやり終えて翌朝には提出します。それが子どもの仕事だからです。だからこそ、子どもたちは効率をどこまでも追い求めます。漢字練習帳に部首だけを先にひたすら書いて、あとからつくりを書き足していった経験のある人も多いのではないでしょうか。答えを見ながら計算ドリルを完成させた人もいるでしょう。みんなこうして大人になっていくのです。

 そんな宿題の意義を改めて問い直し、宿題を完全撤廃した中学校が一時期話題になりましたね。その上に某メンタリストの配信が重なり、かなり賑わいました。ツイッター上では宿題論争が盛んに行われました。今ではもう下火というところでしょうか。なんだってそうです。誰かが行動を起こして結果を残すと「自分も同じように思っていたんだ!」という人たちが現れます。言うが易しというやつですね。

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 今日お話ししたいのは「宿題の意義」でも「言うが易し現象」でもありません。「ちゃんとやる」ということについてです。きっとこのブログを読んでくださっている方のほとんどは、宿題を「ちゃんとやってきた人」だと思います。…そうですよね?…ね?

 だから、もしかすると気持ちが分からないかもしれませんが、中には宿題を「ちゃんとやってこない人」もいるのです。めんどくさかったのか何なのか。宿題をちゃんとやらずに学校にやってきます。当然のことながらそんな人は先生に怒られて、休み時間も教室にひとりで残って宿題をします。きっと宿題をちゃんとやってきた皆さんはこう思うはずです。「なんでやってこないんだろう?」と。本当にそのとおりです。なんでやってこないのでしょう。

 

 ちゃんとやった方が結局は楽

 

 宿題さえ終えてしまえば何も気にすることなく思い切り遊べますし、不安な気持ちを抱くことなくぐっすりと眠ることができます。親に口うるさく言われることもありませんし、先生に咎められることもありません。やってきた宿題を提出する。たったこれだけです。ところが、宿題をちゃんとやらなければどうでしょう。まだやってないなあというモヤモヤを抱えながら、本来は自由であるはずの放課後を過ごさなければなりません。親からはいつまでも口うるさく言われますし、学校に行けば先生にも怒られます。ついには休み時間もなくなって、友だちと遊ぶことさえできません。お直しなんて食らったらもう最悪です。1日がそれだけで終わってしまいます。

 めんどくさいめんどくさいと言うけれど、結局はちゃんとやらない方がめんどくさいのです。何でもそうですが、ものごとにエネルギーが必要なのは「動き始め」です。止まっているところから動き始めるときに最もエネルギーをつかうのです。パソコンはいちいちシャットダウンせずにスリープ状態にしておいた方がいいと言われる理由はこれです。どこまで本当なのかは知りませんけどね。シャトルランがしんどいのも同じです。1回1回止まるからこそ、動くのがしんどくなるのです。

 要するに、完全に止まりきらずに毎日コンスタントに続ける方が楽だということです。このブログだって同じです。別に書くことをしんどいと思ったことは一度もありませんが、きっと1日、2日休むと、次に書き始めるときは腰がうんと重くなっているはずです。サボる人には子泣きじじいが取り憑きます。ゆっくりでも動き続ける人に、子泣きじじいが取り憑くことはありません。ちょっとくらいいいだろとサボってしまうと、結果的には、半分石化した子泣きじじいを取り払うという作業から始めなければならなくなります。怠惰は行き着くと勤勉になる。めんどくさいからこそ毎日やろうぜ。

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 わかりやすいので宿題を例に挙げましたが、筆者はこの記事を通して宿題の存在を肯定しているわけでも否定しているわけでもありません。宿題の価値についてはまた別の記事で書けたらいいなと思っています。だからどうか、子泣きじいさま。こんなところで泣き真似せずに、他のところへ行ってください。あんたにかまっている暇はありません。