ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【日】結局どこかには正反対のそれらしい意見が存在している

 

 おはようございます。昨日の記事「【土】理科の実験は可能性を狭めていく活動」が、なんと弊ブログの100記事目でした。そろそろだなとは思っていたのですが、まさか更新してから気がつくとは。100だから何かあるというわけでもないのですが、やはり達成感のようなものはありますね。それと同時に「100記事も書いたのにまだまだ何も変わらないなあ」とも思っています。昔から人と仲良くなるのには時間がかかるタイプでしたので、これからも気長に書いていこうと思います。ここまでのご愛読ありがとうございました。今後とも何卒よろしくお願いいたします。どうも、インクです。

 

結局どこかには正反対のそれらしい意見が存在している

  100記事更新に対して、「100記事も書くなんてすごい」と思う人と「100記事なんてまだまだこれから」と思う人がいるでしょう。このように、人はそれぞれ違うので、結局どこかには正反対の意見が存在することになります。それがもっともみつけやすいのは書店です。特に新書コーナーにいくと正反対のことを主張しているタイトルの本がすぐにみつかることでしょう。

 睡眠に関する主張なんて分かりやすいですよね。早寝早起きの価値を主張している人もいれば、寝る間も惜しんで働くことの価値を主張している人もいます。仕事論なども意見が分かれやすいです。ひとつの仕事を長く続けている人は「長く続けるからこそ分かることがある」と主張し、すぐに辞めた人は「辞めることで新しい世界が広がった」と主張します。

 要するに何が言いたいのかというと、「人は自分の過去を肯定するために言いたいことを言う」ということです。早起きを続けてきた人は、自分の過去を肯定するために、早起きはいいものだと信じ込みたいのです。同様に、寝る間も惜しんで働いてきた人は、自分の過去を肯定するために、睡眠時間を削るのはいいことだと信じ込みたいのです。仕事を長く続けている人もすぐに辞めた人も同じです。自分のこれまでの行いはよかったのだと信じ込みたいのです。そして、それだけでは不安だから「これでよかったんだよね?」と他の人に同意を求めたくなるのです。

 たったそれだけのことです。えらそうに語っている人も、実際にえらい人も、結局は同じです。自分がやってきたことが間違っていなかったと認めてほしいのです。どうしてもことばに棘があるようで申し訳ないのですが、何もそのような人たちを否定するつもりはありません。なぜなら筆者自身も同じだからです。同じように自分の過去を肯定したいと思っていますし、それをたくさんの人に認めてほしいとも思っています。簡単に言えば、承認欲求です。これがなければ、そもそもこんなブログを更新することもないでしょう。

  つまり、世に溢れている意見の多くは、正しいも間違いもあったものではありません。発言者自身の自己愛であり自己防衛の表れです。つまるところ、その意見を聞いてどうするかは結局自分で決めるしかないということです。仕事を長く続ければそれを肯定する未来が、仕事をすぐに辞めればそれを肯定する未来が待っているだけです。他人に決められることではないのです。

 一番こわいのは、自分の過去を肯定したくてもできない状況に陥ったときです。誰のせいにもできなくなって「自分だけが悪い」と思い始めると、人は危ない状態だと言えるでしょう。過去を失うということは、未来を失うということでもあります。「今を生きろ」だなんて薄っぺらいことばがありますが、過去に対する自信を失った人が今や未来に希望をもてるはずがありません。過去があるからこそ今があり未来があるのです。どれだけ悲惨でどれだけ苦しい過去であれ、「そんな過去があったからこそ今の自分がある」と価値づけすることが大切です。そして、その価値づけには他者の協力が必要なことも多いです。だからこそ「これでよかったんだよね?」と不安になっている人がいれば「それでよかったんだよ」とそばで言える人になりたいと思います。

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  記事を書き終わったら、いつもはじめから声に出して読むようにしています。声に出して読みやすい文章はいい文章であることが多いからです。もちろん今日の記事も声に出して読んでみているわけですが、自分で書いたにも関わらず、グサグサと突き刺さってくるものがありました。

  学校の先生は、子どもたちの「過去」を認め、一緒に「今」をつくりあげていくのが仕事です。「今」は、彼らが大人になったときに「過去」として思い出されます。そんなときに、疑うことなくはじめから肯定できる「過去」として思い出してくれたらなと願っています。

 とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない  誰もって大人はだよ  僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ  つまり、子供たちは走っているときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ。

J.D.サリンジャー(1984年)『ライ麦畑でつかまえて野崎孝訳、白水社、269ページ 

 

 

 

 

それでよかったんだよ